⑤
ロランと別れたギヨームは、目的の人物の手がようやく空いたとの知らせが来たので、彼の執務室へと向かった。
「お元気そうでなによりです、宰相閣下」
「お久しぶりです、ギヨーム殿」
宰相シモンは、ギヨームの弟子とも言える人物だった。
彼はまだ十代だったクラリス王女の護衛になり、そしてやがて女王となる彼女を支えたいと願い、ギヨームに補佐としての教えを請いに来たのは、もう遠い昔の話だ。
今は宰相という地位にあり女王の信頼も厚い彼だが、未だにギヨームに対して敬意を払ってくれている。
「お茶でもいかがですか?」
「いえ。今、ロランくんのとこで頂いてきたので」
「あぁ、ロクサーヌ殿の婚約者になったんでしたっけ?」
「そうです」
「陛下も気になさっていたのですが、今度は上手くいきそうですか?」
「どうでしょう?ロクサーヌは、子供さえ出来ればいいという考えを捨てきれないでいるので」
「……別に熱烈な恋愛が必要なわけではないと思いますが。相手に対する愛情の形は、一つではありませんから」
シモンと妻は、夫婦というよりも、戦友のような関係だ。
妻は、クラリス女王に仕えていた侍女の一人だった。
シモンの最優先は女王だ。
そして、妻の最優先も女王だった。
だからこそ、二人は結婚して、女王を支えると決めたのだ。
……もし、シモンが女王と共に天馬に乗ってどこかに行ってしまっても、笑って見送ってくれるような妻だ。
「ロクサーヌは、侯爵としての自分にしか意味を見いだせていませんから。己を殺すことしか知らない」
「なるほど。ロクサーヌ殿は、中々面白い恋愛をしそうな気がしますよ」
興味津々といった感じの目をしたシモンに、ギヨームはくすりと笑った。
「だとしても、君ほどではないと思いますよ」
シモンが誰を想っているのかを知っているギヨームは、宰相だろうがかまわずに、余計な一言を言って微笑んだ。
順調に交際を進めているらしい妹は、今日もジェラールと出掛けるのだと、朝から着ていく服選びに余念がなかった。
ようやく服と髪型が決まり、そわそわしていると、花束を持ったジェラールが迎えに来て、二人で仲良く出掛けていった。
思えばダニエルと婚約していた時、あんな風に一緒のお出かけにウキウキした気持ちにはなったことがなかった。正直に言えば、残っている仕事をやりたい気持ちの方が強く、素直に楽しめていなかったと思う。
……そんな風にしか思っていなかった婚約者なんて、ダニエルはさぞ嫌だったわよね。
もっと手順を踏んでから婚約を解消してくれていたら、ダニエルとアネットも幸せになれていたのかもしれない。
「あ、でも、アネットは、私の婚約者を取りたかっただけだと思うけど?」
ロクサーヌには、アネットは、自分よりも身分が上の男性を落として、その婚約者を見下すのが好きな女性という感じに見えた。
男爵家の令嬢が侯爵の令嬢の婚約者を取る。
それだけで社交界でも噂になる。自分が目立って噂になるのが大好きな女性だったと思う。
代償を自分が支払うことになるのだと、気が付いていなかった。
ただ、自分は身分が上の女性より魅力があるのだと、知らしめたかったのだろう。
そんな女に見事に引っかかったダニエルに、ほとんど同情などない。
だが、ロクサーヌの態度にも問題はあったのだと、心が通じ合っている妹たちを見て反省していた。
「……会って、みようかな」
手元で弄んでいる物は、実家に忠告したにもかかわらず届いたポエム満載の手紙だ。
ダニエルに会ってきちんと話した方が、これから先のお互いのためにもいい気がした。
ロクサーヌはペンを取ると、ダニエルに手紙を書き始めたのだった。
「……ロクサーヌ」
久しぶりに会ったダニエルは、ずいぶんとやつれていた。
以前は衣装もピシッとした物を着ていたのだが、今は少しよれている。
苦労をしたのだろう。顔つきも昔とは違って見える。
甘さが抜けたような感じを受けた。
とはいえ、未だにポエムのような手紙を寄こして、捨てた婚約者に復縁を迫っているあたり、外見がいくら変わろうが、内面は全く変わっていないのだろう。
「お久しぶりですわ、ダニエル殿。私とあなたはもう婚約者ではありませんので、呼び捨てはご遠慮ください」
「す、すまない」
「お座りください」
ロクサーヌがダニエルとの会談の場に決めたのは、王都にある貴族たちがよく通うカフェの一室だった。貴族たちが来るだけあって、個室もあり、お菓子や紅茶なども充実していて美味しいと評判の店だ。
当然、秘密も守られる。
「もう一人来るので少しお待ちになって。今、お菓子を選んでもらっているの」
「もう一人?」
ダニエルの疑問の声と同時に、扉がノックされて一人の女性が入ってきた。
「ロクサーヌ様、やはり最初に見た焼き菓子が良いかと思います。それと、お菓子の詰め合わせを帰りに受け取れるようにしておいてほしいとお願いしてきました」
「ありがとう、アンジェラ。ミュリエルや屋敷の皆にも、食べさせてあげたいものね」
入ってきたのはアンジェラだった。
このカフェは、一階に色々な種類のお菓子が並んでいるので、そこから良さそうなのを選んで紅茶と一緒に持って来てもらえる仕組みになっている。
ロクサーヌは、普段からここのお菓子を宰相に差し入れしているというアンジェラに、今日のオススメのお菓子と屋敷へのお土産用のお菓子を選んでもらった。
宰相閣下は、ああ見えて甘党なのだ。
「ダニエル殿、こちらは妹の友人のアンジェラよ。彼女の後見は宰相閣下なの。ここでのあなたとの会話の証人になってもらいたくて、来てもらったの。あまり他の人に聞かれたくない話だけれど、あなたと二人で密室にいたとなるのも問題ですもの。その点、彼女は公正に証言してくれる。あなたにも私にも、忖度はしない子よ」
ロクサーヌがそう言ってアンジェラのことを紹介すると、アンジェラはダニエルに向かって一礼した。
「そ、そんなの信じられるか!第一、君の妹の友人だろう?君の味方をするに決まっている」
「あら、ダニエル殿、あなた、宰相閣下にまで牙を向くの?アンジェラは、宰相閣下に嘘を言ったりしないわ。きちんと見聞きしたことをそのまま伝えることが出来る子よ。彼女を疑うのは、閣下を疑うのと同じになってしまうわよ」
「ロクサーヌ!」
「呼び捨てにしないで。何度言えば覚えるのかしら?あぁ、アンジェラ。この会話もしっかりお伝えしておいてね?」
「はい。ロクサーヌ様。ダニエル様、どうぞお続けください。あなたの言葉を一言一句違わずに、閣下にお伝えしますので。ですが、お気を付けください。今の私は、閣下の目であり耳です。今この場で起きる出来事、発せられた言葉、全て閣下にご報告いたします」
アンジェラの言葉に、ダニエルは口をパクパクさせた。何を言っていいのか、分からなくなったようだ。当然ながら、これも報告対象だ。
「……申し訳なかった、ロクサーヌ、様」
婚約者でなくなったダニエルは、伯爵家の三男。ロクサーヌは侯爵その人。
身分差は当然ある。伯爵家の三男が呼び捨てにして良い人物ではない。
本来ならロクサーヌは、ダニエルが会うのさえままならぬ人なのだ。
「これから気を付けてくださいませ。さて、アンジェラも揃ったので、お話をはじめさせてもらいます。まず、ダニエル殿、この気持ちの悪い手紙を寄こすのはお止めください。先日、叔父から伯爵家に忠告させてもらったのですが、ダニエル殿には、届いていませんでしたか?」
「……いいえ、聞きました。ですが、あなたも俺のことを待っているって……、だから未だに独身なんだと聞きました」
「まぁ、面白い冗談を言う方がいるのね。正直あの時は、幼馴染との婚約破棄に落ち込みはしましたわ。だけど、今は何とも思っていないもの。独りでいたのは、単純に侯爵として仕事が忙しかったのと、侯爵である私を支えてくれない婚約者などいらないと思ったからよ。あなたと婚約していたおかげで学んだことの一つね」
皮肉ね、と笑うロクサーヌをダニエルは目を見開いて見ていた。
「ミュリエルの子供を養子にする予定だったけれど、どうやらそうもいかなくなって来たようだから、私も新しく婚約をしたところよ」
「え?だ、誰と」
「騎士のロラン殿。伯爵家の長男だけれど家督は次男に譲って、うちに婿入りしてくれることになっているの。すでに両家での話し合いは済んでいるわ」
「……嘘だ」
「こんなことで嘘を吐いてどうするのよ。すぐにバレるに決まっているわ。今回、私があなたに会いに来たのは、婚約破棄の時に、二度とお互い関わらないと決めたでしょう?あれをきちんと守ってほしいと伝えたかったことと、それから謝りたかったの」
「謝る?」
「えぇ、婚約していた時、私はあなたにあまりにも興味がなさ過ぎたと思って。昔から知っていると思って、成長したあなたとあまり向き合わなかったわ。ごめんなさい。もっと色々と話したり、出掛けたりするべきだったわね」
お互いに想い合っているミュリエルとジェラールを見ていると、自分が少しだけ情けなくなった。
幼馴染との婚約破棄に落ち込むなんて、自分がやってはいけないことだった。
だって、ダニエルにそこまで興味がなかったのだから。破棄された時も、将来の夫がいなくなったというよりも、将来の片腕がいなくなったといったいう感情だったのだ。
そんな風に思った自分を自覚した時、ミュリエルだけでなく、自分も侯爵家の教育に染まっていたのだな、と思ってそのことにさらに落ち込んだ。
欲しいのは、夫ではなく補佐だった。
本当に何の障害もなかったら、ギヨームと結婚したかった。
あの叔父なら、完璧に補佐してくれる。
ロランに叔父と同じことを求めるのは、酷というものだ。
彼はあくまでも騎士。
子供を二人くらい作ったら、好きなことをしてもらおうと思っている。
……ロクサーヌがもしダニエルとやり直したいと言ったら、身を引くつもりでいたのだ。
お互い都合が良い婚約者なだけで、そこの特別な感情などない。
ロランも縛られることなく自由に好きなことを出来るのならば、ロクサーヌの心など要らないだろう。
ロクサーヌが優先するのは、侯爵としての自分と後継者。
ロランが優先するのは、騎士としての自分と植物。
こう考えると、お互いが一番に成ることのない似合いの夫婦になれる気がした。
「アンジェラ」
「はい」
黙って聞いていたアンジェラにロクサーヌは話しかけた。
「聞いての通り、私たちの間には婚約破棄時の取り決めで、お互いに関わらないという約束があるの。私はダニエル殿に、それを守ってほしいと直接伝えたわ」
「はい。ロクサーヌ様はダニエル様に、新しい婚約者がいること、婚約していた時にあまり関わらなかったことに対する謝罪、それから、お互いに関わらないという約束を守って欲しい、以上三点を直接伝えられました」
「間違いないわ。ダニエル殿、返事をくださらない?」
復唱したアンジェラに微笑むと、ロクサーヌはダニエルに返事を求めた。
「……幼馴染だろう?もう一度、君とやり直したい。今なら、そっちの婚約だって破棄できるだろう!?俺とのことを考えてくれ!!」
ずいぶんと自分勝手なことを言う。
勝手に新しい女と盛り上がって婚約を破棄したくせに、今度は捨てた女に新しい男との婚約を破棄して自分とやり直せと言う。
滑稽だ。
あぁ、本当に、婚約していた時にもっときちんと話をして、関わっておくべきだった。
そうしたら、もっと早くにこの男と別れたのに。
「お断り。ご自分が簡単に婚約破棄したからといって、同じことを私に求めないで。私は、会って話した上で、ロラン殿を選んだのよ。そうそう、どうでも良いと思って調べたりしなかったのだけれど、あなたとアネットが離婚した理由は何?」
「アネットのことは関係ないだろう!」
「あるわよ。もし結婚したら、同じ理由で離婚するかもしれないもの。それに、私は当事者の一人よ。関係ないなんて言わないでちょうだい」
ロクサーヌの言葉に、ダニエルはうつむくと、ぼそっと離婚理由を告げた。
「……他人の物だったから、よく見えたそうだ。実際の俺は、一緒にいて楽しい男じゃない。俺を、次期侯爵という地位にあったロクサーヌから奪い取る算段をしていた時が、一番アネットが幸せで楽しかった時間だったそうだ」
「ずいぶんとお粗末な愛ね」
そんなことだろうとは思っていたが、アネットがロクサーヌの感じたままの女性だったことに、何となく感動さえ覚えた。
「今のあなたと一緒ね。他人の婚約者になった私がよく見えるだけでしょう?なら、あなたも、私にロラン殿との婚約破棄を迫っている今が一番楽しいのかしら?でも、私は何も楽しくないし、あなたの思惑に乗るつもりもないの。さ、返事は?」
アネットと一緒と言われて一瞬、頭がかっとなった。それは、ロクサーヌの言葉が、全てとは言わないが、ダニエルの気持ちの一部を完全に読み取っていたからだった。
だがもしここで問題を起こせば、今度は家からさえも見捨てられる。今はまだ、母がかばってくれているが、勝手にロクサーヌとの婚約を破棄した時、兄たちは激怒していた。これ以上、問題を起こせば本当に勘当される。
「…………分かった。もう、関わらない」
ダニエルはそう言うしかなかった。
「アンジェラ、聞いたわね。ダニエル殿は私に関わらない。もちろん私もダニエル殿に関わらない。閣下にそう報告してちょうだいね」
「そうですね。今の出来事をありのままお伝えしたいと思います」
「ふふ、よろしくね。では私とアンジェラはもう帰るわね。あなたは好きなだけここにいて構わないわよ。店員には伝えておくわ」
本当にもう二度と会うことがないであろうダニエルは、ロクサーヌの方を見ることもなく、うなだれながら頷いたのだった。