第一章 二つの遺言状④
公爵は熱を出していた。
ぎりぎりで保っていた体力が尽き、がっくりきたのだろう。
待機していた医者が呼ばれ、公爵は寝室に運ばれる。荒い息の中、うなりながらうわ言らしい何かをつぶやいている公爵を遠巻きにしていたエミルナールだったが、ここにいても自分は役に立つまいと思い、そっとその場を離れた。
部屋に戻って着替えていると、侍女から、湯殿に湯が沸いているので入浴してくれと伝えられた。有り難く汗を流させてもらう。
身体の内側によどんでいた凝りや疲れがお陰でかなり楽になったが、頭は逆にキリキリし始めた。
言葉を聞いている限りでは将棋の話でしかない、きわどい会話。
病中の王を見舞う王弟の海軍将軍ではなく、病中の兄を見舞う弟という建前で語られるあれこれに、エミルナールはぞわぞわする。
大きな音を立てて何かが動いている。
一官吏の器を超えた状況、おそらくは歴史の転換点に今、エミルナールは立ち会っている。
頭ではわかるが実感が伴わない。あるのはただ、生物としての本能がとらえる恐怖だけだ。
(フィスタへ帰りたい)
寝台に寝転がり、意味もなく暗い天井をみつめながらエミルナールは、やや情けなくそう思った。
ふざけたくせ者の将軍の軽口を受け流しながら、仕事の片手間に将棋の相手でも務めている方がよっぽどマシだ。
扉を叩く音に、エミルナールはぎょっとして起き上がった。
「コーリン。起きてるか?」
さすがに少し遠慮した声はタイスンだ。どうぞと応え、エミルナールは立って扉を開けた。
扉の向こうにいたタイスンは、酒の詰まった瓶と小さめのグラスを二つ持っていた。
「よう。疲れてるところ悪いな。なんだか妙に目が冴えちまってよ、寝酒でもやろうかと思った時に、ひょっとしたらあんたもそうかじゃねえかと思ってね」
タイスンは瓶を振る。
「公爵から下賜されたレーンの蒸留酒だ、サトウキビから作ったとは思えねえきりっとした酒だぜ。一杯どうだい?」
いただきます、と答えて少し笑う。そう、彼の言う通り、こんな日は強めの酒でもあおって強引に眠ってしまった方がいい。
小さめのグラスに半分ほど注がれた蒸留酒を不用意に一口飲み、エミルナールは軽くむせてしまった。葡萄酒のようなつもりで飲もうとして、その意外な手ごわさに驚く。
「きつい、ですねえ」
ケホケホと咳き込んだ後、思わずエミルナールは言った。
「そうか?ああ、麦酒や葡萄酒に比べりゃ確かにきついよな」
言いながらタイスンは、ゆっくりながらグラス半分の酒のほとんどを飲んでいた。どこか遠くを見ているような目で、彼は何か考え込んでいる様子だった。
「タイスン殿」
声をかけると、ああ?と言いながらタイスンはこちらを見た。険しさの残るその目許にややたじろぐ。
「あ、いえ……閣下のご体調はどんな感じなのでしょうか、と……」
タイスンの目許がふっとゆるむ。
「俺も詳しいことはわからん。だがまあ、子供の頃から公爵を診ているサーティン先生がついてるし、奥方やウチのカミさんもそばで世話してる。あんたは初めて見たから驚いただろうけど、公爵があんな状態になるのは別に今回が初めてじゃねえんだよ。ありゃ公爵の持病みたいなモンでね。だからそんなに心配しなくていい」
「そう、ですか」
エミルナールの屈託をいたわるように、タイスンは笑みを作る。
「コーリン。あんたにしてみりゃ、レライアーノ公爵は一体どうしちまったんだって不安になるだろうけど。俺にしてみりゃ、ちょっと懐かしいってのが本音なんだ。あんたにとっちゃ気味が悪いほど真面目でまとも、余計なことを一切しゃべらない、部下や従者に真っ直ぐ気配りする、いかにも王族らしい二枚目のあいつが多分、あいつの地なんだよ。少なくとも十年以上前のあいつ、王宮の片隅にある離宮で暮らしていた少年王子は、あんな感じだった」
意外な話にエミルナールは思わず絶句した。タイスンはふっと目を伏せる。
「ま……その。いろいろあってよ、公私共に。おちゃらけた馬鹿にしか見えない男だけど、ああ見えて内面は結構ボロボロでね。セイイール陛下があいつに爵位を賜ったのは、『レライアーノ公爵』という名の仮面を宮廷の台風の目という役割と一緒に与えて下さったんだと俺は個人的に思ってる。仮面の下には傷跡がいくつもあって、さらして生きるのはかなりきつい。特に、宮廷のような魑魅魍魎のうようよする場所ではな」
エミルナールはうつむき、のろのろとグラスを唇に運んで酒をなめた。酒独特の熱が、かあっと舌や口蓋を焼く。
「コーリン」
呼びかけられ、エミルナールは顔を上げる。
やや逡巡したように、タイスンは目をしばたたいた。
「や、その。これもあくまで俺個人の考えだから、あんたの頭の片隅に、タイスンのおやっさんがこんなこと言ってたなあくらいに引っかけておいてくれたらいいんだけどよ」
「……はい?」
酔いが回り始めてとろんとした目を、エミルナールはタイスンへ向ける。
「エミルナール・コーリン。お前さんはセイイール陛下がレライアーノ公爵……いや。アイオール・デュ・ラクレイノへ賜った強力な助っ人だ。エミルナール・コーリンに代わる人材はそういやしない。官吏登用試験を若くして主席で受かった秀才、というだけじゃなく……な」
ぼんやりとエミルナールは、いつになく真面目なタイスンの鳶色の瞳を見る。タイスンは照れたようにちょっと笑った。
「すまない、しゃべり過ぎたな。明日は休みをいただいたんだ、ゆっくり寝て疲れを癒してくれ」
おやすみ、と言って部屋を後にするタイスンへ、おやすみなさい、ありがとうございますとエミルナールは答えた。
朝が来た。
目を覚ましたエミルナールは、明かり取りの窓ガラス越しの白い陽射しをぼんやりと見つめる。すでに日が高そうだ、かなり朝寝をしてしまったようだ。
ガラスは貴重品、一応客分とはいえ目下の者が寝起きする部屋の窓にまで備えていることは普通ない。
レライアーノ公爵家は裕福だ。
フィスタは元々、軍港であるより前から商港だった。
レライアーノ公爵はその出自から、レーンとつながりが深い。
質の良い砂糖、真珠や珊瑚など海でしか採れない宝飾品の材料など、ラクレイドでは貴重なあれこれを自前の大きな船でレーンから仕入れ、まあまあ良心的といえる価格で上手く各地へ流通させているそうだ。
実際、フィスタは彼が領主になって以来、かなり豊かになった。歌にあるように『富と恵みをこの地にもたらす』領主様という訳だ。
フィスタは現在、国へ規定以上の租税を納めても余裕があった。結果的に役人や警備隊員の待遇も良くなり、町は安全でよく治まっている。
そもそも彼は、海軍将軍としての報酬だけでも十分、妻子を養えるだろう。
本人にあまり欲がないのか贅沢らしい贅沢はしないし、愛人を囲うこともしない。愛人を持つどころか奥方にぞっこんなのは、彼の近くで務めていればすぐわかる。
だからか妻子の住むこの屋敷だけは、こういう身分の人の本宅としては小ぶりながら、細部まで手のかかった贅沢な造りになっている。
仕事をしているらしい下働きの者の明るい声が響いてくる。
お約束になっている冗談を言って笑い合っている様子だ。
この屋敷に勤めている者は半分以上、彼が王子時代に暮らしていた離宮にいた従者たちやその縁者という話だ。いい意味でも悪い意味でも、気心の知れた者同士のなれ合いの空気がある。
よく言えば家庭的、悪く言えば排他的な、慣れた者にとっては非常に居心地のいい、勤めやすい屋敷かもしれない。
思うともなくそんなことを思いつつ、エミルナールはのろのろと身を起こした。身体のあちこちに筋肉痛めいた痛みがあるのは、まあ仕方があるまい。
ためらうような小さな合図が、扉のやや低い位置からした。軽く髪を整え、エミルナールはどうぞと答えた。
扉の向こうには手をつないだ、蜂蜜色の髪をした男の子と女の子が立っていた。
公爵のお子様たちだ。
公爵の部下としてフィスタから従ってくる者の中では、エミルナールはかなり若い方だ。
おじさんじゃなくおにいさん、という感じがして親しみを持つのか、この二人はエミルナールへよく寄ってくる。
エミルナール自身も決して子供が嫌いではないので、仕事の手が空いている限りは遊び相手になるようにしてきた。
今では二人から、年の離れた友達のように思われているらしい。二人とも、エミルナールが王都へ来たら一緒に遊ぼうと手ぐすねを引いて待っている雰囲気がある。
しかし今日、二人は遊びに来た訳ではなさそうだった。小さな顔をこわばらせ、手をつないだままおずおずと部屋へ入ってくる。
「どうなさいました?ポリアーナさま。シラノールさま」
「エミーノ」
公爵の面差しを受け継いだ、怜悧な感じに整った顔立ちの公女が、父親よりは淡い紫の瞳を陰らせて呼びかける。
「あのね、おとうさまがご病気なの。お夕飯も朝ごはんも食べないのよ」
「お熱が出て、うんうんうなっていらっしゃるの」
母君譲りの色白で儚げな顔立ちの公子が言う。姉とよく似た淡い紫の瞳が、よく見ると少し潤んでいる。
「怖いこともおっしゃってて……僕、逃げてきたんだ」
エミルナールはまず二人を椅子に座らせ、自分は寝台の縁に座っておびえたような目をしている子供たちと視線を合わせた。
「怖いこと?お二人のおとうさまが?何とおっしゃっていたのですか?」
「あのね」
シラノール公子はうつむく。
「僕とおねえさまは昨日の晩、おとうさまをお出迎えしようと思って玄関広間にいたの。でも、おとうさまが真っ青な顔で倒れてしまわれて、お戻りなさいませが言えなかったの。乳母やがあわてて僕たちを部屋に連れて行ったんだけど、僕、気になったからおとうさまのお部屋へこっそり見に行ったの。おとうさまは寝台にうつ伏せになって、うなっていらっしゃったの。サーティン先生が作った薬湯も飲めず、がくがく震えて……」
顔を上げた公子の瞳に涙が浮いていた。
「殺せ、殺せ……って」
胸を突かれた。穏やかな言葉ではない。
「ねえ、エミーノ。おとうさま……死んじゃうの?」
「シラノール!」
悲鳴のような声で公女は、弟君を叱りつけた。だってえ、と公子は本格的にべそをかき始める。
エミルナールは出来るだけ、のんびりとした笑顔を作る。
「ご心配には及びませんよ」
安心させるようにてのひらで、ぽんぽん、と二人の子供の頭を軽くたたく。
「おとうさまは今回、とっても急がなくてはならない御用があって、それで大急ぎで王都へ戻っていらしたんです。だからすごくお疲れになって、それが元で少しだけご病気になってしまわれたのですよ」
子供たちはやや上目遣いになってエミルナールの表情をうかがう。子供だと思ってごまかしているのではないか、という幼いながらの猜疑心が見え隠れする。
「本当?」
公女の言葉に、エミルナールはほほ笑む。
「本当ですとも。エミーノは今まで、お二人に嘘をついたことがありますか?」
細い絹糸を思わせる二人の髪を、エミルナールはそっと撫ぜる。母君譲りの髪は流れるように真っ直ぐだった。
二人はようやく少し安心したのか、ぎこちないながら笑った。
「ううん。エミーノは嘘をついたこと、ないよ。お約束もちゃんと守ってくれるもんね」
公女の言葉に、公子もうなずく。
「さあ。お二人ともそろそろお戻りなさいませ。タイスン夫人やお世話係がきっとお二人を探していますよ」
「大丈夫だよ」
公子が目に涙の名残りを置いたまま、にやっとする。
どこか人の悪いその笑みは、彼の父親を思わせた。顔立ちは母譲りなのに、親子とは不思議だ。
「お寝坊エミーノを起こしに行ってたんだって、言うもん」