角の無いイヌの肖像
Furry研究会部誌 No.11寄稿作品。
2023年の秋くらいに書いてたみたいです。
鏡の前で、泉茉子は今日も自分の頭を撫でた。艶めくブロンドの体毛はスルスルと肉球を滑っていって、唯一長く大きく垂れ下がる耳の付け根のみがその手の動きを阻んだ。光が差せば天使の輪が浮かび上がるような、つるりとして毛並みのいい丸い頭だった。
茉子は鏡の中の自分を見つめ、そして、耳以外に自らの頭の球面をでこぼこにするものが何も無いことを、今日もまた少し疎んだ。
頭の毛も、少しまた伸びてきたかもしれない。そろそろ切らなくてはいけない。換毛期だってもうすぐ訪れるはずだ。体毛はこうも日々成長を続けるのに、茉子の額にも頭頂にも耳の付け根にも何の突起は感じられなかった。そのこともまた、茉子の気分を少し悪くした。
茉子はただ、角が欲しかった。ゴールデンレトリバーの頭に一つでも二つでもとにかく、立派に聳える角が。
*
「おはよ茉子」
「おあよ」
「ねえ挨拶、雑」
「そーね」
さくらは、大きな角を頭に携えている。トナカイの角は重力に逆らい、複雑に枝分かれをしながらめきめき成長していく。自然な生え変わりに身を任せて、それ以外では角を切らずにそのままにしておくのが我が家のポリシーだ、とさくらがいつか得意気に語っていたのを茉子はよく覚えていた。さくらは、角をいつも自慢にしている。
秋だから、春に抜けたさくらの角が、また逞しく立派な姿を取り戻してきたころだった。
「もっかい言ってごらんなさい。はいオハヨウゴザイマス」
「んー、おはよーござーます」
「まあ、良し」
茉子は、さくらが後ろから駆け寄ってくるまで怠そうに朝の通学路を歩いていた。体の小さくはない茉子よりも更に大きなさくらの体、そしてその大きな角が、茉子の頭に影を作った。まだ若干の暑さが残る中、頭を突き刺す直射日光がなくなると、茉子の足取りも軽くなった心地がした。
「ねー、やった予習? 英語の」
「三割くらいやった。さくらは?」
「あたし四割」
「似たようなもんじゃん」
空き地にこれでもかと生い茂った雑草の酸っぱい匂いが、鼻にきて苦しい道だ。平日の間はいつもこの道を通る。たまに、休日にも。
あの草の中には食べられるものもある、小学生の頃はよく草むらに入っては食べていた──さくらがそんな風に語るのを、茉子はかつて聞いたことがあった。そういう逞しさが彼女の立派な体も角も作り上げているに違いないと茉子は考えてやまなかった。
「どうした、眠いの?」
「あ、ううん。なんでもない。眠いかも」
草むらを呆然と見つめながら歩く。例えば子供の頃のさくらに倣って、私があの雑草をモグモグ食べたなら、私の頭にもやがて角が生えてくるのだろうか──その答えがイイエでしかないことを茉子は当然知っている。そもそもそこらに生えている雑草なんて、お金でも貰わない限り食べるわけがない。三万円くらいくれるなら食べても良い。
「あー、明日木曜日かぁ」
茉子はそう呟いた。
「何かヤなことあるっけ、明日って」
「ある。うん、あるのよ」
「あったっけ。ラクじゃん、木曜の授業? というかその前に、水曜日の今日を頑張ればどうなの」
「英語めんどくさ」
「明日は英語ないんだからいいじゃん」
「英語の問題じゃなくてさぁ……」
茉子はひとつのことばかりを考えている。角のことと木曜日の明日のこと、それは結局のところ同じものだった。明日がやってくる。木曜日の美術の授業。明日から、自画像の授業が始まってしまうことが前もって予告されていた。
いつからかずっと頭に角を持たないことを疎んでいた茉子が、ここしばらく殊更にその角の問題を気にするようになっていたのは、その来たる木曜の自画像が原因なのだった。
茉子はスマホを手に取った。スリープ状態の画面が暗かった。
「あー、やめなよ歩きスマホ」
「さくらがいるから、別に危なくないでしょ」
暗い画面は鏡になって、角を持たない茉子の頭が綺麗に映り込んでいた。側面ボタンを叩いてスマホを起動して光を灯して、そんな鏡像をすぐさま消し去った。
*
アケメネス朝ペルシャを打ち破り、強大な帝国を築いたマケドニアのアレクサンドロス大王の額に、角が生えていたことなど皆知っている。彼の戦いを描いた有名なモザイク画でも、凛々しく見開かれた目のすぐそばの額から、立派な角が一本生えているのは、世界史の教科書にいつの時代も掲載されている。彼は馬であるにもかかわらず立派な角を持っていた。今でいう、ユニコーンだ。
歴史に残る偉人たち……特に武勲で名を馳せたような人物たちはしばしば、角を持っていた。肖像画ではもっぱらそう描かれていた。特に、それが古い時代の英雄であればあるほど顕著な傾向だ。前述のアレクサンドロス大王もそうだし、神話の時代に遡ればヘラクレスやペルセウス、史実なら始皇帝やカエサル、日本でも桃太郎などは、慣習的に角を携えて描かれた。彼らが本来角を持つ獣種であるかどうかなど、関係はなかった。
それらは長く、彼らの勇猛さを讃えるためにわざと、実際の姿に反しながらも角をつけて描かれたのだとされてきた。しかし近年では、古代の獣人たちには、今よりも広く角が生えている種が存在していたことが知られている──角を持つ英雄たちは、実際に角を持っていたのかもしれないのだ。例えばユニコーンも決して伝説的な存在ではなく、この世界に実在していたかもしれないのだ。獣人たちがその歴史の中で、角を持たない方向に進化を続けているというだけのことだった。
茉子はそういう歴史や生物のことを知っていたし、社会においてもそれらは一般常識であった。角を持つ獣人の方が今では少数派の、この現代社会で。
茉子の歴史の成績が妙にいいのは、いつも資料集をパラパラめくって、角の聳える古に思いを馳せているからかもしれない。ピラミッド、ストーンヘンジ、そして古代人の角。それらは茉子の中では同じ次元に伸びた神秘の先鋭だった。
そういう角への憧れを持ち始めたのがいつだったか、茉子自身よく覚えていない。確か、最初は純粋な憧れで、徐々にその気持ちが淀んで渦を巻き、偏執的とも言えるほどの憧れへといつしか変貌していたことだけ気づいている。
茉子は角が欲しかった。
彼女は、かっこいいから角が欲しいだけだった。同時にそれが、とことん子供っぽい感情であることにも、茉子は気づいている。だからその気持ちを誰にも言ったことはない。しきりに鏡を見ては、理想とかけ離れた自分に少し落胆して、仕方なく前を向いて生きていく。そういう日々を生きている。
*
それなのに、木曜日がやってきた。その日は、まじまじと鏡を見なければならない日だった。だから茉子は嫌だった。
過去何十年もの絵の具が染みついた美術室で、数人が鏡とにらめっこして、自分の顔をキャンバスに写し取るための準備をする。どうしてわざわざそんなことをしなければならないのか、茉子には分からなかった。コンプレックスまみれのもふもふしたばかりの顔が鏡に反射していた。キャンバスには、まだ何も書いていない。
「ねえ先生! どうしよ、角はみ出すんだけど!」
さくらは大声をあげて、美術の先生を呼びつけた。おじいちゃんの先生は、文字通り重い腰を上げるとゆっくり歩みを進めて、さくらのキャンバスを覗き込んだ。ついでに茉子もキャンバスを覗き込んだ。
鉛筆で書いた、楕円の集合体みたいな下書き。顔を示しているであろう大きな楕円が、キャンバスの上半分を少しはみ出すくらいからドンと中央に居座っていた。さらにその上部には二つの、顔と同じくらいの大きさになるであろう楕円が生えて、そしてその輪郭を閉じることがないまま、線はキャンバスからはみ出している。これが、おそらくはさくらの角なのだ。
「岩井さんは、どうなさりたいんですか」
アルパカのおじいちゃん先生は、茉子と同様の角など無い丸い頭で、楕円のさくらを見た。ベテランで老練な先生は、自分は角を持たないにしても、角のある者への助言には自信があるらしかった。
「どうって? あたしは、角も全部描きたいなって思いますけど、そしたら顔がちっちゃくなっちゃうし」
「角を顔に含めないというのは、角の無い獣人の自分勝手な基準でしかありませんからね。あなたにとって角は大事な自分の顔の一部であるなら、それは必要なスペースを取って大きく描くべきです。キャンバスの中に収めるというお題はありますが、逆に言うなら、キャンバスの中は自由にお使いなさい。先生はそういった創意工夫はなにより歓迎します」
「んなるほどー。じゃあ下書きやり直します。ありがと先生」
それを聞くと軽く微笑んで、先生は、よたよたと席に帰る。
「聞いてた茉子? 角も顔の一部だって。面白いね先生。あたし、角は角としか思ったことなかった」
「それは、私も」
「美術の人だからかな。ヘンなこと考えるよねー」
さくらは嬉しそうに話している。角を普段から自慢にしている彼女のことだ。先生の言葉もきっと、嬉しかったのかもしれない。
茉子もキャンバスに、三つの楕円を書いた。顔と、二つの耳だった。先生の言葉を借りて茉子が語るなら、それは顔のパーツを欠いた顔だった。
美術の授業、茉子は予想通り憂鬱だった。木曜に二コマ、これからしばらく、週に一度、鏡に映る自分の顔を凝視する羽目になる。頭蓋と角で画面を半々に分けるさくらの大胆な構図を尻目に、面白みのない自分の顔を、ちまちま書き込んだ。
その日の授業を、茉子は下書きに費やして終わった。いざ絵の具で色を乗せ始めると、その質感はとても濃厚で、べったりくっついて──一度手を付けるとやり直しがきかなくて、引き返せない。気がする。実際のところは知らないけど。美術には詳しくないし。
とにかく、自分のこの情けない顔を今後何週間にもわたって見つめて、絵画として見せびらかさなければならないのは苦しいことだ。
チャイムが鳴ると、茉子は急いで絵の具の匂いが染みた美術室から逃げ去った。
*
昔々、獣人たちの進化の始めに、角はもっとありふれていた。ネズミですらかつては角を持っていたというのだ。それでもきっと獣人たちは、直立二足歩行を始めるにつれて、角を不要としてきた。そうして進化の過程で捨ててきた。今は角を持つ獣人たちも、やがてはそれを捨てるのかもしれない。逆に今は角を持たない獣人も、かつては持っていたかもしれない。イヌも。
そうして角が希少な物になると同時に、そこには意味がこもり始めた。権威や力、異形、魔除け、男性性の象徴で、特別な何か。
茉子は鏡を見つめる。特別ではない顔がそこにはある。
その次の週も、鏡を見つめる。その次も、そのまた次も。
少しずつ塗り固められていく自画像は無駄に傑作だった。茉子の腑抜けた、締まりのない、角もない顔が妙に正確に写し取られている。自画像の授業は徐々に終わりに向かっていく。
美術の先生が言っていたことを、茉子は思い出す。角の無い獣人の側からの自分勝手な基準が、いつでも角に振りかざされる。
それでもさくらは──。角を誰より自慢にして、そして角が有っても無くても、彼女は彼女だった。角を誰より特別視して、そして特別視しない。
また、木曜がやってくる。自画像の授業、最終週が。
茉子の隣の席でさくらは毎週、さくらの肖像を描く。それが当然というふうに、角を持った顔がそこにある。
さくらは。……。あの子は、だから……。
……アレクサンドロスもヘラクレスも始皇帝も、実は全部関係ない。ピラミッドもストーンヘンジも何もかも、くだらないイメージはどうでもいい。権威も異形も、そんなものが欲しくてぐずってるわけじゃない。
どんな理屈を並べたって、茉子の角への気持ちが、外側の何かから説明が付くわけない。角に憧れることも、角が無いことが切なくて苦しくてたまらないことも。
「なんか、今日、だるい。風邪かも。学校休む」
朝、自分の部屋から出てすぐ親に、告げた。
そう言い残して茉子は、戻って寝た。仮病でも、心がどっと疲れたことは本当で、意識がとろとろぼやけていく。
ぼやけた空想の向こうに、いつかのさくらが居る気がする。角が無かった時の彼女だ。
*
さくらと茉子が出会ったのは厳密には中学の入学式で、それからちゃんと知り合う中学二年の春ごろまで、丸一年くらいかかった。
身長がただでさえ高めで、しかも角が生えていたさくらは、入学式の会場でも、校舎のいたるところでも、よく目立った。さくらの強気な性格も彼女の人気を後押しした。それでもクラスが違うから、これといった交流はなかった。
あの子、いいなあ。あんなにかっこいい角。
その当時既に茉子は、角への憧れを持っていた。今ほどひねくれてはいなかったけど。
そんな茉子が、さくらと初めて話したその時、さくらには角が生えていなかった。春の中頃、生え変わりの時期だったのだ。彼女のトレードマークとも言える大きな角が生えていなかったのに、茉子は廊下の向こうから歩いてくるのがさくらであると、すぐに分かった。
あれ、角……、そんなことを、つい茉子は口にしてしまった。トナカイの女性の角の生え変わりの時期など、知らなかったのだ。
するとさくらは足を止めて、茉子に語り掛けた。ああ、ちょうど今朝ね、抜けたの。生え変わりの時期で──そういうことを。
それからの会話は、具体的なことは覚えていない。岩井さくら、という彼女の名前を聞いて、泉茉子、という自分の名を名乗った。
クラスが違うなりに、茉子は一年、さくらを見つめてきたつもりだった。大きな角は否応なしに茉子の視線を吸い込んだ。そのうちさくらという人物自身に意識が向くようにもなったけど、一年前の同じ生え変わりの時期に、彼女を彼女と見抜けたかは怪しかったのだろう。
それでもやはり、彼女といえば角、と思っていたから、さくらの姿には驚いていた。彼女が角を自慢にしているらしいこともなんとなく知っていたから、それについて聞かずにはいられなかった。
さくらは──どこまでも前向きだった。生え変わらないよりもむしろ楽しくていいとか、毎年、次がどんな角になるか予想しているとか、取れた角もすべて取っているんだとか、角の喪失と再生にまつわるエピソードをいくつも語った。彼女と彼女の角をこっそり見つめるだけでは分からない、角のリアリティと彼女の輝きがそこにあった。そういう、今ではうろ覚えな、馴れ初めのやりとりがあった。それから徐々に中を深めて、三年で同じクラスになって大喜びして、高校まで同じところに進学する親友になることなど、その当時は知る由もない。
ただ、このやりとりの最後に、さくらが言ったことだけ、茉子は今でもはっきり覚えている。
「角が有るのも無いのも、あたしだけの誇りだからさ。大事にしたいの」
……そっか。
この言葉のせいだ。私が角に、こんなに執着するようになったの。
*
「あ、もしもし。茉子、風邪だいじょぶ?」
「それ、仮病。ずる休みこれ」
「え」
ちょうど目が覚めたころ、すっかり夜で、さくらが電話を寄こした。茉子は虚ろでぼんやりした頭で電話に出た。
「なんでぇ、珍しいじゃん。なんかあった?」
「美術が嫌で」
「えー嘘。楽じゃん美術?」
「自画像、ずっと嫌だった。私ね、自分の顔、コンプレックスなの。これ言ったことあったっけ」
「聞いたことはないけど、言われてみればって感じかも」
「そういうのって、やっぱわかるんだ」
「親友だし」
「あはは、ありがと。……さくらは、自画像終わった?」
「無理矢理終わらせた。なんかもう、角バァーッてして」
「そう、おつかれ」
「明日、学校来れそう?」
「行くよ。美術ないし」
……角、それはまあ欲しいよ。ずっとずっと変わらない。
でもそれ以上に茉子は、角が有るさくらのことが羨ましくてならなかった。角を持つ茉子と、同じところに立ちたかった。どれほど親友だって言い合っても、角の有ると無しとでは、見え方が絶対に違った。どれほど茉子がさくらを見つめても、それだけでは分からない何かが、角に込められている。
「でもさ、結局居残りしてでも絵完成させなきゃじゃん。それは大丈夫そう?」
「ん、多分もう大丈夫。なんとかする……というかどうせ、もうあとちょっとで終わっていいとこだと思う」
「けっこー上手かったもんね、茉子」
「さくらよりはね、流石に」
「あたしほんと、美術系だめ。嫌いなわけじゃないけど、才能終わってる」
「でも体育とかすごいんだし、バランスでしょ」
「そういうもん?」
角ってさ、かっこいいじゃん。それはそう。でも、それだけだよ。角自体に特別な意味なんて、他にない。それがものすごく大事なわけではあるけど。ああ、さくらは、かっこいいよなあ、ほんと。
だからこそ茉子は、角が有ることもそうだけど、角が無いことの方も気になって仕方がなかった。角を失っても笑っていられる、さくらのことが。
角が有るのは無条件でかっこいいことだとして、だとしたらその不在は特別に取り上げなくてはならないことに感じた。角が無くなっても、角がまた生えてくることを信じて、強く振る舞えるさくらは、茉子からしたらどうにも別の生き物だった。種族の違い以上の大きな溝だ。
「てかどうせズル休みするなら、今日が金曜ならよかった。明日行くのダル」
「しちゃう? 二連仮病」
「流石に、休むめんどくささ勝るかな。英語の予習範囲知らないし。どこだった?」
「忘れた~」
「やば。予習とかいう概念ない人」
「先のこと考えんのマジ無理、あたし」
「えー、じゃあ、さくらぁ」
「なーによ」
「将来のこと、考えてる? 大学どこ行きたい? 就職はどうする?」
「飛躍エグ。えー、だから全然考えてない」
「だよね。私も」
「先のことって分かんないよねえ」
「うん、わかんない」
さくらが、羨ましい。さくらは、さくらのことをいっぱい知ってるから。さくらの視界もさくらの時間も、どれほど一緒にいても、角が無い私には、きっと理解できない。そこが、羨ましくて、嫌で、ずっと……角が欲しかった。さくらと一緒に欲しかった。のかも。
大きな大きな時間の流れの中で、進化とかいう無粋な仕組みが捨て去ったものがいくつもある。何かが無くなって、何かが現れていく。そういう大きな、動き続けるものの中で、この時代が不変な気がする日々がある。鏡の中は、果たして毎週同じだったのか。換毛期が近づいて、茉子は抜け毛が多くなっていた。
「まあでもとりあえず、私たち親友よ」
「さっきも言ったじゃんそれ? うん、親友親友」
「これからも、親友よ」
「うん、これからも」
「それならよし。あーあ、じゃあそろそろ明日の準備しないと」
「え、待って、話したいことまだあんの。今日さ、数学でさあ」
「あーはい。じゃあ準備しながら聞く。勝手に話して」
「いやマジ、ちゃんと聞いてよ。今日すごかったんだって。茉子もいたらよかったのに。んでさあ、数学でさあ……」
これからの時間で、また獣人は進化を遂げて、今度はトナカイも角を喪失するかもしれない。逆に、イヌが角を獲得することすらあるかもしれない、あるいは。茉子が二十歳になった時、遺伝子の不思議な作用で、新たに角が生えるかもしれない。
さくらの今の角も、また次の春には抜け落ちてしまうみたいに、角を持たない茉子の今も、いつか角を得るまでの長いインターバルかもしれない。それが茉子が生きているうちのことか、何万世代の後のことかはともかくとして。
電話しながら、部屋の鏡を見つめて、茉子はぼんやり考えた。
頭がぼんやりしていたからこそ、鏡を見てもさほどの嫌悪は感じない。
そこにはただ一匹のイヌがいる。角が無い時代のイヌがいる。それだけ。
*
美術室。ひっそり展示された生徒の自画像。いくつか並ぶ、その中に、大きな角のトナカイと、金の毛並みのイヌ。
校舎の辺境すぎて、誰も敢えては見に来ない。そしてそこに封印されている。
あの日あの時。あの瞬間の私たち、あの時しかない私たち、が。
本誌のテーマが「しんか」とのことだったので、そういう話になっているかと。
思春期のコンプレックスの話なんですけど、せっかくなので登場人物が人間では成立しない話にしました。




