第六話 ミストリアの雪心
真央がこの世界に呼ばれてから二日目の朝が訪れた。元の世界と比べて全く変わりのない朝の太陽に目を覚ました彼は、自分の体がベッドの上で横になっていることに気づいた。慌てて飛び起きると、横には従者としての三人が彼の体を挟むようにしてぐっすりと寝込んでいる。
そう言えば、彼女らはやけに焦っていたなと思い出す。――まさか、眠っている間に勝手に襲われたのだろうか。彼は慌てて、自身の股間に手をやった。そして、湿り気のないことにひとまず安堵した。
いや、まさか既に隠蔽し終えた後なのだろうか。新たな疑問に真央は首を傾げる。
「……いや、そこまで疑うのも野暮か」
「あら、どうなされましたか?」
隣に目をやると、丁度ミストリアも目を覚ましていた。彼女はシーツをたくし上げ、胸元を隠しながらクレタを挟んで真央の近くへとその身を寄せる。その色気のある光景に、真央は慌てて逆方向へ身を引こうとした。だが、ルナが寝ているためにあまり距離を取ることが出来ない。
「だ、誰が俺を部屋まで運んでくれたんだ?」
「私とルナです。いくらなんでも、勇者様を椅子に放っておいたまま私たちがこちらで寝る訳にもいきませんし。……それに、形だけでも整えておいた方が私たちとしても教皇様に言い訳が立ちますので」
「え、えーと。その際に俺が寝ているのを良いことに手を出されたりとかは……?」
そう問いかけると、彼女は軽く目を見開く。まるでその質問が予想外であったかのように。
「いえいえ、決してそのようなことはありません。勇者様がそのような事をお嫌いなのは、昨日も言った通り分かりましたので。あの後ルナちゃんと話して、勇者様から求めてこない限りは私たちからはあれ以上求めることはしないことにしました」
「……それが嘘だったりは?」
「いえ、勇者様は相手の言葉の真偽を理解できるのでしょう? 誤魔化す必要性はないと思いますが」
「え?」
首を傾げる真央。その様子に、ミストリアもまた首を傾げる。
「……まさか、過去にそんな勇者がいたのか? いたとしても、俺にはそんな力はないんだけれど」
「そ、そうでしたか。ですが、これは本当の事なのです。なので、信じていただければ幸いなのですが」
目を伏せる彼女に対し、真央はしばらく悩んだ後、頷いた。
「とりあえず、ミストリアさんの言葉を信じておくよ。嘘だったらまあ、その時はその時にまた考えることにする」
「そう、ですか。それならば良かったです」
ミストリアは肩の力を抜いてほっとした様子を見せた。その際に、ぽよんと白い布に隠された胸がこれまた魅惑的に揺れる。ほぼ同い年であるはずなのに、彼女はその体つきのせいか、やけに大人びて見える。要するに、動作の一つ一つが真央には色っぽく見えてしまう。
これが未亡人の魅力か、という感想を彼は慌てて頭を振って追い出した。これでは昨日、何のために彼女たちの誘いを断ったのか分からなくなってしまう。
「ところで勇者様、どうぞ私の事はリア、と愛称でお呼びください。そちらの方が、初々しい勇者様の嘘にも多少なりとも信憑性が出るかと思いますので」
この状況でそのようにさりげなく提案する彼女に、真央は戸惑いの表情を見せる。
ただでさえ色香に誑かされかねない理性をなんとか現状への義憤を拮抗させて引き留めているというのに、彼の心の天秤はミストリアの一挙一動によって簡単に揺れ動かされるばかりであった。
「勇者様があまり私たちのような立場の者に行為を寄せていないのは、教皇様も理解なされていたかと。それ故に、少年として私たちの色香に惑わされたという、分かりやすい証拠を提示することは必要なことだと思われませんか?」
「……思う、けど」
「ではそうなさいませ、勇者様――いえ、マオ様」
「うぐっ」
先に彼女の方から名前を呼ばれ、更に後に引けなくなった真央。
女性を下の名前で呼ぶなんて――加えて愛称で呼ぶことすら、彼にとっては恥ずかしくて仕方がない。彼は現状から逃げようと、目線を右へ左へと彷徨わせた。
だが、ミストリアは逡巡する真央の心を後押しするように、逃げようとする彼の手をシーツの隙間から差し出した手でそっと握った。――ミストリアからは、逃げられない。
そんな、たった一言を呟くというだけの小さな一歩。だが、オーバーヒート寸前の彼の頭はそれだけの動作を実行するために、長い思考時間を必要とした。そして崩壊寸前の天秤に、僅かな罅が入る。その隙間から、蚊の鳴くような小さな声で――。
だが確かに、真央は口を開いた。
「わ、分かったよ――リアさん」
「ダメです。リア、と」
「――っ! り、リ……リアっ」
「はい、よく出来ましたね」
そう言ってはにかむミストリア――リア。愛称で呼ぶという明らかに距離の縮まったその動作と合わせて、真央の羞恥心は乗算的に加速していった。これは人類にとってはどうでも良い一歩だったが、女性経験のない彼にとっては大きな一歩であった。
そして、愛称を口に出してしまった事により、彼の心は目先の問題が消えたために安堵する。そして改めて気づく。なんて恥ずかしいのだ、と。
彼は慌ててベッドから、他の二人を踏まないように細心の注意を払いながら飛び出す。
「そ、それじゃあリアは二人を起こしてくれ。俺は先に外へ出ているから、服装とか化粧とか最低限の準備なんかが終わったら改めて呼んでくれ。じゃ、また後で!」
「ま、マオ様?」
呼び止めるリアの声も聞こえないほどわたわたとした様子で、真央はばたんと扉を閉めた。
愛称を口にするだけで恥ずかしいという、まさに思春期そのものの真央の反応に、部屋の取り残されたリアはこの教会で過ごしている内に忘れていた純情さというものが胸の内に蘇ってくるような気がした。
「――だけど、それはきっと気のせいに違いないのでしょうね。何はともあれ、マオ様はあの様子では、今日はこれ以上距離を近づけることも難しいでしょう。ならば、今はリアと読んでいただけるようになっただけで、良しとしましょうか。さあほら、二人とも起きなさい! 朝ですよ!」
彼女はその心を胸の奥底へ封印し、残った僅かな期待を残った二人に被さっていたシーツと共に引っぺがすのだった。
どうせ真央も、男である以上その本性はあの教皇たちと同じようなものなのだ。リアは、そう信じて疑わない。だからこそ、努々油断してはならないよう二人に言い聞かせなければならない。ルナはともかく、クレタはまだまだ幼く無垢な子供なのだから。
貴族や勇者などの特権階級を一緒くたに碌でもないものだと捉える彼女の心は、未だ凍ったままだった。
だが、今の真央の行動で、その氷の表面に一滴の水滴が浮かんだのもまた事実だった。その証拠に、普段の誰にでも分かる作り物の笑みの代わりに、彼女は本来の頬が僅かに緩むだけのかすかな笑顔を見せていた。
その雫が、雪解けの呼び水となるか、また再び固まってしまうのか。それは、これからの真央の行動次第である。