問題篇
「先日は、祖父がお世話になったそうで」
柔らかそうな栗毛頭をぴょこんと下げて、少年は折り目正しい挨拶をする。
「でも、蒲生兄ちゃんに探偵の知り合いがいるなんて知らなかったです」
「いや、あの、僕は探偵なんかじゃないよ。探偵の真似事をやらされているってだけで」
碓氷は慌てて訂正する。蒲生はにやにや笑いを浮かべながら、
「まあ、いいじゃないか。探偵も探偵の真似事も似たようなものだろ」
「話をややこしくするなよ、蒲生」
「蘇芳おじさんも、お前の名探偵ぶりを褒めていたぞ。貴佳くんもな、公衆電話の一件を蘇芳おじさんから聞いて以来、お前に会いたがっていたのさ」
蒲生の隣に行儀良く腰掛けていた蘇芳貴佳は、こくりと頷く。彼は県警本部に所属する蘇芳警部の孫であり、蒲生の遠縁にあたる少年だ。現在小学五年生。縁無し眼鏡をかけ、レンズの奥のぱっちりとした目が利発そうに輝いている。
「で、ここからが本題なんだがな。実は、彼は今ある悩みを抱えているんだ」
「悩み? 僕はカウンセラーを開業した覚えなんてないけどね」碓氷は渋い顔で珈琲を啜る。「もちろん、探偵業を営んでいる覚えもない」
「まあまあ、そう冷たいことを言うなって。いたいけな少年が、夜な夜な部屋を訪れる幽霊に悩まされているというのに」
「幽霊?」カップをソーサーに戻し、碓氷は胡乱な目を友人に向ける。
「ここ数日、貴佳くんの部屋の窓から幽霊が覗き見るんだとさ」
蒲生から少年へと視線を移す。小さな依頼人の不安げな顔に、碓氷は溜息を一つ吐くと「どんな幽霊なんだい」と話の先を促した。
「一週間くらい前からです。夜、ふと目を覚ましたときに窓を見ると、人の形をした影が窓ガラスに張り付いているんです」
オレンジジュースの入ったグラスをじっと睨みながら、貴佳は切り出した。
「本当に人のような形をしているんです。頭があって、両手を横に広げるようにして窓にべたっと張り付いていて。まるで僕の部屋を覗きこんでいるようでした。初めて見たときは、あまりに怖くって夢かと思いました。でも、次の日にもやっぱり同じような影を見たんです」
「貴佳くんの部屋は二階建ての家の二階にある。しかもベランダがなく、窓の外は壁しかない。普通の人間なら絶対できっこない芸当を、その人影はやってのけたってことさ」
蒲生が隣から補足を入れた。碓氷は顎をゆっくり撫でながら、無言で二人の話に耳を傾けている。
「一度だけなら『夢だったんだ』で終わらせることができますけど、もう四、五回くらい影を見ているんです。さすがに怖くなって。でも、お父さんやお母さんに話してもバカにされるだけだと思うんです。お父さんもお母さんも、現実主義者なんです。幽霊とか宇宙人とか信じない性格だから」
つと顔を伏せて、貴佳は言葉を切る。蒲生は少年の頭を左手で撫でながら、
「貴佳くんの両親は教師をやっていてな。非常に教育熱心な家庭なんだが、子どもの空想話にはちと理解が浅いらしい――いや、彼が見たものは本当に人ならざる存在かもしれない。突起物も何もない壁を、まるで蜘蛛のように這い回るなんてどう考え立った無理難題だからな」
「窓枠に手をかけてぶら下がっていた、という可能性は」
「おいおい、貴佳くんの話を聞いていただろ。人影は両手を窓ガラスにべったりくっつけていたんだぞ」蒲生はひょいと肩を竦めてみせる。
「この前、お昼に家の前に立って外壁を見てみたんですけど、僕の部屋の窓近くには、足や手をかけられるような出っ張りはありませんでした」
「排水用のパイプは設置していないの。パイプを伝って壁を登り、何らかの方法で窓まで近づいたとか」
「仮にパイプがあったとして、そこからどうやって窓に張り付くんだ。両手に接着剤でも着けていたのか」
「それに、僕の部屋の窓がある壁にはパイプは通っていませんよ」貴佳少年が冷静な声で告げる。「本当に、壁と窓しかないんです」
「じゃあ、下からではなく上からやってきた可能性はどうかな。体にロープのようなものを巻きつけ、上から降りてきて窓の傍にぶら下がった」
「アニメの盗賊じゃないんだぞ」蒲生は碓氷の仮説をせせら笑った。「お前にしては珍しくリアリティに欠けた発想だな」
「幽霊ならリアリティがあるとでも?」碓氷は対面に坐る友人をじとりと睨みつける。彼はホラー番組で放送される心霊動画を、十中八九ヤラセだと信じて疑わないような男なのだ。
「僕だって、あれが幽霊と本気で信じているわけではありません。僕自身には霊感なんてこれっぽっちもないし、そういう心霊体験だって今までまったく経験したことないんです」
貴佳は念を押すような口調で告げた。碓氷は少年の顔をじっと眺めながら、
「その人影は、一週間前から毎晩見かけるのかい」
「いえ。雨が降っている日の夜は見ませんでした。もしあれが幽霊だったら、天気なんて関係なくやって来ますよね。それとも、幽霊でも雨の日に外へ出るのはめんどくさいものなのでしょうか」
「雨が嫌いな霊もいるかもしれないね」碓氷は真顔で返した。蒲生は笑いをかみ殺しながら、
「動物かなにかの影が偶然人形のように見えたってのはどうだ。貴佳くん、夜眠るときは当然眼鏡を外すだろう。ただでさえ暗がりの空間で、なおかつ眼鏡なしに視界がぼんやりしていれば、鳥が翼を広げている影を人形と見間違えたとか、そんな現象が起きても不思議じゃない」
「でも、影は窓いっぱいにべたっとくっついていたんですよ。そんな大きな鳥がいるでしょうか」貴佳は小首を傾げる。小学五年生にしては大人びた仕草だ。
「なら、群れで動く習性の鳥たちが、一塊になって窓に張り付いたんだ。それがたまたま人の形のようになっていた」
「仮にそうだとして、どうして鳥たちは貴佳くんの部屋の窓に毎晩やって来るんだ。眠っている貴佳くんが餌をくれるわけでもないのに」
碓氷は珈琲にミルクを足しながら疑問を挟む。蒲生は少し考え込むように視線を宙に彷徨わせていたが、
「たとえば、貴佳くんの部屋の窓から見える何かに、鳥たちが反応していたとか。ほら、カラスが光り物に反応するのと同じでさ。その鳥たちにとっては何か特別に見えるものが、部屋の中に置かれていたってことはないのか」後半は貴佳少年に対する質問だった。だが、眼鏡の少年は首を横に振る。
「僕の部屋には、そんな特別なものなんて何もありません。そもそも、鳥たちが集団で窓に張り付いていたら、窓ガラスにそれらしい跡が残ると思うんです。でも、窓はいつも綺麗な状態ですよ」
蒲生は喉の奥で低く唸った。探偵に推理の穴を指摘された助手の構図にも見える。
「蒲生の推理に肩入れするわけじゃないけど、窓辺にいた鳥の数が必ずしも多い必要はないんじゃないかな。鳥の数は一匹だったけれど、窓の外にあった光源――光のことだ――が鳥の影を拡大させていたとすればどうだろう。光が当たる角度によっては、物体の影は実物よりも大きくなることがある。住宅街であれば、街灯なんかもあるだろうし月明かりだって光源になり得るしね」
「たしかに街灯はありますけど、そんな光が窓から差し込んでいれば、人影よりもその光で目が覚めてしまいそうです」
「それもそうか」碓氷はあっさり自論の穴を認めた。「そもそも、貴佳くんはどうして夜中に目が覚めるのかな。影の気配を感じて起きてしまうってこと?」
貴佳少年は、碓氷の指摘にはてと首を捻る。
「言われてみれば、どうしてなんでしょう。ううん、寝つきが悪いってわけじゃないしなあ」
「ゲームのやりすぎで目が冴えているんじゃないのか」蒲生が父親のような心配をする。貴佳はちょっと頬を膨らませると、
「ゲームは夜の八時までって決められていますし、スマホも九時以降は電源を切らなくちゃいけないんです」
「さすがに教育者の家庭は躾がしっかりしているな」苦笑混じりの蒲生に、碓氷も「僕たちも見習わないとね」と合いの手を打つ。子どもらしからぬ深刻な表情で空のグラスを見つめていた貴佳は、
「そういえば、音を聞いたような気がします」
「どんな音なんだ」蒲生は少年の横顔を覗き込む。
「カサカサっていうか、ガサガサっていうか。何かが擦れる音みたいな」
「鳥の羽ばたきとかじゃなくて?」
「そんなんじゃないです。それはバサバサって音だけど、僕が聞いたのはガサガサって感じでした」あくまで違いを強調するように、眼鏡の少年は力強く述べる。それから急に落ち着かない様子で両足をもじもじ動かし始めた。「あの、トイレに行ってもいいですか」
「この奥をまっすぐ進んで、突き当たりを左に曲がったところだよ」碓氷はにこりと微笑んで目的地を指差した。小さくなっていく貴佳の後姿を見送ると、
「彼、小学生にしては随分大人びているね」蒲生に向き直って率直な感想を洩らした。碓氷の友人は小さく肩を上下させると、
「蘇芳おじさんは、貴佳くんを将来警察官にしたいらしい」
「素質はあると思うよ」おかしそうに笑いながら、蒲生の背後に設置された液晶テレビに目を留めた。地方ニュース番組の時間らしく、地元の歴史ある神社で催された餅つき大会の様子が画面に映し出されている。
「正月らしいことなんて何もしていないな」
碓氷の視線を追って後ろを振り返った蒲生は、「へえ、餅つきね」とさほど興味なさそうな声を上げる。
「蒲生は、正月は実家に帰ったの」
「いや、ちょっと知り合いに頼まれて年越しは仕事してたわ。神社の参拝者に豚汁振舞っていた」
「蒲生ってさ、幅広く副業しているよね。クリスマスにはサンタクロースのバイトしてたし」
「俺様は顔が広いのさ。引きこもりがちなお前と違ってな」皮肉混じりの言葉を碓氷に投げかけたところで、貴佳少年が姿を見せた。いそいそとソファ椅子に腰を落ち着かせた彼に、
「貴佳くん、お正月は餅つきをしたり初詣に行ったりしたの」
「餅つきはしてないですけど、初詣なら家族で行きましたよ。あ、僕おみくじで大吉だったんです」
「おお、すげえな」
「あと、もうすぐ近所で凧揚げ大会があるらしいです」
「凧揚げかあ。最後に凧揚げしたのなんて、それこそ小学生の頃だっけな」蒲生は懐かしそうに目を細める。貴佳は両足をテーブルの下でぱたぱたさせながら、
「去年は参加したんですけど、そのときは犬の顔をした凧を作ったんですよ」
「犬? ああ、干支が戌年だったからか」
「他にも、いろんな形の凧がありました。アニメのキャラクターとか、家で飼っているペットの凧を作ったって友だちもいたし、あとお父さんそっくりの凧を揚げていた子もいました」
「最近の凧揚げはバラエティに富んでいるのな。そうだ、碓氷はまだ正月らしいことを何もしていないんだろ。折角なら今度の凧揚げ大会に貴佳くんと――おい碓氷、聞いているのか」
「え? あ、ああ、聞いているよ。凧揚げね」
蒲生の呼びかけにはっと顔を上げた碓氷は、貴佳の顔をじっと見つめるとおもむろに口を開いた。
「貴佳くん。その凧揚げ大会には貴佳くんも参加するの」
「特に何も決めていませんでしたけど。凧だって作っていないし」
「凧揚げ大会があるのはいつ?」
「えっと、来週の日曜日。一週間後です」
「日曜日か。じゃあ、その日は僕と一緒に凧揚げ大会に行こう」
貴佳少年はぽかんとした顔で碓氷を見上げながら、「はあ」と気の抜けた声で曖昧に頷いた。蒲生は怪訝そうに眉根を寄せて友人を見やる。
「何だよ、いきなり積極的になって。たしかに参加しろと言いかけてはいたが」
「僕の予想だと、その凧揚げ大会の日に謎が解けるかもしれないんだよ。貴佳くんの部屋を除き見る幽霊の謎がね」