第十一話 優しく傲慢であれ
思い返せば、真央はこの世界に来てからというものの、マトモな大人を見た覚えがなかった。誰も彼もが自分の事ばかり考えて他者を蹴落とし、その足掻く姿を嘲笑う。そのような社会の闇のような実態をたった一日で思い知らされた彼にとって、目の前のミズキという女性はそういう腐った性根を持たず、また少なからず頼れそうな雰囲気を醸し出していたように見えたのだった。
そんな彼女に、真央は自身のこれまでに積み重ねた心中を吐露した。
「そもそも勇者の責務、とは何なんでしょうか」
「そりゃ、簡単な事だろう? 勇者ってのは、勇者でなきゃやれないことがあるから女神様が呼んで下さるんだ。今勇者のやるべき事って言えば、人類の脅威である魔族の排除だ。違うかい?」
彼女は当たり前のように断言する。
「そうですね。それもあります。ですが、果たしてそんな目先のことだけで足りるのか、と俺は思います。――例えば、今の支配階級である人間たち。彼らもまた、人類を脅かす埋伏の毒と呼べるのではないでしょうか?」
すなわち彼らもまた、魔族と同じ人減の敵であり、勇者の敵である。
彼らは排除されるべき悪であり、敵ではないのかと真央は口にした。
「……なるほど。それで? どうしてそう思ったんだい」
「このまま魔物を倒したところで、彼らが支配権を牛耳っているようでは明るい未来はない。でしょう?」
「そうだねぇ。そりゃアタシも常日頃から思ってる事さ」
「だから俺は、彼らもまた倒さなければならないと考えます。――ですが、他の方々はそれをよろしく思っておられないようで。クレタさん以外の二人のお付きにも、言われましたよ」
真央は、少し前のミストリアとルナの表情を思い出す。
真央の言葉に対する僅かな期待と、それを覆い隠して余りあるほどの諦観、絶望。今更勇者が出しゃばったところで遅いのだという彼女らの言葉は、真央の心に確かに、小さな棘として残っていた。
「――もう既に遅い。誰もが、人類が滅ぶことを受け入れているのだと。魔族が貴族たちをも殺してくれるなら自分たちが殺されても構わない、なんて。救うべき対象にそんな事を言われては、こう思ってしまうのです。俺が何とかしようとすることは、ただの押し付けに過ぎなくなってしまうのではないかと」
あの場では、単にそれぞれの考えがあると話を切り上げてしまった。
だが、真央の心の中には確かに、あの時のミストレアの言葉が響き続けているのだった。
「教皇を打倒し、人類の平等を実現する。そんな俺にとっての当たり前が、実は彼女らにとっては、この世界の人々にとっては、無用な混乱を引き起こすだけではないのでしょうか」
そんな暗い独白を聞いて、彼女はターバンの下から現れた長い赤髪をがりがりと掻きあげる。
「……ひよっこなりに考えていることは分かったさね」
彼女はしばらくの間、あー、うー、と頭に手を当てて悩ました後、細かいことはよく分からないけれど、と前置きしてから何とか言葉を紡ぎ出した。
「とりあえず、その姫様以外の誰かさんが言ってる事は、そうだね。間違っちゃあいないと思う」
そう言って、彼女は家の外へと視線を向けた。扉のない吹きさらしの入り口の先には、朽ち果てた家屋の山が見えている。
「少なくとも、今のアタシたちにはそんな事を考える希望すら残っちゃいない。日々の安寧すらない今は、生きることに精一杯だからねぇ。アタシだって昔――それこそ主様たちが生きていた頃なら賛成したかもしれないよ? でも今はねぇ。似たようなことを言ってたあの方々も骨になって、残ったのは腐れ外道に嗤う連中ばかりさ。それで良いって、皆が納得しちまってる。アタシもさ。辛うじて、クレタ様が無事であればいいなんて思っちゃあいるが、それが数年後までには叶わなくなってることくらい分かってる。でも、それまでの間、無事で過ごしている報告を聞くだけでもう満足なのさ」
そこで彼はようやく気付いた。彼女は確かに大人だが――現状を素直に受け入れ、滅びを受け入れ、無意味に暴れたりすることのない――理不尽に飼い慣らされた、この世界における立派な大人でしかなかったのだ。
「済まないねぇ。あれだけ偉そうなことを言っても、所詮アタシじゃあアンタの助けにもなれないだろう。いや、アタシだけじゃないね」
彼女は、ミストリア達と同じ諦観を表に浮かべ、呟いた。
「勇者様のその過大な理想を支えられるのは、この世界にはもう誰もいないんだよ、きっと。もう、アンタみたいな理想を追い続ける事は出来ないんだ。それを見るにはもう……アタシたちの心は削れ過ぎちまってる」
悲しそうな顔を浮かべる真央に、彼女は慌てて笑顔を浮かべた。
だが、その笑みが空元気なのは、彼にだって理解できる。それほどまでに彼女の言葉は、痛々しかった。
「そう落ち込みなさんな。別に、勇者様の理想が間違っているなんて言わないさ」
「そうなんですか?」
「ああ。でもね、それを……その正しさを推し進めるには、勇者様一人だけでどうにかしなきゃならないのさ。優しい理想だが、それを現実に持ってくるには、諦めた他人を強引に引き寄せるだけの傲慢さって奴があるくらいでないと、どうしようもないってことだよ。誰の手助けも必要とせず、孤独の道を歩む覚悟を持つくらいでないとね」
それこそ地獄のような道なりさ、と彼女は呟いた。
「だが、今のままじゃあ到底無理な話さ」
「どうしてですか?」
「アンタにゃ、その傲慢さが欠けてるからさ」
彼女は、真面目な顔になって真央に問いかけた。
「さっき言ったね、自分にも役割が分からないって。アンタはそれだけ真剣に考えているのにね。ってことはさ、もしかしてだけどね? ――間違っていると信じたいからこそ、自分は間違っていると人に語って、それを肯定してくれる答えが返ってくるのを期待しているんじゃないのかい?」
そんな彼女の言葉に、真央は思わず息を詰まらせた。
「他者の意見を聞くのは良いさ。お優しい勇者様なら、他人を慮るのが王道ってモンだからね。だけど今のアンタはその優しさと一緒に、そうやって、自分が折れる逃げ道を探してるのさ、きっとね。そもそも本当に間違っていると分かっているなら、最初から誰かに切羽詰まって聞きゃしないさ。――つまりアンタは、そのアンタが疑っているその理想こそ、実は正しいって事を疑っていないんじゃないのかい?」
――それは、今の真央の心をより深く抉り取るのにふさわしい一言だった。
逃げる道を探してばかり、他人を頼ろうとしているばかり。その他人が、逃げる道だけを提案してくれるだろうことを心の内で悟っていながらも。何とか何とか逃げようとして。自分の手だけは汚すまいと足掻いて、結局何もできないことを理解している自らの醜さを、認めさせられる言葉だった。
「でも、勇者様はその優しさのぶん、行動に踏み切ることが出来ないのかね。それはそれで、ご立派だと思うよ、うん。少なくとも、そう言った考えもお優しいモンだ。だけど、そうやって立ち止まっていると、いずれ本当に取り返しのつかないことになるよ。それだけは肝に命じときな」
「……はい」
彼女は決して、真央の進むべき道を指示してはくれなかった。
だが真央の求める逃げ道に勧誘してくることも決してしなかった。ただ、このままうじうじと悩んでいるだけでは全てを取り逃す――後悔先に立たずという言葉を、彼女は真央に経験ある大人として伝えたのだった。ミズキの瞳に映し出された、クレタを見守るしかないという後悔がその言葉により強い重みを乗せていた。
彼女と違い、今の真央はその手にクレタを救うことの出来る余裕がある。そんな彼の手に姫を託したという意思が、正面に座る真央に重く圧し掛かる。
「さ、これ以上は口先だけじゃあどうしようもあるまいて。アタシも参考にならないだろうし、帰るとしようかね。表までは送ってってやるよ」
彼女が席を立つと同時に、真央の肩に圧し掛かっていた重圧はぱたんと消えた。
それから後は表の通りに戻るまで、真央とミズキの間に会話が交わされることなかった。先ほどの言葉で全てを伝えたと言わんばかりに、彼女は真央と目を合わせようとはしない。
時折真央が名残惜しそうにミズキに話しかけようと彼女の顔を見ようとするが、頑として彼女はその意志を変えようとはしなかった。
「んじゃ、こっから先は教会が見えるから、あそこまで歩いていけばいい」
ふと、立ち去ろうとした真央の背中に、ミズキから声がかけられる。
「――クレタ様をよろしく頼みます、勇者様。せめてあの方が苦しまないように、どうか。お願いします」
真央がそちらへ顔を向けると、彼女は静かに頭を下げた。
これまでの荒々しさがにじみ出てきていた言動とは違う、真摯な頼み方だった。
「最後の最後でこのようなお願いをするのは卑怯だと、アタシも思うよ。頼りにならない自分が言うのも、不相応な事だって分かってる。でもアタシは、最後の希望の、クレタ様の事だけは、どうか、どうか……」
「――ああ」
真央は、頷いた。
確証も何もない言葉だけだが、それが少しでも彼女の心の救いとなるように、と。
そんな言葉だけで救われることはないと叫ぶ己の意志に、ならば自ら踏み出すことが出来るように、と。
「じゃあ、お元気で」
それだけ言って、真央はこの場を去っていった。
その足音が聞こえなくなるまで、ミズキは頭を下げていた。
やがて頭を上げた彼女はふと、視線の先に佇む白亜の魔窟を見上げた。
その中では今も、敬愛する主の娘が苦しんでいるハズだ。そして先ほど別れたばかりの、クレタの主である勇者も、また。
「悲しいねぇ。結局アタシは勇者様に頼んだだけで、言葉くらいしかかけてやることが出来ないんだからさ。せめて一緒に戦うことが出来れば――なんて、剣を振るうことが精一杯の身にゃ無理な話か」
それよりも、と彼女は先ほど話していた真央の様子を思い出した。
悩むばかりで行動しない、とは思わない。実際に動く前にどのように動かなければならないのかを決めなければ、グダグダに終わってしまうからだ。そしてそれは、戦場では死を意味していると彼女は知っていた。
「だけど、あれじゃ深く考えすぎだ。考えなくても良いことにまで意識が向いちまってる新兵そのものだよ。あんな風な状態だと、一度加速すればそのまま堕ちていってしまいそうだ。……姫様もその事は分かっていらっしゃるだろう。それよりも、女神様もアタシ程度の輩が考えるようなことだ。それくらい分かってるだろうに。まったく、神様くらい高貴な方の考える事なんてさっぱりだね」
だが、それは自分の手に届くことではないし、どうにかする力もない。そう割り切って、彼女は去っていった。
今日もまた、誰にも看取られず恐怖の中で死んでいった連中の鎧を回収するために。
彼らの痕跡を供養すると共に、繋いだ装備が少しでも次の命を救うことを願って。