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エイの来る街

大学時代のやつ。


 ここは海抜ゼロメートル地帯。埋立地。

 低い土地で、高いマンションを求める矛盾。

 あちこちに川と橋が多い街だ。川は、時折白い泡の浮かぶ底の見えない臭いドブ川でしかない。それでも川には生き物がいる。埋立地。海に近い水。小さなハゼは泥の川底を這い回って、時折クラゲは川面を満たした。

 今朝はエイがいた。これまでにも見たことがないわけではないけど、それは少しだけ珍しいことだった。海から迷い込んだエイはドブ川を泳ぐ。何を探すのかエイはそこらをぐるぐる回って、やがて海へと帰っていく。

 それが今日の通学時の出来事だった。エイが遠くに過ぎ去るまで見送っても、学校には遅刻しなかった。早く学校に行って朝から自習がしたいんだと言えば、両親は喜んで早朝から僕を送り出すのだ。マンションのエレベーターがすごく混む時間があるからそれを避ける意味もあったけど、あんまり家にいたくないのが本音だった。親はいつもうるさいから。今日も僕は早くに家から逃げ出して、通学路に全部で三つある橋から、汚い川を順番にしばらく覗いて回る。そこで僅かに暮らす生き物たちを見つけるのが好きだった。だから今日は当たりの日。

 エイも、こんな朝から行って帰らないで、もっと川に居着いてくれたらいいのに。そうしたらみんなマンションの突き刺さる空よりも、エイのいる川に夢中になってくれるはずなのに。でも嫌か、エイも人も。川汚いし。



 塾から帰るとすっかり陽が落ちているよ。地上から高層まで建物の窓から漏れる光の粒がまばらに街を照らすから、完璧な真っ暗は訪れない街だ。それでも暗い。マンションが影を落とす。

 海の方へとほんの数分歩けば商業施設の立ち並ぶこの街も、今この近辺はマンションと川だらけで、そのくせして全部ひっくるめた広い範囲が堤防に守られて、外部から切り離されたひとつの島見たいな区域だ。

 工事現場もこの街の名物だった。埋立地の不安な大地を掘り返して、にょきにょき生えてくるのはタワーマンションだ。それらは高さを競って、また街を覆っていく。時には商業施設が生えてくることもあったけど、それまた既存の施設との競争を行う。

 暗くなればそんな工事も息を潜める。逆に言えば、明るいうちはいつも小さく工事の音がする。大きな音がすればあちこちから顔を出した住民たちに叱られる。工事じゃなくて人間が大きい音を出してもきっと怒られる。例えば僕が今街の静寂をぶち壊して何か叫べば、警察だって呼ばれるかもしれない。

 夜の光は川面まで届かない。川を覗いたところで何も見えない。時折微かに聞こえる水音が、本当に生き物が立てた音なのかも分からない。


「なにかいるの」


 そう声をかけられても、僕は激しくは驚かなかった。ちょっぴりしか。彼女はさっきまで、塾で僕と同じ授業を受けていた子だったから。

 入塾テストがいい成績で、今日が初めての授業だったそうだ。もしかしたら、この街に越してきたのも最近なのかもしれない。だってここらの子供はみんな塾通いだ。夜の街を、いろんな年齢の子供たちがばらばらに歩く時間。友達と一緒に帰る子もいたけど、それでもどこかばらばらだった。僕も彼女も、一人で歩いていてもさっぱり奇妙なことではない。それでも僕が歩かずに黒い川の闇を見ていたのは多分奇妙だし、それを気にかけた彼女もそう。


「今は暗くて何も見えない。今朝はエイがいたけど」


 何も見えないのに、何を見てたんだっけ、そういえば。でも朝にエイがいたのは事実だ。僕はもしかしたら、エイの面影を見ていたのかもしれない。


「エイ。すごい。私はエイって好きだな。昔沖縄の水族館で見たんだ、マンタ。マンタのぬいぐるみも買ってもらった」


「マンタみたいな立派でかわいいエイじゃないよ。アカエイ。ゴツくて、毒もある」


「アカエイ嫌い?」


「ううん、好き。水に棲む生き物はみんな好き」


「いいね。私は海が好きなんだ」


 彼女も何も見えない川の中を見ている。そこにエイの面影を見ているのだろうか。


「名前なんだっけ。授業中呼ばれてたよね。私は藤寺あかね」


「僕、尾辻航。よろしく」


「よろしく。尾辻くんはいつも川見てるの?」


「通る時はいつもね。朝とか、今とか、学校から帰る時も」


「私もそうしようかな。エイ見てみたいし」


「たまにしか来ないよ。それに川汚いし」


「良いよ別に。私、いままで川が綺麗なところに住んだことない」


 僕も、実はそうだ。



 藤寺さんとは学校が違っていても塾が同じで、それからマンションも同じだった。偶然道で会うこともあれば、約束して会うこともあった。よく二人で川にエイを探した。

藤寺さんの部屋は十階で、僕は二十階。僕が彼女と仲良くなったのを知った親が、彼女の階について僕に尋ねたことがある。その時親がどんな顔で何を言ったかなんて、すごくどうでもいい。少なくとも僕の中ではその数字は何の意味も持たなかった。ただ藤寺さんにとっては違うらしい。


「私は高い階の方がいいと思うけどなぁ。それこそ尾辻くんの部屋くらい」


「いいことないよ。エレベーター使わなきゃ何もできないし、地震が来るとすごく怖い」


「そういうの全部諦めてでも、できるなら私は一番上の階がいい。眺めがいいのが一番いいよ」


 また塾の帰りに、川の闇を覗きながら藤寺さんと話していた。今日はドブの匂いが、いつもより強くツンと鼻を刺す。


「なにがそんなに見たいの?」


「海が見たい」


「海も汚いよ。この辺」


「汚くてもいい。上から見て、果てが無いくらいに広ければそれでいいの。広ければもう海」


「じゃあもしハワイのマンションとかに住めるってなったら、藤寺さんはそうする?」


「将来的にはそうかも。でもすぐには嫌かな。まだエイ見てないし」


「エイ、そんなに大事?」


「大事だよ。多分尾辻くんが思ってるよりずっと。タワーマンションがあって、海があって、川が汚くてもそこにエイがいるなら。えっとね」


 そう言ったあと、藤寺さんは少し考えるようにしかめ面をする。ぱっと表情を緩めると、それから次の言葉を繋げる。


「自分でもよくわかんないけど、この街にエイが来てくれるなら、ここで頑張って生きていく価値あるよ。それなら頑張って、タワマンの頂上まで上り詰めてやろうって気になる」


 藤寺さんは笑った。藤寺さんの言うことは、僕には相容れないところもあったけど、嫌ではなかった。


「私はこの街が好きだよ。ギラギラしてて汚いけど、でもちゃんと生きてる感じするから。尾辻くんも、好きなんじゃないの? だからこの街でエイを待つんでしょ?」


 工事現場はまた増えていた。生えている最中のマンションが三つほどあった。まだ何ができるのか不明の工事現場もあった。エイは次にいつ来るだろうか。それまでにいくつの工事現場が消えて、生まれて、埋立地の街を飾っていくのだろうか。


「そんなことないよ。たぶん」



 そういえばこの街の何が嫌いなんだっけ。

 この辺は海抜ゼロメートル地帯らしい。それは確かに気持ち悪くて恐ろしい。自然の不思議に堤防なんてもので無理矢理抵抗しているのがすごく歪に思える。台風の日は気が気でなくなることもある。でも本質はそこじゃない。

 埋立地というのが妙に足元をざわつかせて仕方なかった。津波とか液状化現象とか、現実的なリスクだってきっといっぱい挙げられる。でもそれが気に食わないのではない。

 マンションの階とかゆとりのある生活とかを親は気にしている。親は僕にもいろんなことを気にして、塾や習い事に行かせてばかりだった。でもそれはあまり嫌々やっているわけではなかったのだ。家にいなくていいのは気が楽だった。

 工事現場ばっかりだった。飽きもせず新しい建物がどんどん出現していく。それに誘われて街に人が増えていく。そしたらまた工事が始まる。でもだから何だ。騒音も僕は気にならなかった。

 やっぱり、川が汚い。本当は生き物なんかよりゴミの方がよく見つかる。ちゃんと排水が処理されているのかも疑わしい。でも──僕はいつもそんな川をわざわざ覗きこんでいる。水棲生物が見たくて、わざわざこんな川を選んでいる。なんでだっけ。すぐそばにあるからとかじゃなくて。ハゼやクラゲやエイをたまに見れるだけのことの何がそんなに気にかかるんだっけ。

 毎日毎日いろいろ考えて、この街の嫌なところなんていくらでも思いつくのに、この街が嫌いな理由が分からなかった。それでも僕は、川を見ていた。藤寺さんも川を見ていて、僕たちはたまに一緒に川を見た。


「おはよ」


「おはよう。今日早いね」


「なんか早起きしちゃったから、今なら急げば尾辻くんいるかもなって」


 そうなることに理由はない、ある時刻に僕や藤寺さんが川に来るのもエイが川に来るのも偶然で、そういう偶然がその日、久しぶりにちょうど重なった。また朝の通学路でのことだった。僕たちは街の汚い川に、エイを見た。

 茶色いばかりに少し緑がかったみたいな色の、洗剤の腐ったみたいな匂いの川に、砂に紛れるのが上手な薄っぺらいアカエイがいる。


「あれエイだ」


「え、ほんと」


 アカエイは、薄っぺらい砂の島だ。川の中に砂の島が作られて浮かんでいる。不安定な、それでも平たくて、小人が乗っかって暮らせそうな島。でもその端っこには毒針を備えていて、やっぱり危ない。

アカエイは堂々と泳ぐ。汚泥の川もなんのその、人間二人に見られていることも知らず、他の魚とは違う珍妙で歪な姿で、逞しく生きている。


「……あれがほんとのアカエイなんだ。確かに、マンタとは違うね。怖い見た目してる」


「うん、危険な生き物だよ」


「でも私、アカエイも好きかも」


「僕も好き。かっこいいんだ」


「かっこいいね。こうしてみると、孤高の王様みたいな。見れてよかった、ありがとう」


「いいんだ、僕はいつもみたいに、川見てただけだから。藤寺さんこそ、なんかありがとう」


 ふと、気づいた。

 この街が嫌いな理由が分からなかったのは、内心もうこの街が嫌いではなくなっていたからだった。

海抜ゼロメートルの埋立地で、あちこちの陸地をマンションと工事現場が支配して、それでも街にぱっくり空いてしまった古傷みたいな川が、汚いからって、臭いからって、そこには確かに生き物がいたのに。ハゼが、クラゲが、時にはエイが。

 それなのに誰も川に真っすぐな目を向けてくれないことが、きっと僕はずっと嫌いだった。エイがいることに気づきやしない街のみんなが嫌いだっただけなのだ。こんな汚い嫌なところでもちゃんと胸を張るみたいにして生きているものがいること、知ってほしかった。

 だからもうよかった。僕以外にも川を見てくれる人が、この街の汚さを──川を見つめて、それでもここで生きようとした人がいたから。藤寺さんと一緒に川を見るようになって僕は、きっともう納得していた。

 またすぐに去っていくエイを見送りながら僕の中では、胸の痞えがなくなった。スッとした体の中にドブの匂いが飛び込むのも、どこか誇らしくて愛しかった。


「……そういえば聞いた? そこの工事現場。何ができると思う?」


 僕たちも川から去って、歩き出す。藤寺さんは斜め前を指さして言う。


「知らない。……マンションじゃない?」


「ううん、違うの。あのね、水族館になるんだって。水族館!」


 海が好きだという藤寺さんは、笑ってそれを教えてくれた。水棲生物が好きな僕も、嬉しかった。


「そっか。いいじゃん。マンタとか、いるといいね」


「うん。でも私は、アカエイがいてもいいんだよ」


「だといいな。この街の生き物のコーナーとか、あってほしい」


「水族館できるまで、この街にいたいね。災害とかご近所トラブルとかもなくてさ」


 そうして僕たちの間に、エイを見る以外の新しい目標ができた。それはおそらく、エイよりもずっと時間のかかることだ。それまでに何回エイに出会えるだろうか。エイはこれからも、街に来てくれるだろうか。

 ここは海抜ゼロメートル地帯。埋立地。

いつの日か大洪水が起きて、タワーマンションの住民たちは海と川の入り混じった汽水に呑まれて、僕の頭上をハゼやクラゲやエイが泳ぐ空想をする。

 親は、みんなは、そうなれば、否が応でも生き物たちに目を向けざるを得ないのだ。マンションの突き刺さる空にも、それらは泳ぐから。

 水族館は綺麗だろうか。水族館ができるとき、まだ川は汚いだろうか。それでも確かに生き物がいてくれるのなら、別に構わないと思う。


臭いドブ川にハゼやクラゲやたまーにエイが来るのはうちの地元のリアルな話なので、ご当地小説かもしれません。

あと埋立地のタワマンのくだりも割と地元。

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