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第一章 二つの遺言状⑤

 手を振る子供たちを見送るエミルナールの胸が、ふっと塞ぐ。

 エミーノはお二人に嘘はつかないと言いましたが、お二人に黙っていることは沢山あるのですよ、と、心でつぶやき、かすかに苦く笑う。


 初めて公爵の随行として王都へ来、こちらの屋敷で世話になることになった日のことを思い出す。

 公爵は帰宅時の玄関広間で、おとうさまおとうさまと飛びついてきた小さな子供たちを両腕に抱え上げ、フィスタ砦では見たこともないような開けっ広げな笑顔になった。首筋や肩にしがみつく子供たちの頬へ、代わる代わる軽くくちづけながら彼は言った。

「コーリン、うちの子供たちだ。ポリアーナとシラノール。この子たちの曾祖父母にあたられるシラノール陛下とポリアーナ王妃のお名前から取って、陛下がつけて下さったんだよ、有り難くももったいない話じゃないか。この子たちは私なんかとは比べ物にならないほど、賢く、美しく、立派に成長するだろうな。何と言っても国王陛下から、こんな素晴らしい名前を付けていただいたんだから」

 着任以来エミルナールを振り回し続けてきたくせ者将軍にも、親馬鹿丸出しとしか言えないこんな普通の親の顔があるのか、と、エミルナールは大袈裟でなく驚愕した。

 彼が、本当に家族を大切に思っている優しい夫・良き父親であるという一面を知って以来、有能で使える秘書官になってから辞表を叩きつけ、困る公爵の顔を見ながら故郷へ帰ってやる、という報復を夢見ていたどす黒い怒りが、なし崩しに消えていったのだった、そう言えば。


 子供たちと別れた後、エミルナールは身支度して外へ出た。

 ほどなく廊下で角盆を手にしたタイスン夫人と会う。

「ああ、コーリン殿」

 夫人は目が合うとやや気の毒そうな顔をした。

「先程ポリアーナさまとシラノールさまがそちらへ行かれたのでしょう?お二人が無理にあなたを起こしてしまったのではないでしょうか?」

「ああいえ。お二人が来た時間にはさすがにもう起きていましたから」

 朝食を持って来たのだと言う夫人の手から盆を受け取り、エミルナールは食堂へ向かう。

 部屋で食べてもかまわないが、結局食器を返しに出てくるか、再びタイスン夫人を煩わせることになる。ならばこのまま食堂へ向かう方が、手間が省けるだろう。


 食堂には誰もいなかった。

 どちらかというと(ひる)に近いのだから当然だろう。

 講堂で居残りをさせられている子供のような居心地の悪さの中、エミルナールは食事を始めた。

 居心地は悪いが、皿に乗っている豚バラの燻製肉の薄切りを炙ったものは旨い。

 炙ってから時間が経っているから肉は硬く、脂身も冷えて白く固まってしまっているが、口の中でゆっくり咀嚼していると旨みがあふれてくる。

 上等の肉で作った燻製なのだろう。

 添えられたパン、タイスン夫人がもう一度温め直してくれた具沢山のスープと一緒にしみじみと味わう。

 レライアーノ公爵家が裕福なのがこれでもよくわかる。召使いたちが普段食べる朝食でさえ、ここまで旨いのだから。


 食べ終わる頃にタイスン夫人がお茶を入れてくれた。香りと一緒にお茶を楽しむ。

 カップを置き、少しためらったが夫人に声をかける。

「タイスン夫人」

 手を止めて振り向く彼女へ

「あの。閣下のお熱は下がられたのでしょうか?」

 と問う。夫人はにっこりほほ笑む。

「ええ。昨夜はかなり高いお熱が出ていらっしゃったのでわたくしどもも心配したのですけども。明け方には普通に近いくらいにまでお熱はおりました。今はかなりお元気を取り戻していらっしゃいますよ」

 逡巡したが、やはり問う。

「あの、閣下は時々こんな風になられるってご主人から伺ったのですけど……」

 あらあの人ったら、と夫人はつぶやいたが、片付けものの手を止めた。

「でもきちんとお話した方が、かえってコーリン殿も心配なさらないかもしれませんわね」

 夫人はこちらへ来ると、エミルナールの斜め前にある席に座った。

「わたくしは元々ご結婚前の奥方様の侍女を務めておりましたから、主人ほど詳しく閣下のご病気について存じ上げている訳ではありませんけど。聞いただけですが、閣下はお若い頃に不幸な事故にあわれ、それが元で激しく心身を損なわれたそうです。今でも稀に、ひどい心痛や深いお疲れなどをきっかけにこの頃の辛いお気持ちを思い出されるらしくて、高いお熱が出て苦しまれたり激しく戻してお食事も摂れないほどになったりなさいますね。でも二、三日すれば症状は治まりますよ、今までそうでしたから」

 閣下が御幼少の頃からずっと診ていらっしゃるサーティン先生が、この病は激しい症状が出て驚くけど過剰な心配はいらないとおっしゃっていますし。タイスン夫人はエミルナールをいたわるようにほほ笑み、そう話を締めくくった。

 エミルナールは夫人に礼を言い、立ち上がった。



 食堂を出たエミルナールは、公爵の様子を見に行こうと(あるじ)一家の住む棟へと向かう。

 途中、公爵邸の執事であるデュ・ロクサーノ氏と行き会う。

 春宮侍従長であるロクサーノ子爵の大叔父にあたる方だそうだが、詳しいことはわからない。

 彼はいつも、腰近くまである真っ白な髪を丁寧に櫛けずり、きちんとひとつにまとめている。職務に忠実で無駄なことを一切しゃべらない、さながら絵に描いたような老執事だった。

「おはようございます、コーリン殿」

 穏やかな声で挨拶をし会釈する執事へ、公爵にお会いしたい旨を伝える。

「どうぞ。今日もしコーリン殿が面会を求められた場合、お通ししてくれと旦那様から仰せつかっております」

「閣下のご体調は大丈夫なのでしょうか?先程タイスン夫人から、お熱は下がられたとはお聞きしましたが」

 エミルナールがそう言うと、普段ほぼ無表情な老執事の目許がかすかにゆるんだ。

「ええ。大丈夫とまでは申し上げられませんが、お熱は下がられましたし、奥様やお子様方と楽しそうにお話をなさっていらっしゃいますよ」

 執事に導かれ、公爵の寝室へ向かう。扉近くまで来ると、甲高い子供の声が響いているのに気付いた。


「やあ」

 扉の向こうは、結構大変なことになっていた。

 寝間着姿の公爵は広い寝台の上に座っていたが、彼の周りには二人の子供がきゃあきゃあ言いながらしなだれかかっていた。

 公爵は子供たちを叱るでもなく、むしろ、くすぐったりわざと掛け物を子供たちの頭の上から被せたりして、一緒になってふざけ合っているのだ。

 庶民の親子のような近しさに、エミルナールは改めて驚いた。

「コーリン。やっと目を覚ましたのかい?食事は済んだ?しかしもう昼だよ、大変だったから仕方ないけど若いくせにだらしないな」

 シラノールの脇腹をくすぐりながら公爵は言う。

 エミルナールがよく知るレライアーノ公爵の雰囲気に近くなっていて、なんだかひどくほっとし、不覚にも目頭が熱くなった。

「休みが半日つぶれてしまったじゃないか。せっかく王都に来たんだ、買い物をするなり可愛い女の子と遊んでくるなり、楽しんできたらどうだい?」

「エミーノは女の子と遊ぶのが好きなの?」

 ポリアーナの質問にさすがに公爵は一瞬つまるが、人の悪そうな顔でにやっとしてはぐらかす。

「んー、どうだろう?もしかすると、男の子と遊ぶ方が好きなのかもしれないねえ。おとうさまにははっきりわからないから、エミーノに訊いてごらん」

「ああ、もう。今日は何処にも行かず身体を休めるつもりですから。ややこしいことをおっしゃらないで下さい」

 そばの長椅子に座って、ほほ笑みながらこれらの様子を見ていた公爵夫人が立ち上がる。パンパン、と手を打って子供たちの注意を引く。

「さあさあ。おとうさまはまだご病気が治り切っていらっしゃらないのですよ。コーリンのおじさまとお仕事のお話もあるでしょうから、もうお部屋から出ましょうね」

 子供たちはお互いに顔を見合わせ、渋々ながら寝台を降りた。

「ねえおとうさま、今日は一緒にお夕飯、食べられる?」

「後で僕と紙将棋、やって下さる?強くなったって先生に褒められたんだよ」

 名残惜しそうにいろいろ言う子供たちへ、うーん、どうだろう、あんまり調子に乗ったらサーティン先生に叱られちゃうかもしれないしね、おとうさまも頑張ってみるけど、などと答えていた。


 夫人が手を引き、子供たちを連れて部屋を後にすると急に静かになった。

 公爵は寝台から降り、ガウンをはおった。

「コーリン。お茶と何か軽いものでも用意させようか?少し話したいこともある。君さえよければ今からでもその話をしたいが」

 エミルナールは諾い、ではお茶だけいただきますと答えた。呼び鈴で侍女を呼び、彼は、お茶と自分用に砂糖湯を持ってくるよう命じた。

「コーリンは香りのいいしっかりした味のお茶が好みだから、秋摘みの茶葉がいいだろう。私には上白糖で作った砂糖湯を頼む。今は癖のない砂糖湯が飲みたいから」

 さらっとそんなことを侍女に命じる公爵に、エミルナールは少し驚く。秘書官のお茶の好みまで把握しているのか、この人は。

「なんだ?」

「あ、いえ。閣下が私のお茶の好みをご存じなのに驚きました」

 公爵は軽く首を傾げ、そうかなと言った。

「常に近くで務めてくれている者の好みくらい、ある程度把握している方が普通だと思うがな」

 そして不意に人の悪い顔で、にやっと片頬をゆるめる。

「さすがに君が、果たして女の子と遊ぶ方が好きなのか男の子と遊ぶ方が好きなのかという個人的な好みまでは、把握していないよ、私は」

(ああもう、素直に感謝させてくれない人だな、相変わらず)

 しかしいつものような苛立ちは感じない。不思議と、なんとなくこの人可愛らしいなという気すらした。


 席が設えられる。

 ひじ掛けも背もたれもたっぷりした安楽椅子に公爵は座り、小卓をはさんで置かれた椅子にエミルナールは座る。お茶と砂糖湯が来たところで、公爵は侍女に、後はいいからお前たちは下がっていてくれと言う。

 侍女たちは頭を下げ、部屋を出て行った。

「甘みも牛乳も好きなように」

 そう言われたのでエミルナールは、小卓にあるものからアカシアの蜂蜜を選んで少し入れ、かきまぜた。

 公爵は眉を寄せ、そろそろと砂糖湯を口に運んだ。

「あの……閣下。今もお食事がしにくい、のでしょうか?」

 おそるおそる問うと、公爵は苦笑いするように頬をゆがめた。

「ああ。これでもかなり楽になったんだけど。そう言えば君には昨日から、ずいぶんと醜態をさらしてしまって心配や迷惑をかけてしまったね。ここ数年出なかったんだけど、これは若い頃からの私の持病みたいなものでね。心痛や疲れが重なると、吐いたり熱を出したりして食事を受け付けなくなる。厄介だけど、二、三日もすれば必ず治まるから、あまり心配してくれなくても大丈夫だよ」

 タイスン夫人の話と同じだ。

 何より、本人がそう言っているのだから間違えなくそうなのだろう。

 だが、『殺せ、殺せ』と公爵がうわ言で言っていた、というシラノール公子の言葉が心の隅で気になったが、今ここで訊くことなど出来やしない。

 公爵は砂糖湯のカップを置き、頬を引く。

「私の持病は大した問題じゃない。事態は一個人の体調不良なんかにかまっていられないほど急変している。……言っている意味はわかるだろう?」


 エミルナールは目で諾う。

「陛下は近く……レクライエーンの御許へ向かわれる」

 ささやくような声音で公爵は言う。一瞬、彼の菫色の瞳は揺らいだが、すぐに乾いて鋭く光った。

「残念ながらそれは覆らない。近しい身内との永遠(なが)の別れは、身分にかかわらず誰であってもつらい。しかし、単純に嘆いてだけいられないのが王族なのだ、わずらわしい話だが。否応なく次のことを考えなくてはならない」

「閣下……」

「私は閣下でいたいし、いるつもりだった」

 公爵は苦く笑う。しかめた眉の下で、濃い紫の瞳が苦しそうにすがめられる。

「しかし陛下御自らから、お前は『閣下』の立場に逃げているなと言われてしまった。私は……王にならなくてはならない」

 エミルナールは息を呑んだ。

 将棋に擬した話が何を表しているのかくらい、普通の思考力を持った者ならわかるだろう。

 直接的な言葉をたどるなら、これは将棋の話だとしらを切れる単語の羅列で語られた内容は、実にあからさまできわどかった。しかし……。

「王女殿下が、いらっしゃいます」

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― 新着の感想 ―
王族は古今東西苦しいものですね。 自ら野心を持ってそこに上り詰めてゆく初代を除けば・・・。
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