泥中のふたり
大学のサークルで前に書いたやつ。
これはもう本気にBLのつもりで書いた。
あのころふたりには不思議な力があった。
口を開かずともテレパシーみたいに分かり合えた。
毎日本当に楽しくて、空でも飛んでいるみたいだった。
「ただいまー」
今はどうだろう。ちゃんと話さなきゃいけないのに黙っている。したくてもできないことがある。
不思議な力をゆっくり失って、空を飛んでいたのにゆっくり高度が下がって、落ちた先がちょうど泥沼だったから──だから衝撃も感じなくて、知らないうちにずんずん泥の中に沈んでしまっている。
「おかえり」
「お土産あるよ。チョコムース」
「やったー」
チョコを食べれば、特にチョコのムースを食べればいつでも機嫌が良くなるのが勇陽だ。
「シロくん今日どこ行ってたの?」
「んー、友達と買い物」
「なんか買った?」
「セーター買った」
ケーキの箱の中身が崩れないようにゆっくりと、白太は冷蔵庫の前にたどり着く。重たい扉に隔たれた向こうの世界はひんやりしていて、ふたりぶんのカオスな食糧庫で、その中にムースを閉じ込めた。冷え切った空間の中でムースは、しかし固まることもなく、どろどろのまま在り続ける。
白太と勇陽が付き合い始めて三年経った。親元を離れ同居を始めてからは一年経った。
「早くご飯食べよう。今日はカレー。……食べるよね?」
「食べるよ。腹減ってるー」
「よかった」
勇陽の作るカレーにはジャガイモが入ってて、それが溶け出すからどろどろしている。
*
かつての記憶の方がむしろ、セピア調でなくてカラフルだった気がする。青春というだけあって空がとっても青くて、その中をふわふわ飛んでいた頃の話だ。
世界から隔絶されたふたりにも平等に空は広くて、そしてむしろ広すぎる空で勇陽と出会えたこと、白太はそれが「運命の出会い」であったのだとずっとずっと思っていた。例えば「勇陽が好き」と言葉にすることが不思議とできて、「僕も好きだよ」と聞けば、あとはもう何も言わなくたってよかった。
広い広い世界で自分と同じ、「同性が好き」な人と出会って結ばれて、なんかもう魔法のパワーが働いてるみたいな、笑いがあって涙があって──楽しかった、それはほんと。自分がゲイだって気づいてから、ずっと少しずつ苦しかった。その苦しみも全部、この時のためだったんだって思えるくらい、高校で勇陽と出会ってからの日々が白太にとっての宝物だった。
大学のために故郷を離れることになった。勇陽にぽろっとこぼしたことがある。俺たち付き合ってても、うちだと息苦しいから、いっそ親元を離れてみたいって。そしたら勇陽は背中を押すのだ。じゃあやってみたらいいんじゃないの、なんなら僕もついてくよ──って。実際すぐにそうなった。
白太が可能性に気づいたのは、同棲を始めて一年は経つ、数ヶ月前のことだった。単なるカップルのマンネリと言ってしまえばそうだけど。日常に溶け込むほどの関係になったんだと言えばそうだけど。でもそういうことじゃないんだ。
めっきり分からなくなった。自分が本当に勇陽のことが好きなのか。今更すぎるそんなことを疑うようになってしまった。
それはこの空がやっぱりめちゃくちゃに広くて、だけど案外いろんなものがあることにようやく気が付ける年齢になったからだった。雨が降れば土がぬかるんでどろどろになる、しかし故郷のそれよりもこの街の大地はコンクリートで逞しくて、代わりに泥はふたりの部屋に流れ込んでいた。
ちょっぴり大人になれば「そういう世界」があることも知る。都会に出たなら、それが結構すぐ近くにあることにも気づく。
白太と勇陽のふたりだけで作り上げた小世界の中で、じゃあ他の人たちはどんなふうなんだろう。と興味を抱いてしまう、白太はそういう人間だった。知ってしまったならもっと知りたいと思う、そういう気持ちでずっと勇陽と一緒にいて、きっと勇陽のことをある程度知り尽くしてしまった。
なのに今でもふたりの関係が続いているのは、惰性と言えばそうだし、単純に居心地は良かったのだ。
ここは青春の終着点、向こう見ずだったふたりの水槽、抜け出せない底無し沼にどろどろ、どろどろ。
それでももう一度浮かび上がって、空を飛びたいと思うことを果たして誰が咎めるだろうかと、そう言い訳して、白太はおめかししてその日は出かけた。
*
「シロタくん? はじめましてー」
「は、はい。はじめまして」
「緊張してる?」
「し、してます」
俺の名前、ほんとはシロタじゃなくてシラタって読むんです。
「えと……ダイキさん?」
「そう、ダイでいいよ。俺はシロタくんのことなんて呼べばいい?」
でもみんなにはあだ名で、シロって呼んでもらってます。だからあなたも──
「……じゃあ、そのままシロタで」
「おっけー。シロタくん今日はよろしくねぇ」
マッチングアプリで会った人。俺が初めて、自分と勇陽以外で、実際に目にしたゲイの人だった。
「お昼どうする? 何が好きー?」
カレー。
「あ、なんでも食べます。好き嫌いとかないんで」
「シロタくんはどんな人がタイプなのー?」
正直分からない。自分のこと好きになってくれたら、それで。
「うーん、年上の人っすかね。体デカくて……」
「そっか、じゃあマジでまだ経験ないんだねぇ」
……だって、勇陽が何も言わないから。何も求めないから。
「そ、そうっすね。そのうち経験してみたいとか、思わなくもないっすけど」
「ありがとうございました、今日は」
「こちらこそ、俺も楽しかった! 良ければまた会いたいな」
「あ、はい! 俺も、その……またぜひ、お会いしたいです」
「うん。シロタくん、すごいかわいいから遊べて嬉しかったー」
「かわいい、ですか」
「超かわいいよ。シロタくん、絶対こっちでモテるって。でも彼氏いないんでしょー?」
「……いない、です」
「ん。ほんとに、かわいいなぁ。ちょっとこっち、ほら、ね……?」
そういえば、勇陽と最後にキスをしたのはいつだったっけか。
*
日々は泥のようにゆったりと、白太はようやく自分たちが底なし沼のどろどろで溺れて動けなくなってるって、気づいたのだ。
上に向かって泳いでみた。いつか居た青い空へと、しかし泥が重たくて、やっと少し進めたのは一週間後のことだった。
「おかえりー」
「勇陽」
「ただいまは?」
「勇陽、お土産。チョコムース」
「え、また? まあ食べるけど。ありがとう」
「話があるんだ」
「……シロくん。後でいいよね? ご飯、麻婆豆腐」
次の日の分まで残った麻婆豆腐は鍋の中にどぷんとどろどろの沼を作り、食後のテーブルに、勇陽のぶんだけのチョコムースとスプーンを残して、ふたりは向かい合っていた。
「大事な話なんでしょ。シロくんはいつもそう、大事な話したい時は、食べ物で釣って、急に切り出して」
「……ごめん」
「え、いや別に。そんな責めるつもりで言ったわけじゃなくて」
「ううん、俺、勇陽に謝んないと。なにもかも」
スマホの画面、ギラギラした写真がずらっと並ぶ。
「これ見てほしい」
「なにこれ。男の人がいっぱい」
「ゲイのマッチングアプリ」
勇陽は何も言わなかった。怒るように熱くも、蔑むように冷たくもなく、ぬるく白太と目を合わせた。
「俺これに登録して、恋人いないって嘘ついて……それで。こないだ知らない男の人と遊んで、かわいいって言われて、キスした」
「キスだけ?」
「別れ際にキスされて……また会いたいって、言った」
「そっか」
勇陽は何も言わなかった。たださっきとは違って落ち着きはなくて、まごまごと黙っていた。
「だからまず、ごめん。俺、勇陽を裏切るみたいなことしたんだ。浮気だよ」
「言わなきゃ、バレなかったのに?」
「そう思ったけど。でも、色々考えてて、やっぱちゃんと伝えたくて」
昔は言わなくても分かっちゃったのにな。手を握ってほしいとか、一緒に行きたいとか、ふたりは空に煌めいて、ひとつの星になっていた。気づかないほどゆっくりふたりは堕ちていって、惰性混じりにずるっと日々を過ごしていた。
息苦しかった。白太も勇陽も。部屋の中が泥で満たされているからだ。
「俺、わかんないんだ。……勇陽のことが本当に好きなのか」
大好きなチョコムースを前にして、勇陽はまだ手をつけていなかった。
「初めて会う人なのに、一緒にいて楽しくて、かわいいって言われて照れたし、キスされたら嬉しくて。しょうもないお世辞で、挨拶みたいなもんとかだったりして、そうなんだろうけどさ。でもさ、だからさ、だから俺──」
「待って。やめろよシロくん、僕は」
「誰でも良かったんだと思う。男で、ゲイで……そうじゃなかったとしても、俺のこと受け入れて愛してくれるなら、誰でも良かったのかもしれない」
その相手が偶然勇陽だっただけで。
偶然の出会いではあれど、運命の出会いではなかったのかもしれなくて。
「……僕は好きだよ。シロくんのこと」
「うん」
「シロくんだけが好きなんだよ。高校で会ったときからずっと」
「知ってるよ。だから勇陽には、嘘つきたくないし隠し事もしたくない」
「だからって、さぁ。今まで一緒に過ごしてきて、そのぶんの僕の気持ちまで、ぜんぶ無かったことにするみたいなさぁ。そんなことまで、言わなくてもいいだろ」
どろどろ、どろどろ、目から、鼻から、耳から、ふたり体のあちこちから、なにかどろどろしたものが漏れているような。
「シロくんと一緒にいるだけで満たされるし、なんでもシロくんの望むようにしたい」
どぷり、勇陽はチョコムースにスプーンを乱暴に突き立てる。
「……って、シロくんが幸せならそれでいいと思ってたけど。なんか、そうでもなかったみたい。こんなことならもっと強引に僕の方向かせてたら良かった」
「できないよ、勇陽にはそんなこと」
「そうだね。無理だと思う。だから僕たちそのうち、ダメになるのかな。もしくはもうとっくにダメになってたか」
勇陽の手を離れて、突き立てられたスプーンはどろどろ少しずつムースに沈んで、やがて動かなくなった。
「それでも」
スプーンはもう一度、勇陽の手をもって動かされる。ムースを掬って、口元まで運ばれる。
「……それでも、僕は、シロくんと一緒にいられればそれでいいのに」
「俺は、俺は──それでも俺は──」
それでも、その後に。なんて言葉を継ごうとしたんだっけ。それでも夕陽と一緒にいたい。それでも一緒にいられない。どっちもきっといけるな。どっちを選ぼうとしたんだっけ、分からない。
そりゃそうだ、こんな半端な気持ちで。「それでも」なんて強すぎる言葉、簡単に使えるわけがなかったのだ。
「ごめん。クズでごめん。気づけなかったんだ、俺ずっと、自分と勇陽のことしか見えてなくて」
勇陽のことだって、もしかしたらきっと、ちゃんと見えて、
「あのねシロくん、覚えてる?」
……違う。
「付き合って最初のバレンタインのときに、シロくんが何渡せばいいかわかんないって言って、ふたりでさ。手繋いで──出かけて──」
街へ繰り出して、その時にチョコムース食べて、僕これ好きかもって勇陽が言って。ふたりで新しく見つけた、ふたりだけが知っていることだった。
「忘れるわけない」
勇陽のことだけは、ずっとちゃんと見えていたんだった。
だけどもう見えなかった。どういう気持ちで彼は、ムースをどろりと食べるのだろう。
*
「行ってきますー」
「うん。でも今日ご飯担当シロくんだからね」
「遅くなりそうだったらなんか買って帰るかも」
「りょーかい。いってらっしゃい」
「じゃ」
知らない人が待つ、知らない場所へ今日も行く。
結局のところ、それでもまた、空が飛びたいと思ってしまった。誰かと手を繋いで、この泥から抜け出して、また青い空に飛び出したかった。
その相手が誰で、どこにいるのか、白太にはまだ分からない。空にぷかぷか浮いているのか、あるいは──泥の中に埋もれているのか。
勇陽との生活はまだ続いていた。アプリ片手に白太は、この泥に埋もれた仮初の宿から探し物をする。青春みたいな高い青い空での、運命の出会いを、星の数ほどの男どもの中に。
底無し沼の泥に体を半分沈めて、白太は空を目指した。
テーマとしては、「学生が主役の恋愛ものってハッピーエンド風に終わってもその後一生幸せに関係が続くもんなの……?」というところにありました。続くのか、という疑問に対してたぶんそのままでは続かないだろう、としてのアンサーがこの小説だった気がします。
だからこそ本作のオチとして二人が辿り着いたのはあくまで関係性の更新であって、それから二人がどうなるかについては実は意外と意識してません。
このあと案外二人がヨリを戻す未来も普通に可能性としてあると思う、作者的に。




