第十三話 少女は希い、光は満ちる
まるでアルファベットのCのような形で聳え立つ教会の中心には、各地の植物を集めたという巨大庭園が存在している。元々植生などに詳しくない真央には、それらの価値など理解できるはずもない。ただ、見たこともないが綺麗な花が多いなとの程度の感想しか彼は抱かなかった。
そして、その庭の真ん中に聳え立つ女神を模した像の据えられた噴水は周囲が円状に拡げられた石畳が敷かれており、まるで一つの小さな広場のようになっている。
そこから少し外れる場所に、まるで見せしめのようにして、その少女は磔にさせられていた。クレタと同じ年頃に見える少女が身に纏っているのは襤褸切れ一枚であり、その両手両足は縄によって縛りつけられていた。
また、その体は見るからにやせ細っていた。頬はこけ、髪は艶を忘れ、服の隙間からは浮き出た肋骨が覗いている。それらに加えて一部の皮膚が変色していたり、赤い裂傷の跡が残っていたりと、明らかに虐待を受けた痕跡が残っている。
何より特徴的なのは、竜のそれのように枝分かれした角。恐らく魔族特有のものであるのだろうが、左右のこめかみのあたりから生えている内の一方が中頃で無残に圧し折られていた。
その姿を見た真央は、最初に思わず口を手で覆ってしまった。ぞっとするような苦痛の跡が残されながらも、胸が上下している所を見るに、まだかすかに息をしていることが見て取れる。これでもかと言わんばかりに王国の闇を刻まれた少女のあからさまな姿が、これまでどこか遠くの物事のように遠ざけて考えるだけだった真央に現実を叩きつける。
「どうでしょうか、勇者様。流石の勇者様と言えど、あの醜悪さには言葉も出ないでしょう? 獣の角を生やした、畜生との混ざり者である悪魔の申し子。歪んだ本性が表に映し出された姿――あれこそが、魔族なのです。魔物をけしかけ、破壊の魔法を放ち、屍の山に座り三日月の如き嘲笑を我々に投げかけ、女神の創りし我らに牙向く不届き者。それこそが、魔族なのでございます」
「あの、少女は――」
「いいえ、勇者様。その見た目に惑わされてはなりませぬ。確かに一見、無垢な女子に見えるでしょう。ですがその中身は――」
「あの少女は何ゆえに捕らえられたのでしょうか、女王陛下」
話しかけてくるピエールを遮って、真央は色鮮やかな羽根で彩った扇子で口元を覆い隠したまま、意味ありげに彼へと視線を投げかける女王へと問いかけた。
半ば無視されるようになったピエールは当然いい顔をしないが、この場を用意したのはかの女王であるがゆえにと自身を納得させ引き下がった。何より今の額に血管を浮かべつつある勇者相手にそこまで自分を押し通そうとするほど、彼は無謀ではなかった。
カッ、とこれ見よがしに靴底を鳴らして彼女は真央の下へと優雅に歩み寄る。
「何ゆえに、と申したな勇者殿。ならば答えよう。――第一に、あの者が醜い魔族であるため。そして第二に、女子であるからである」
「魔族であるため、ですか。ではあの少女は種族の為だけに捕らえられたと?」
「しかり」
「何かの罪を犯したわけではないと?」
そう確認するように問い詰める真央。
だが、目の前の女王は口元を隠したまま、ねばついた声で答える。
「ふむ。どうやら勇者殿と私たちの間には大いなる意識の差が存在するようだ。勇者殿、はき違えるでないぞ? ――魔族である事、それそのものが罪であるのだ」
「……なんですって?」
生まれそのものは、誰一人とて変えることはできない。
また誰から生まれるかなんて、子供が主体的に親を選ぶことはできない。
だからこそ、そのような生まれで人を差別することは許されないのだと真央は考える。
もちろん、そんな事は真央の知る歴史を遡ってみても数えきれないほど存在する。――遡れば、だが。
まさか自身にとって過去の遺物であるようなものを、今更目の前で平然と吐かれるとは、真央は思ってもみなかったのである。
いや、今更ではない。真央の目の前で笑う彼らにとっては昔の過ちでなく、まさに今の正義なのだ。
民は反乱を起こさない、故に民はたとえ圧政であろうと受け入れている――昨日の外出を経て真央が頭の中で怒りを抑え込むことが出来たのは、そんな考えが真央の根底にあったからだ。
だが此度の件は――自身の判断が生死与奪に大きく関わっているという事もあるが、それ以上に――真央にとっては常軌を逸した考えであった。
「なぜそのように不満そうな顔をするのだ。勇者殿、そちの役割はまさにこれであろうに」
「は?」
「我々の平穏を脅かす罪たる魔族の存在――それを駆逐すべく女神様が遣わしたのが、女神の使徒たる勇者である。違うか?」
真央は、ふと昨日の彼らの言動を思い出した。
みすぼらしい姿で、それでも日々を生きようとしている人々に対して、彼らは何といったか。見ているだけで恥ずかしい。貴族の所有物であり、何をしても良い。
――そうだ。
彼らからしてみれば、自らの利益にならない者は須らく悪であり、罪なのだ。自分たち以外の者は全て所有物であり、自分たちに奉仕しないのであれば罰を下す。それが、彼らにとっての当然なのだ。
かの女王の言う「我々」には、一般市民の事など一切含まれていない。
真央は今更ながら、それを痛感させられた。
改めて、真央は目の前に佇む女王を見た。
自身に過ちなど一つもないという、絶対的な意志を持った瞳。数多の処女の血の上に優雅に成り立つ彼女は、その足元が決して覆らないものだと信じてはばからない。そして今回も、真央が彼女の言葉を、少しばかり齟齬があったとはいえ、最終的には肯定するものだと疑っていない。
「……」
もちろん、これまでの真央は適当に彼女らの主張を受け流していた。そうですね、という何気ない一言。その繰り返しがどれほど軽く、責任感のない言葉だったか。場を混乱させないための口先だけの言葉とは言えども、彼の肯定は彼が嫌悪感を抱く貴族そのものに同調している事の証左として見られていたのではないか。
ギリッ、と真央は歯を食いしばる。その音が聞こえたわけではないが、顔を顰めた彼の様子に女王は不審そうに眼を細める。
「――そうですね」
やがて、少しの逡巡の後、結果として真央から紡がれたのは変わらず同じ言葉だった。
怪しい雰囲気になっていた場を取り囲んで様子を見守っていた面々も、その肯定の言葉にほっと胸をなでおろした。
だがピエールだけは悟っていた。今の真央の言葉には、これまでの肯定とはまた違う何らかの重みが含まれていた事に。しかし彼はその事をあえて口を出すことはなかった。
「ところで、もう一つだけお聞きします」
「なんだ?」
上機嫌そうに声を弾ませる女王に対し、真央は問う。
「彼女をどのようにして捕らえたのですか。付き人の彼女たち曰く、人間では魔族には敵わないとの事なのですが。まさか無抵抗で自ら従うほど賢い訳ではないでしょう?」
「そんなことか。献上した者曰く、親子で休息をとっていたところを襲撃したのだとか。だが、わらわには年を経たものなどいらぬ。故に、その親の体を使い従属の魔導具を作成させたのだ」
彼女は、近くの従者が持っていた杖を奪い取り、よく見えるように魔族の少女の首元の髪を掻きあげる。そこには、以前帝国で見たシンプルな黒一色のものではなく、なにやら細かい彫刻と一緒に形作られた彼女の肌と同じ色の首輪が巻かれていた。
「父の皮膚と、母の骨。親の残した形見と呼べるものをくれてやったのだ、さぞこやつも喜ばしいであろうよ。それに、血のつながりがある故か、作った者曰く、よりその魔道具はなじんでいるらしい。故に、魔族であろうと従属からは逃げられないとの事だな――ああ、まさか親同然のものを破壊してまで逃げようとも思わないであろうからな。そちらの点でも、都合が良かったのだ」
自慢げに語る女王。彼女の眼はもはや、目の前の真央ではなくどこか遠くを眺めている。
「さぞ見栄えが良かったぞ? 首輪をつける直前、その者が差し出された首輪を見て泣き叫ぶ様子はな。子であるがゆえに、それが親であると分かったのだろう。死して猶共にいることが出来る――そんな、わらわの慈悲に叫びながら感涙しておったわ」
汚らしいものにでも触れたかのように、女王は首元から離した杖の先端を地面でぬぐい取ってから従者へと戻す。
その際に小突かれたことで目が覚めたのか、磔にされたままの彼女がふと、言葉を漏らす。
「……殺して。助けて。もうやめて。なにもしないで。助けて。やめて。もういやだ。たすけて。タスケテ……助けて――」
小さく紡がれたその言葉に、真央は思わず目を見開いて彼女の近くへその身を寄せた。
「ああ、久々に日の光を浴びせたせいか、喋る気力を取り戻したようだ。なに、勇者殿。言葉にもならないうわ言だ。少し前までは同じように訳の分からぬ何かを呟いていたが、最近は聞いていなかったな」
「……言っていることが、分からないのですか?」
「ふん、どうせ助けてくださいなどとでも言ってるのであろう。下らぬ」
「誰も? 誰も彼女が何を言っているのか分からないのか?」
辺りを見渡すが、誰一人として真央の問いに答えない。ただ笑顔の沈黙が彼に肯定を返した。それは従者の三人も同様であった。
どうやら真央だけが、彼女の言葉を聞き取ることが出来るようだった。
「醜い魔族の鳴き声など、どうでもよかろう、勇者殿。それよりも早くその槍を――」
そんな女王の戯言など、もはや真央の耳には入らなかった。
真央は更に彼女に体を寄せ、十字架の下から彼女の顔を見上げた。伸ばしっ放しだった前髪の隙間から、これまで隠れていた彼女の瞳が真央を覗く。
それは、なにもかもを失い、絶望する事しか出来なくなったものの眼だった。まるで濁ったガラスのように光を失った眼は、ただこの苦痛の人生から脱する事だけを懇願しているように見えた。
その瞳が、歯を食いしばっている真央の顔を捉えた。
「――コロシテ、ください」
――人と言うのは、ここまで誰かを壊すことが出来るのか。
壊れたカセットのように同じ声だけを繰り返し続ける彼女の心をこそ、真央は救いたかった。
もちろん、先ほど女王が言ったような懲罰などではない。
女神に言われた勇者の役割としての人類救済などでもない。
背後に控えるミストリア、ルナ、クレタ達と同じように。真央は彼女を元通りの平穏な生活へと戻してやりたいと願う。
だが、心の果てまで凌辱された者を癒すことは真央には出来ない。彼の手に宿る勇者の光という都合の良さそうな魔法でさえも、彼女の壊れた心を元通りに繋ぎ合わせる事なんて出来るものか。
今の真央に出来ることは、彼女を一刻も早く今の苦しみから解き放つこと、ただそれだけだった。
「――っ」
十字架の横には、これ見よがしに金銀で装飾された槍の乗った台座が置かれている。
昨日見た教会の蔵の中に死蔵されていた、かつての勇者が残したとされる武器の一つ。
あの時は真央には到底持ち上げられるものではなかったが――今の真央の、内側で荒れ狂う魔力の漲った体であれば、持ち上げられる。そんな確信が彼にはあった。
その通り、彼は右腕だけでその金属の塊を持ち上げた。
決して軽い訳ではない。殺すしかない、という決意と共に力を込めた彼の腕はぴっちりと筋肉が張っている。
「おおっ、かの戦の英雄であるアステラ様が残した槍が――」
同時に、真央の握った槍が光り輝く。
真央の体に流れる力が槍へと流れ、その全体を覆っていった。勇者の証たる光の魔力、その発現に周囲の人間たちは誰もが歓喜した。数々の賛美の声が真央に届く。だがしかし、彼の耳にはもはやそんな醜悪の権化そのものである彼らの声など届いてはいなかった。
今の彼の意識の中にあるのは、目の前で死を乞う一人の少女ただひとり。
「――ごめんな」
一刻も早く、その苦しみから解放してやらなければ――そんな想いと共に、彼はその槍を勢いよく横へと振り払った。
光に包まれたその穂先は、骨と皮だけの哀れな魔族少女の首へと一直線に吸い込まれ――。
――刹那。真央の視界が、純白の光で満たされた。