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第一章 二つの遺言状③

 外には、レライアーノ公爵を示す真珠貝の意匠の紋章旗を掲げた馬車と、二頭の馬。

 公爵は馬車で、タイスンとエミルナールは馬、という訳だ。

 うわ、と内心、エミルナールは声を上げた。食事をして少ししゃっきりしたとはいえ、身体のあちこちは痛いし内腿はひりひりしている。しかし文句の言える場合でも立場でもない。

 馬車と馬は静かに王宮を目指す。


 レライアーノ公爵は王弟、従者ともども春宮の入り口まで馬車と騎乗が許されている。

 エミルナールはよろめきながら馬を降り、馬丁に託す。

 若い侍従の先導で、公爵に後ろに従って進む。

 春宮へ入るのは初めてだ。

 こちらは王家の方々のいうなればお住まいなので、当然入れる者が限られるし、そもそもエミルナールの仕事上、こちらへ来る必要は今までなかった。

「そんな緊張するな、コーリン」

 隣を行くタイスンが、ささやくような声で言う。

「別に取って食われやしねえよ。ラクレイドは基本平和なんだし、春宮内は居眠りしてても大丈夫なくらい安全だよ……今は、な」

 無表情なタイスンの顔。

 言葉とは裏腹の、そこはかとない緊張感が彼の全身からただよってくる。

 油断するとがくっと崩れそうな己れの足腰に、エミルナールは改めて力を込める。


 公爵はしゃべらない。ややうつむきがちにただ歩く。

 青ざめた彼の頬は動かないし、常にはうるさいほど言葉が垂れ流される彼の唇も動かない。

 彼の菫色の瞳は、どこか遠くに焦点が合っているように見える。

 元々怜悧な感じに顔立ちが整っている彼が、歩きながら沈思黙考している姿には一種の凄味すらあった。

(閣下……)

 背中では漆黒のつけ毛が静かに揺れている。

 おそらく、海軍着任時の挨拶で切り落としたという公爵自身の髪で作られたつけ毛なのだろう、全体としっくりなじんでいて違和感はない。

 だけど、しゃべらない、髪の長いレライアーノ公爵など、エミルナールの知るくせ者の海軍将軍ではない。

(閣下……)

 エミルナールはふと、自分が仕えている上官が全く別人になってしまったような、何とも言えない心細さにおそわれた。


 廊下のあちら側から来る人影に、エミルナールの緊張はさらに高まった。

(老リュクサレイノ!)

 セイイール陛下の母方の祖父にあたられる方だ。

 爵位は息子に譲ったものの、未だに隠然たる力を誇る保守派の首魁。

 当然、レライアーノ公爵とは折り合いが悪い。

 公の場に姿を現すことは減ったものの、彼はレライアーノ公爵の最大の政敵といえる人物だ。

 老リュクサレイノはふと顔を上げ、長く伸びた白い眉の下でこぼれ落ちそうなほど目を見張った。

 年配者によくある白っぽい陰りが彼の青い瞳にはあったが、それでもそこにはまだまだ強い光と生気を感じさせた。

「レライアーノ……公爵?」

 なぜお前がここにいる、とでも言いたそうな口調だった。

 沈思黙考から呼び戻された公爵は顔を上げ、声の主へ焦点を合わせる。途端に表情が変わった。ぞっとするほど美しいほほ笑みが青ざめた彼の頬に刻まれる。

「これは……ごきげんよう。お久しぶりですね、リュクサレイノ卿。ずいぶんと珍しいところでお会い致します」

 今まで聞いたこともないほど冷ややかな声だった。老リュクサレイノはややむっとする。

「ごきげんよう、レライアーノ公爵閣下。しかしながらそれはあなたの方ではありませんか?フィスタでのお務めはどうなさいました?放っておいて大丈夫なのでしょうか」

 老リュクサレイノの言葉に、公爵は笑みを深める。

「海軍は将校はじめ一兵卒に至るまで優秀な人材がそろっております。将軍が少しばかり休みを取ったくらいではびくとも致しませんよ」

「それはそれは……結構なことでございますな。さすがは優秀な将軍閣下が束ねていらっしゃる海軍。素晴らしい」

「お陰様で」

 冷たい皮肉の応酬の後、それではと二人は別れる。しかしすぐに

「レライアーノ公爵閣下」

 と、老リュクサレイノが公爵を呼び止める。足を止め、振り返る公爵へ、老リュクサレイノは冷たい笑みを浮かべる。

「何を聞きつけてきたのかは存じ上げませんが。あなたの出る幕は今後もありませんよ。この年寄りがご忠告申し上げます、フィスタへお戻りになり、お務めに邁進なさいませ。青軍服は(おか)では役に立ちますまい」

 公爵も老リュクサレイノに負けぞ劣らず冷たい笑みを浮かべ、応じた。

「ご忠告、痛み入ります、リュクサレイノの()()()

 わざわざ『ご隠居』を強調するように言われ、老リュクサレイノは一瞬、気を悪くしたように眉をひそめた。が、何も言わずに彼はきびすを返した。

 公爵自身も不快そうにひとつ息をついたがすぐ頬を戻し、先へと進む。


 奥の間に侍従長であるロクサーノ子爵がいて、出迎えてくれた。無表情ではあったが、どこかしらほっとした色が目許にある気がした。

「一応先触れは出したのだが。陛下……兄上にぜひお取次ぎを」

 公爵の言葉に、ロクサーノ子爵はうなずく。

「承っております。こちらへ」


 王の私室へ導かれた。

 私室も私室、寝室だった。

 一歩足を踏み入れ、エミルナールは胸をつかれた。

 寝室には表現しがたいにおいが充満していた。

 薬湯のにおいが主だろうが、それだけではない。そのままくるりときびすを返したくなる、本能的に忌避したくなる不吉なにおいだ。

「陛下」

 天蓋を深く下した寝台へ近付き、公爵は呼びかける。

「陛下、アイオールでございます」

「……アイオール?」

 しわがれた声。眠っていたかのような茫然とした口調だった。

 身じろぎの気配があり、軽く咳き込む気配がある。

「陛下!」

 公爵はあわてて腰を折り、寝台の人物に手を貸す。羽枕やクッションを背中に当て、ようやくその人物……王は身を起こす。

 天蓋越しながら王の姿を見て、エミルナールは激しい衝撃を受けた。


 三年前。

 初めて謁見の間でお会いした王は、うら若き乙女に紛う繊細で美しいお顔立ちでいらっしゃった。

 青白いようなお顔の色で、有り余るほどに健康という雰囲気ではない方だったが、輝く蒼い瞳は鋭く、弁舌は明晰で、若年ながら侮り難い、歴史ある大国の王に相応しい覇気をまとっていらっしゃった。

 しかし、今の王は……。

「ああ……すまない」

 ため息まじりに王は言うと、少し笑う。

 青黒くむくんだ頬、力のない瞳。だるそうに羽枕にもたれかかる様はまるで、老人のようでさえあった。御歳二十七、まだまだ青年と言える若さでいらっしゃるというのに。

「驚いたな、レライアーノ公爵……いや。アイオール。お前宛に棋譜を送ったのは三日前だったのに。まだ話が出来る状態の時に会えるとは思っていなかったよ」

「陛下、そんな……」

 セイイールでよい、と言うと王はひと息つく。

「今更取り繕うこともない。時間の問題だ、私はもうまもなく、レクライエーンの御許へ旅立つ」

 絶句する公爵へ、王は苦く笑う。

「せめて……あと五年。三年でもいい。もう少し、もう少しフィオリーナが成長していれば状況はまったく違ったのだろうが。私は己れの脆弱すぎる身体が恨めしい。しかしそれが覆らない運命ならば、ただ嘆いていても仕方がない」

 王は頬を引く。

「棋譜の通りだ、アイオール。状況は良くない、むしろ悪化するばかりだろう。対外戦の棋譜を見てくれたか?まあ、これを読み解くのは私よりお前の方が切実に危機を感じるだろう。内輪戦の棋譜も面白くない状況だ。手駒の多い老いた『将軍』は『王妃』と『王子』の駒を囲い込み、持久戦へと持ち込むだろう。立てこもられると厄介だ。しかし彼は昔から、城を守る将校や兵卒の駒を、使い捨てるというか大切にしないきらいがあるな、無意識の癖だろうが。思わぬところからほころびが出ると予測される」


 『対外戦』『内輪戦』は競技将棋と呼ばれる遊びの用語だ。

 参加者を盤の色である紅白で分け、まずそれぞれの組で勝ち抜き戦をするのが『内輪戦』、内輪戦を勝ち抜いた『王』と呼ばれる優勝者が『対外戦』で戦い、紅白の雌雄を決する。

 宮廷で年に一度、新年祭の後に行われる競技将棋がこの遊びで一番権威のある大会とされている。

 セイイール陛下は将棋の名手で、成人後すぐの十六歳でこの大会を制した、という伝説的な記録の保持者だ。その時の棋譜の写しは上級者のお手本として、今も広く出回っている。


 しかし当然今、競技将棋の話などしているはずがない。

「……陛下、いえ、セイイール兄さま」

 やや逡巡した後、公爵が言葉をかける。王はため息をつきながら苦く笑う。

「人生は将棋じゃない、ヒトは将棋の駒じゃない……か?」

 言った途端、王は苦しそうに咳き込んだ。公爵はあわてて兄王の背をさする。

「わかっているよ。第一将棋の駒の方がずっとわかりやすい。それに、数多の命と運命ががかかわる将棋など……すでに将棋じゃない」

 王は大きく息をつき、頬を引く。

「だが指し続けなくてはならない。それが『王』と呼ばれる者の役割だ。対外戦を指せる者は『王』だけだから」

「セイイール兄さま。『王妃』と『王子』を守る『将軍』では……いけないのでしょうか?」

 公爵の言葉に、王は首を振る。

「お前の言いたいことはわかる。その方が盤上に波風も立たないだろう。しかし、ひとつの陣営に『将軍』は二つ。動き方と役割の違う二つの将軍が上手くかみ合えば鉄壁の陣となるが、かみ合わなければむしろ有害、中級以上の指し手ならわかるはずだ……」

 王は目を閉じ、羽枕にもたれかかる。

「そして『将軍』を抑えられるのは『王』だけだ。指し手が誰であろうとそれが将棋の規則だ。……私とて。己れが広間の真中で指す日が来るなど予想していなかったよ。私よりもずっと相応しい先達がいたんだ、それこそ『王妃』と『王子』を守る『将軍』が私の器だろうと、ずっと思ってきたんだよ……」


「セイイール兄さま、いえ」

 公爵は大きく息をつき、だしぬけに寝台のそばで片膝をついて深く頭を下げた。

「第十一代ラクレイド王 セイイール・デュ・ラク・ラクレイノ陛下。私アイオール・デュ・ラクレイノ・レライアーノは天命により、あなたを唯一の主と仰がせていただきます。以後私はあなたに従い、わが命とわが力のすべてを、あなたへ捧げてお仕えすることをここに誓います」

(これは!)

 『就任の誓いの挨拶』の原型となった、王への忠誠の誓いだ。

 今では王の即位式に儀式として行われるだけだが、昔は、重く神聖な臣従の誓いとして広く行われていたという話だ。

「お立ちなさい。その誓いを忘れず、今後精進するように」

 王は言う。誓いを受けた王の紋切りの返事だ。公爵は静かに立ち上がる。

 羽枕に沈めていた身体を、王は突然すうっと起こした。往年の覇気が、病み疲れた王の身体にみなぎる。

「公爵アイオール・デュ・ラクレイノ・レライアーノへ命じる。私に代わり、この将棋の続きを指すように。今後の方針、指し方のすべては汝に一任する。ただ棋譜を丁寧に読み解き……『王妃』と『王子』の駒を、大切に扱って欲しい」

「承りました。御心のままに」

 公爵の応え。頼む、とつぶやくように言い、王は再び羽枕に身を沈めた。

「……少し疲れた」



 そこで王の寝室を辞した。

 寝室のそばに控えていた侍従長に礼を言い、公爵は早足で戻り始めた。後ろに従うエミルナールとタイスンが、小走りになるくらいの早足だった。

 宵の星空の下、馬車と馬が公爵邸へ戻る。

 エミルナールはひりつく内腿をなだめながらなんとか馬を操り、逡巡したがタイスンへ寄る。

「あの。タイスン殿……」

「何も言うな」

 正面を見たまま、タイスンは素っ気なく答えた。

「ウチの公爵様はご病気の兄君を見舞い、将棋の話をして気散じさせて差し上げた……そう思ってろ」

「は、はい」


 ようやく公爵邸に着いた。

 馬車から降りた公爵の顔を一瞥し、エミルナールははっとした。

 ぬれている訳ではなかったが、公爵の顔には涙の気配が残っていた。

 玄関の扉へ向かう前に、公爵はエミルナールとタイスンを向き直って見た。

「二人とも、昨日から休む間もない強行軍で大変だっただろう。よくやってくれた、礼を言う」

 公爵に真面目にねぎらわれたのは着任以来初めてだったので、エミルナールは思わず絶句した。

「いえ。もったいないお言葉です」

 タイスンが普通の従者のような返事をしたのでもっと驚いた。

 状況が理解できず目を泳がせているエミルナールを憐れむように、公爵はかすかに笑んだ。一瞬だけ普段のレライアーノ公爵の顔がかすめたような気がして、エミルナールは妙にほっとした。

 すぐ真顔に戻り、公爵は言う。

「明日は一日、休みを取ってくれ。状況は予断を許さないが、今日明日すぐ変わるとは考えにくい。それでも休めるのは明日いっぱいくらいだと考えていた方がよさそうだ。だから二人とも、明日はゆっくり休んで英気を養っておくれ」

「ありがとうございます。お心遣いに感謝致します」

 打てば響くようにタイスンが答える。エミルナールもあわてて、お心遣いに感謝致しますと答えた。


 玄関には公爵夫人が出迎えていた。

 公爵の愛妻である夫人は儚げな美女である。

 アカシアの蜂蜜を思わせる色合いの髪を柔らかく結い上げた彼女は、心配そうに青灰色の瞳を陰らせて夫を見つめている。

 現在三度目の懐妊中で、安定期を迎えたばかりだそうだ。

 しかし下腹はややふくよかながら、妊婦とも思えないほどほっそりした立ち姿だった。すでに二人の子供を持つ母親でいらっしゃったが、どことなく乙女のような雰囲気の方だ。

 公爵も年齢よりかなり若く見えるから、この二人が寄り添って立っていると十代後半の恋人同士のような雰囲気になる。

「お戻りなさいませ、閣下」

 妻の声に、ようやく公爵は頬をゆるめる。

「マリアーナ……」

 ほっとしたように名を呼び、公爵は妻の細い肩を抱いた。そして長いため息をつくと、

「疲れた」

 とつぶやき、ずるずるとゆっくり彼はくずおれていった。

「あなた!」

「閣下!」

「旦那様!」

 声が激しく飛び交う。

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― 新着の感想 ―
[良い点] ここまで読みました。 蹴躓く場所が一ヶ所もなかったです。すごい。 エミルナールと一緒にドキドキしながら読んでいます。 [気になる点] それにしても、ちょっとニブいぞエミルナール。。(笑)
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