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いつもの感じで

ドBL

2025年7月の作品。

 学生なら二千円弱。社会人の今なら五千円弱。ただでさえ、卒業と同時に離れたはずのこの地に舞い戻るだけで、ちまちまとした交通費も嵩んでいるのに。いくつものコストを割増にしてでも、俺は「サヤカ」に毎月決まって訪れていた。


「……あ、こんにちは」 


 からんころんとドアが音を立てた。涼しい店内に、その人は立っていた。俺が予約して出向く時、決まって塩原さんが対応してくれるようにいつからかなっていた。今日は、特に他の客やスタッフなどもいないようだった。

 俺に挨拶をして、塩原さんは垂れ目をさらに引っ張ったように目を細め、ぎこちなくはにかんだ。

 出会った当初はそもそも笑みすら浮かべてくれなかったので、それだけでも俺の数年間の進歩が浮かび上がっていることになる。あの頃の、ぱっと見むすっとして印象の良くない塩原さんも当然、俺は第一印象から好ましく思ってはいたわけだが。


「いつもの感じでいいかな」


「もちろん、それで」


「はい、そしたら今日もよろしくお願いします」


 タメ語と敬語混じりのふわふわした口調で、塩原さんは言った。それも俺が数年かけて引き摺り出した彼の言葉だった。

 恰幅の良く背の高い塩原さんは、見た目に関しては大学時代に出会ってからあまり変わっていない。おとなしそうで、大きな体をいつも少し縮こませている、柔らかそうな風貌だ。印象の方は、これまで月に一度、一時間かからないほどの散髪を重ねていくうちに、徐々に変化していった。


 大学近くの理容店「サヤカ」は、学割でカットが破格の値段なのが売りだった。もっとオシャレな美容院に金を費やすことを好む学生だって多かったが、「サヤカ」にお世話になる者だって少なくはなかった。俺もここに初めて来た理由は、値段に心惹かれたからだ。そこまで技術やサービスの質に期待するわけでもなく、かといって千円カットに頼るのは不安の残る俺の癖毛は、こういう地域に寄り添っていそうな店で長い目で見てもらうのがいいかもしれない、という考えが確かにあった。


 「サヤカ」という店名は、店主のおばちゃんの下の名前から来ているらしい。塩原沙耶香さん。後に聞いた話だが、この店は、彼女の腕前の人気で成り立っているそうだ。しかし俺が初めて「サヤカ」を訪れた時に担当してくれたのは、まだ専門学校を出て間もない頃の、息子の塩原賢斗さんだった。陽気な沙耶香さんに比べ、どう見ても無口でおとなしそうな賢斗さんは、そう広くはない店内で大きな体を小さく丸めていた。

 沙耶香さんは、あのお客さんを担当するように、とそんな賢斗さんの背中をドンと押した。そうして賢斗さんと俺は出会った。早い話が、俺は賢斗さんの練習台にとあてがわれた客だったのである。そんなにも、そういう扱いの許されそうな、こだわりのなさそうな男に見えたのだろうか。当時の俺は。


「かゆいところ、ないですか」


 いつも俺を担当してくれるほうの塩原さんは、シャンプーの時いつも決まってそう尋ねる。もしここで、かゆいところがある、と答えたら、塩原さんは掻いてくれるのだろうか。大きくて、ゴツゴツとした太い指で。小さな鋏を、大きな手で塩原さんはいつも器用に使っていた。……いや、嘘。最初の頃はまだいくらか不器用そうだった。


「ないでーす」


「はーい……」


 かゆいところ、あります。塩原さんの手で、触れて欲しいです。もっと俺に。思い切ってそういう気持ちを伝える機会を、俺は逃し続けて何年も経つ。


 今思えば、最初の塩原さんがむすっとしていた理由はよく分かる。彼はただ単に緊張していたのだ。大きな手に見合った大きな体で、あんまりにもしかめっ面で、いかにもカラッと明るいおばちゃん風の沙耶香さんと同じ店にいるのが信じ難いくらいだった。在学中何度も通い詰めるうちに、塩原さんも仕事に慣れたのか、もしくは俺に慣れたのか、彼の表情や態度は徐々に緩んでいくことになる。最初はズンとした硬くて大きい冷蔵庫のように見えていた彼の巨躯ですらも、今ではキングサイズのふかふかのベッドのように感じられる。それも、別に、どちらの方が好きとかではなかった。あまり。強いて言えばどっちも。


 カットのために塩原さんが俺の背面に立つと、彼のふくよかな腹が背中や後頭部にいつも軽く触れる。そして手は頭に添えられて、頭頂からもみあげ、襟首までを優しく動いていく。

 それが、気持ちいい。力の強そうな体が、俺の頭を愛おしげに撫でるみたいにするのが、ゾクゾクと気持ちよくて、いつも嬉しかった。最初の頃でさえ、鋏を持つ手は強張った風でも、俺に触れてくれる手つきは優しかった。


 最初の時、あんまりにも短く髪を切られすぎた。俺は失敗されたなぁ、と思ったけど、塩原さんは一仕事やり遂げたと言わんばかりに若干顔を緩ませて、額の汗を拭っていた。


 ……なんか、いいなって思ったんだ。それから「サヤカ」に通うようになって、塩原さんとも少しずつ距離を縮めた。俺も、塩原さんも、あんまりお喋りではなかったから、施術中もいくつかの決まり文句と、ごく稀にほんの簡単な雑談が挟まる程度のやり取りがずっと続いた。


 塩原さんに任せると、いつも髪はすごく短くされた。その髪型すらも、いつしか俺は好むようになっていった。

 今日も鏡の中に、塩原さんに手がけられた俺がいる。すっきりと髪の短い俺。大学を卒業して、寮を引き払って、社会人になってこの辺りを離れた今でも、散髪を終えたこの瞬間だけは、変わらず学生時代を延長しているみたいだった。


「どうでしょう」


「いい感じです。今日も、ありがとうございました」


「こちらこそ。いつもありがとうございます」


 三面鏡の中の俺たちが俺をぐるぐる取り囲んでいる。この短さ、好きだけど、本当はもう少し長めなのにも憧れはあった。これはきっと塩原さんとは関係ないかもしれない俺の話で、そしてまた塩原さんに対して言い逃し続けてきたことだった。


 塩原さんに案内されるまま、俺は席を立つ。カバンから財布を取り出して、ずいぶん高くなったカット代を支払う。それでもこのかけがえない時間の維持費として、文句はないくらいの額だ。

 会計を済ませたら、今日もまた俺の安らぎのひとときは終わってしまう。次またここに来るのはきっと来月くらいになって、俺は学生時代から何年も塩原さんとそんな関係を構築してきた。それを今更断ち切るのが嫌で仕方ないから、まだ通い続けている。そんな同じことの繰り返しを俺は今後もずっと維持していくことになるんだろう。長居するのも、店に迷惑だ。あとはまた来月に期待して、俺は立ち去る──立ち去ろうとした。


「あの、拓海くん」


「えっ、はい」


 塩原さんに背を向けようとした瞬間、彼は俺の名前を呼んだ。滅多にないことだったから、驚いた。彼のいつも眠たげに垂れた瞳が、俺をまっすぐ見つめていた。

 塩原さんは、それからおずおずと次の言葉を続ける。


「その、実は一つだけ、聞きたいことがあったんだ。最近のこと」


「なんでしょう」


「ええと……きみ、もうこっちには住んでないんだよね。なのにどうして、まだウチに来るの?」


「どうしてって……」


「あ、違う、ごめん。言い方、間違えました。その……ちょっと前言ってたよね。卒業してから、今住んでるところの話。そっちにもいい美容院とかいっぱいあると思う……のに、どうしてまだウチに来てくれるのかなって。それだけです。ごめんなさい……急に」


 塩原さんはたちまちばつが悪そうにして、視線を逸らす。突然あたふたとあれこれ喋りすぎたことを恥じて、取り繕うように。


「ほんとに、ほんとにごめんなさい。そんなの、深掘りして聞くべきじゃなかった。プライバシーとか、その、ダメですよね。ごめんなさいやっぱり、今のは……」


 どうして彼がそんなことを聞きたがるのか、俺には理解できなかった。こうだったらいいな、という考えはあったけど、それが本当に彼の真意であるかどうかなど分かるわけもない、でも。


「賢斗さんがいいからですよ。理由、それです」


 でも俺の、積年の想いを静かに爆発させるには、賢斗さんのこのいじらしい態度ではちょっと十分すぎたらしい。頭の中でずっと溜め込んでいた言葉が、なんの躊躇いもなく噴出した。


「……それ」


「俺の髪切るって、頭触ってくれるの……賢斗さんがいいんです。賢斗さんに触れられてるの、優しくて、気持ちよくて、俺好きなんです。賢斗さん以外じゃきっと嫌なんですよ。それだけです」


「そ、そうか。そうなんだ。えー、それは、嬉しいです。はい……」


 賢斗さんはやはり目を逸らしたままで、それでも彼の顔がみるみる赤くなっていくのを俺は見逃さなかった。今度は俺が賢斗さんをまっすぐ見つめている。やがて、彼の大きな手まで、真っ赤に染まった。賢斗さんはまるで何も言わず、大きな体を縮こませて丸まっていた。


 レジ台の上に所在なげに放り出されて小さく震えるその手に、俺は自分の手を重ねた。柔らかい、感触がする。

 賢斗さんはハッとして顔を上げると俺を見た。シャンプーの時も当然、カットの時も鏡越しですら、会計の時であっても不思議と、普段は全くズレている俺たちの視線が、この時合った。


「また来ます。次は、もっと髪長めに残してください。ちょっと伸びたらすぐ来るようにします。そしたら、来る頻度上がるでしょ」


 今日も今日とて賢斗さんにざっくりいかれた髪を片手でいじって、俺はそう言った。もう片手は賢斗さんの手を握ったまま。暖かい。ずっと触れていたい温もりがそこにある。


「それは、その、だめです」


 意外にも、賢斗さんは、そう断言した。こういう強い言葉を使う彼を、俺は初めて聞いたかもしれなかった。


「だめなんですか?」


「拓海くんは、その長さが似合うと思うから。……ううん。僕が、その長さが好きなんです。その、そういう、拓海くんが。それで勝手に、いつも、そうしてて……」


 そう言われて、俺は面食らって、俺は……


「分かりました」


 分からない。

 賢斗さんの言葉。それどういう意味で。俺の顔。きっと賢斗さんと同じくらい、赤いだろう。手も。暑くなってくる。


「……じゃあ、じゃあその、賢斗さんの好きな髪型、これからも賢斗さんが維持してください。絶対ですよ。俺、何度も来ますからね」


「はい、待ってます……あの、またぜひ!」


 またぜひ、と言うのも、賢斗さんの決まり文句だった。いつもより妙に力が入ったような声だったけど。

 俺は「サヤカ」を後にした。毛量がだいぶ減って、軽く涼しげになったはずなのに、火照って仕方ない。

 次この店に来る時のことを考える。大きなことは、きっと何も変わらない。賢斗さんは変わらず俺に優しくて、そして髪を大胆に短く切っていく。いつもの感じに。

 それでももし、俺の髪をシャンプーする、撫で付ける、くりくりといじる塩原賢斗さんの手が、これまでよりもさらに柔らかになっていたら、とてもたまらないだろうと思った。

美容院行くたびにこれオレの髪触ったり頭皮マッサージしたりする美容師さんがオレ好みの男性だったらビビるくらい沼ってるだろうなというカスの実感があったため、そういう話を書いた


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