第九章 乱⑫
秘書官である青年将校にも訊いて、一同は非常時用の小舟の保管場所へ向かう。
ついさっきまでの喧騒がいつの間にか収まって、艦内が妙に静かだ。
気のせいだろうか?
果たして小舟はなかった。
「遅かったか」
つぶやくクシュタンと、思わず絶句している分隊の隊員たち。
「……逃げ出したのですか?でも、彼らに逃げる当てなんかないでしょう?」
そもそも敵地ですし、と、ややあってつぶやくサーヴァンへ、クシュタンは答える。
「想像以上に早かったのは確かですけど、逃げる者が出てきても当然でしょうね。このままこの艦にとどまっていても味方に恨まれるだけ、逃げ出して他の艦の者に、上官が錯乱して狂った命令に従わされたとでも泣きつくつもりでしょう。実際のところ、そう言えなくもないのですし」
言った後、クシュタンは顔をしかめた。
「しかしまずいな。これでは戻れない」
「最悪この艦ごとフィスタへ戻る手もありますね、潮の流れから言ってもフィスタ湾へ流されるでしょうから。時間から言ってそろそろ自軍の船がこの近辺に来ましょうから、拾ってもらうのも可能です。帰還の手段はそれら数種の手段から臨機応変にと指示されています」
小舟が消えている衝撃から立ち直ったサーヴァンが言う。
しかめた眉のまま、クシュタンはつぶやく。
「自軍の船に拾ってもらうのが、まだ確実だろうな」
「まあ……そうなりますよね」
サーヴァンも仕方なさそうな声音で答えた。
甲板に出る。
喧騒と爆音は少し離れたところで続いているが、ここは奇妙なまでに静かだ。人の気配もほとんどしない。この艦はどうやら、すでに乗員たちから捨てられたようだ。
かつがれて運ばれてきたラン・ガ・ルガージアン閣下も、甲板の上でようやく意識を取り戻した。うめきながら目を開ける。
「閣下!」
秘書官の声を聞き、不思議そうな顔で彼は辺りを見回した。
「なんだ?一体何がどうなっているんだ?」
秘書官より先にサーヴァンが答えた。
「この艦にはもはや、あなたの部下はいないようですよ、閣下」
鋭く声の方を見上げたラン・ガ・ルガージアンは、夜目にも眩しい真白な旗と、青地に駆ける金の狼の意匠の旗が、篝火を受けて夜風にはためくのを認めた。
青地に駆ける金の狼。
ラクレイド海軍の旗だ!
「なっ……」
ラン・ガ・ルガージアンは絶句した後、そばにいた秘書官へ怒鳴りつける。
「どういうことだ、何故こんな屈辱を許した!艦長たちはどうした、あの腰抜けどもが!」
「お静かに」
たどたどしい言葉と同時に刃物が首筋にあてがわれる。
例の鬼神に似た無表情な男が、ラン・ガを見下ろしていた。
「艦長たちは……すでに生きておりません、閣下」
秘書官はうなるように言った。
「この野蛮な異教徒どもが、艦橋ごと皆を爆殺したのです!」
「お言葉を返すようですが」
サーヴァンが言う。
「よその土地へ何の断わりもなく攻め込み、有無を言わせず従えてゆく『野蛮な異教徒ども』は、あなた方です、我々にとっては」
「やかましい!」
秘書官の青年はわめく。
「ルードラの光を知らぬ者へ慈悲を賜る為に我々は来たのだ!鬼神に操られた野蛮な狂人どもに、我々の真の目的などわかってたまるか!」
そこで青年は言葉を途切れさせた。電光石火の素早さで繰り出されたクシュタンの手刀が、青年の頬を打って口を閉じさせたのだ。
咳き込み、彼はくずおれてのたうつ。
咳と共に吐き出した唾液には血が混じっていて、何か小さくて硬いものが甲板に落ちたらしいかすかな音がした。歯が一、二本、欠けるか抜けるかしたらしい。
「お忘れかもしれませんが」
いささかこわばった表情で、それでもサーヴァンは落ち着いた声で異国人の捕虜へ言って聞かせる。
「ここは戦いの場で、我々は敵同士。あなた方は今、捕虜です。捕虜であることを拒否する場合、命の保証は出来ないのです」
哀れな捕虜たちは沈黙した。
風向きによって濃い煙が流れてきて目に沁みる。
ラクレイド側の艦は敵艦へ果敢に近寄り、白兵戦へもつれ込もうとしている様子だ。
こちらへ注意を払う余裕はなさそうだ。
「サーヴァン軍曹!分隊長殿!」
部下の一人が寄ってきた。
「左舷下に小舟を1艘、発見しました。空であります!」
「……何故1艘だけあるのか不気味ですが」
クシュタンがつぶやく。
「利用できるのなら利用しましょう、分隊長殿。可能な限り、早く本部へ帰るべきだ」
サーヴァンはうなずく。
「ええ、私もそう思います」




