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元婚約者との話し合いを済ませた数日後、ロクサーヌはいつも通り執務室で仕事をしていた。
「大変だよ、ロクサーヌ」
ちっとも慌てていない様子のギヨームが、言葉だけ大変だと言って執務室にやってきた。
「叔父様、全然そうは見えないわ」
「うん。直接的には、大変じゃないからね。大変なのは、ロランくんだよ」
「ロラン?何かあったの?」
まさか仕事でへまをしたとか?でも、あのロランがそんな下手なことをするとは思えない。
もしくは、怪我とか。だったら、さすがに叔父がもっと緊迫した空気を出すだろう。こんなのんびりした感じではないはずだ。
「ダニエルが、ロランくんに突撃しようとしてるって。しかも、アネット付きで」
あはははは、とギヨームが楽しそうに笑っていた。
「ダニエルが?私とは関わらないって話をしたばかりなのに?」
「君には直接、関わっていないだろう?君との約束であって、ロランくんは対象外って理屈じゃないかな?」
植物仲間の少々の危機に、ギヨームはとても楽しそうにしている。
「百歩譲ってそうだとしても、何でアネット付きなのよ」
「ほら、彼女は君のものを取るのが好きな人だから。大方、ロランくんがほしくなったんだろう?一人じゃロランくんのところに行けないダニエルでも、二人なら心強いから行ったんじゃないかな」
「相変わらず悪趣味よね。それに今更アネットに引っかかる人なんているの?」
アネットの所業は、貴族の間ではそれなりに有名になってしまった。
何と言っても、ケンカを売った相手が侯爵で、他人の婚約者を取って結婚したはいいが、すぐに離婚したという経歴の持ち主だ。
年頃の子供を持つ親からは、特に警戒されている。
逆に婚約者が気に入らない女性たちが、アネットに婚約者を取ってもらおうと、こそっと紹介しているらしい。
「それで、叔父様、どこに行けばいいの?」
アネット付きでロランに突撃したダニエルを諫めに行かなければ、と思ってギヨームに聞いた。
「王宮の中にある騎士の訓練場」
「……アホなの?ダニエル。そんなとこでやらかしているの?」
「正確には、やらかそうとしている、だよ。友人が面白いから早く来た方がいいっていう知らせを、わざわざ急ぎの使者でくれたんだ。何でもロランくんの訓練が終わるのを、二人して待ってるそうだよ」
王宮の訓練場は、観客席が設けられていて、外部の人間でも手続きさえ踏めば見ることが出来る。
どうやらダニエルとアネットは、観客という形で王宮に入ったらしい。
「訓練の終了待ちって……。あの二人らしいずれっぷりね」
そういうことをやると、下手をしたら恥をかくだけなので、あまりおおっぴらにはやらない方がいいと思う。
「勝算でもあるのかな?」
「何も考えていないだけでしょう?」
机の上をさっと片付けると、のんびりしている叔父を引き連れて馬車へと乗り込んだ。
訓練を待っているのなら、ロランに突入する前にあの二人を捕まえられるかもしれない、そう思って王宮に着いてすぐに訓練場へ向かうと、ちょうど団長らしき人が締めの訓示をしている最中だった。
訓練場からほど近い席に問題の二人を見つけたので、そちらに向かおうとしたのだが、その手をギヨームが引いて止めた。
「叔父様?離してくださらない?」
「そうしてあげたいんだけど、ロクサーヌ、あそこを見て」
ギヨームにそっと促された方を見れば、あまり数は多くないが座って訓練を見ている観客たちに交じって、一人の男性があまり目立たない位置に立っていた。
いかにも出来る男という姿のその人は、宰相シモン。
「……宰相閣下?」
ロクサーヌの声が聞こえたようにシモンがこちらを見た。そして目が合うと軽く礼をされたので、ロクサーヌもあわてて礼をした。
なぜ、宰相閣下がこんなところに?
疑問はそのすぐ後のギヨームの言葉で解けた。
「問題は、彼の後ろにいる御方だよ」
御方?
よく見ればシモンの後ろには何人かの騎士がいて、その中心に頭からすっぽりと全身が隠れるくらいの長い布のようなものを被った人物がいた。
その人は、ロクサーヌたちに気が付いたのか、少しだけ布をずらして顔を見せてくれた。
そして、目が合うとにっこりと微笑んで手を振った。
「……え?陛下?」
「あぁ、女王陛下だ」
あまりに場違いで気さくな女王の姿に驚いたロクサーヌとギヨームは、一応、隠れている女王に合わせて小さな声でこそこそと話し始めた。
「どうして陛下がここに?」
「シモンくんがよこした知らせによれば、陛下は君の婚約について心配されていたそうだ。君の夫になる人間が、侯爵家を乗っ取ろうとする者では困るんだよ。だから、直接見に来られたんだろう。ロランくんが君に相応しくないと陛下が判断された場合は、陛下の命でこの婚約は解消されるだろうね」
「なら、ダニエルとアネットは……」
「ロランくんを見極める試金石ってとこかな?彼があの二人にどう対処するのかが、見極めのポイントになっているね」
「待って叔父様、それだと、私は何も手が出せない」
「手どころか口も出せないよ。私たちは、ここでロランくんを見守るしかない」
女王陛下まで出てきた以上、事はもはや侯爵家内で済む話ではなくなってきた。
というか、面白そうだから早く来いという手紙を王宮から急いで知らせてくれた叔父の友人が、宰相閣下だとは知らなかった。
どういう繋がりなのか、帰ってからちゃんと聞こう。
それよりも、今はロランのことだ。
「ちょうどいいじゃないか、ロクサーヌ。ロランくんを紹介したのは私だけど、私たちも見極めよう。彼が君に相応しいかどうか」
「侯爵の夫としては、合格だと思うけど……」
「違う違う、君に、だよ。侯爵家の入り婿くんじゃなくて、ロクサーヌの夫に相応しいかどうか、だよ」
ロランには、ぜひともロクサーヌの心の中にある鉄壁を壊してほしい。
侯爵という高くて固い壁の向こう側にいるロクサーヌ自身を、引っ張り出してほしい。
「まぁ、黙ってしばらく見ていよう」
訓示が終わり訓練の終了が告げられると、女王陛下一行に見られながらの侯爵家の入り婿候補の見極めが始まった。
「ロラン殿ですね?」
最初に動いたのは、ダニエルだった。
こうして見ると、体格差がすごい。
ダニエルとロランでは、当然ながらロランの方が大きい。ロランにしてみれば、ダニエルなどあっという間に倒せる相手だ。
「貴殿は?」
後ろの何か嫌な感じのする女性を引き連れた男に心当りのないロランは、素直に聞いた。
それに対してダニエルは、ロクサーヌの婚約者が自分のことを知らないということにイラッとした。
ロクサーヌの関係者なら当然自分のことを知っている、そう思っていたのだ。
だから、ロランが自分のことを知らないのに苛立った。
「ダニエルと言います。ロクサーヌの婚約者です」
知らないのならばこう言えば驚くと思い、元婚約者なのに、今でも婚約者のような言い方をした。
「あぁ、貴殿がそうか。ロクサーヌの元婚約者だな。君はもう、他の愛する女性と結婚したと聞いているよ」
正確にはすぐに離婚したとも聞いているのだが、相手が今でもロクサーヌの婚約者だと言い張るのなら、こっちもお前は結婚していると言うだけだ。
「な!ち、違う。今は独身だ!」
「へぇ、ロクサーヌと婚約破棄までして結婚した女性と、もう離婚したのか」
知ってるけど、あえて周りにも理解出来るようにそれなりの大きさの声で言った。
「だ、だから、ロクサーヌとやり直してもう一度、婚約者になったんだ!」
「こんな場所でよくそんな嘘を吐けるな。彼女から相談されたよ。元婚約者からの手紙が何通も届いて困るって。確か、婚約破棄の時の取り決めで、お互い二度と関わらない、という項目があったはずだが?」
「知らないのに何を言ってるんだ」
「ロクサーヌに書類を見せてもらったことがあるんだ。それと、君とロクサーヌはもう関係がない。呼び捨ては止めたまえ。彼女は侯爵で、君はただの伯爵家の子息でしかない。まぁ、君の籍がまだ実家にあればの話だが」
「ロクサーヌを返してくれ。ロクサーヌが許してくれたら、綺麗に収まるんだよ」
「何が収まるのかは知らないが、ロクサーヌが君を許すことはないと断言出来るよ」
聞こえてくる会話の内容に、ロクサーヌは頭を抱えたくなった。
ダニエルは、あそこまで自分勝手な人間だったのだろうか?
……だったのよね。だから、家同士の契約でもある婚約を、自分だけの意志で破棄したのだから。
「あの、ロラン様、ダニエルのことはともかく、ロクサーヌ様はひどい方ですよ!」
「君は?」
「わたし、アネットって言います」
「アネット?あぁ、君の元妻か。すごいな、離婚した元妻、それも婚約破棄の原因となった人物を連れて、元婚約者の今の婚約者に会いに来たのか?その上さらに、嘘まで吐いて。君は一体、何を考えてるんだ?」
ロランのその疑問は、この会話を聞いている人物全員の共通した疑問だった。
ロクサーヌがそっと高貴な御方の方を見ると、宰相閣下が笑いを堪えており、女王陛下が正体を隠すために身に纏っている長い布が揺れている。おそらく、中で声を出さないように笑っているのだ。
「ロラン様!絶対、ロクサーヌ様よりわたしの方が可愛いですよ。わたし、ロラン様なら離婚したりしないわよ」
「君に名前を呼ぶ許可は出していない。それくらい淑女教育を受けていれば分かることだろう?君、勉強したことはあるのかな?それとも、幼児を相手にする感じがいいのかな?」
ロランの言葉の意味を理解するのに、アネットはしばらくかかった。元々、それほど熱心に勉強なんてしていなかった。マナーは最低限覚えたが、自分の庇護欲をそそる可愛らしい容姿を自覚しているアネットは、今までどんな窮地に陥ろうとも男のお友達が助けてくれていたので、勉強よりも男性に甘えている方がいいと思っていた。
「えぇー、じゃあロラン様のことを呼べないじゃないですかぁ」
ロランがそう思うのならば、もっと可愛らしくすればいい。アネットが許可を求めれば、皆、喜んで許してくれたのだから。
「呼ばなくていい。関わることもしなくていい」
「なんでそんな意地悪言うんですか?あ、分かった。ロクサーヌ様ですね。ロクサーヌ様は、わたしが可愛いからいつも嫉妬してたんですよ。意地悪な人だし」
アネットに嫉妬したことなんて一度もないんだけど……、まして可愛いなんて、思ったこともないのよね、と聞いていたロクサーヌは言いたくなった。
でも、あの子には言葉を自分の都合がいいように取り違える才能があるから、言っても無駄なのだ。
アネットとロクサーヌが話した回数は、実際には二、三回くらいしかない。
それも、だいたいダニエルが一緒にいる時に、淑女としての行動をするように注意するくらいだった。
「アネット、ちょっと黙っていてくれないか?」
アネットを止めたのは、ダニエルだった。
さすがのダニエルでも、アネットの言動が色々とおかしいことに気が付いた。
恋に溺れていた頃は、そのずれた発言が可愛いと思っていたが、今は面倒くさいだけだ。
「ロラン殿、ロクサーヌを返してください」
「……ダニエル殿、ロクサーヌは物ではない。返すとか返さないとかいう存在じゃないんだ。君、ロクサーヌの気持ちをちゃんと考えているのか?」
「俺の方が色々と都合がいいじゃないか。俺は三男だからすぐに婿入り出来る。そっちは嫡男だろう?いくら弟がいるからって、そう簡単に爵位を渡すのか?ロクサーヌだって、その方が面倒がなくて侯爵家にとってもいいと思ってくれるはずだ」
「三男とか嫡男とかのことではなく、ロクサーヌ自身の気持ちだよ」
「ロクサーヌの?」
「当たり前だろう?君は、ロクサーヌを何だと思っているんだ?侯爵という以前に、彼女だって一人の意志ある人間だ。彼女の気持ちを優先するのは、当然のことだろう?侯爵としてではなく、ロクサーヌという女性の気持ちを考えたことがあるのか?と聞いているんだ」
ロランが怒ったように言ったその言葉に、ロクサーヌは呆然となった。
……私、という女性の気持ち……?
侯爵であるロクサーヌの気持ちなんて、誰も気にしていないと思っていた。
幼い頃から、ロクサーヌの気持ちなんてどうでもいい、侯爵として判断しろ、そうずっと言われて育ってきた。
何かを判断する時は、侯爵としての決断しかしてこなかった。
でもロランは、ロクサーヌの気持ちを考えろと言っている。
そんなの……そんなのは、自分でも考えたことないのに……。
自分を蔑ろにする教育をしたまま育てられて侯爵になり、当たり前のように自分の気持ちを押し殺してきた。
ロクサーヌという女性。
それはひどく新鮮で、そして鮮明に聞こえてきた言葉だった。
「……叔父様……」
「だからずっと言っているだろう?君はどうしたいのか、って」
ギヨームは姪の頭をぽんぽんとして、優しく微笑んだのだった。