第四章 虚ろの玉座③
それから数日後。
宮廷中にひそめた声で、こんな噂話が流れた。
海軍将軍レライアーノ公爵は、どうやら密かにルードラントーとつながりがある様子。
デュクラがルードラントーに屈した、などと言って軍船を国境近くの海域へ無断で進めたのも、どうやら公爵自身がルードラントーと結託し、ラクレイドへ攻め込む計画だったとか。
しかしその計画は中途で頓挫したらしく、公爵は行方をくらませた。
彼の妻子も、フィスタで静養という名目で今現在王都から離れているが、どうやらフィスタにはいないらしい。
デュ・ラクレイノであるにもかかわらず、残念なことにレライアーノ公爵は国賊であったようだ。
最も裏切りの確かな証拠はない。さすが策士、尻尾をつかませはしない。が、『行方をくらませた』という彼の行動がすべてを物語っているだろう。
しかしながらレライアーノ公爵は、仮にも王族である。
王家の名誉にもかかわってくる話だから、よほどの証拠が出てこない限り彼が正式に断罪されることはないだろう。
断罪こそされないが、事実上レライアーノ公爵は失脚した。
ラクレイドに彼の戻れる場所はない。
読みかけの本を閉じ、フィオリーナはため息をついた。
『学友』たちとの学びはこのところ、一時中断している。
漏れ聞こえる不快な噂に心が沈むし、カタリーナお祖母さまから色々教えていただく時間も取らなくてはならない。
母はあの日以来、病みついている。
父の病中から積み重なった心身の疲れもあるだろうが、デュクラがルードラントーに屈したという話で、心が折れてしまったのだろう。
近々フィオリーナが即位を宣言することになるのは、もはや避けようがない。
同世代の少女たちと、刺繍を刺したり詩を暗唱したりしている場合でも気分でもなかった。
(結局、何もかも曾祖父さまの思惑通りという訳ね……)
胸でひとりごち、フィオリーナは思わず苦く笑う。
詳細がよくわからないまま、レライアーノ公爵はラクレイドを裏切っているらしい、という衝撃的な噂だけが宮廷内を独り歩きしている。
国の存亡がかかっているかもしれないこの状況で、不確かな情報と感情だけで物事が進んでゆく虚しさ。
フィオリーナは再びため息をつく。
一体何度ついたのか、もうわからない。
噂の出所に心当たりがあり過ぎる。
憶測と気分で巧みに組み立てられたこの噂、いかにもリュクサレイノの曾祖父さまらしい。
憶測と気分だけなのに、奇妙な説得力を感じさせるところも。
フィオリーナの即位を早く確実に進めたいという思惑が、この噂を広める原動力だろう。
そもそも隠すつもりのない思惑だろうが、あからさま過ぎてフィオリーナは恥ずかしい。
それに。
「お祖母さま、少しお話してもよろしいでしょうか?」
ここ最近毎日のようにカタリーナお祖母さまと午後を過ごしながら、いろいろ教えていただいている。
目でうなずくお祖母さまへ、フィオリーナは思い切って問う。
「このところ宮廷で盛んに言われている噂、ご存知ですか?」
お祖母さまはかすかに苦笑する。
「いくつか聞きました。レライアーノ公爵がルードラントーに与しているらしい、とか」
「お祖母さまはどう思われますか?」
半ばにらみつけるようにして問うフィオリーナのはしばみ色の瞳を、お祖母さまは静かに見返す。
「貴女こそどう思われますか?」
「わたくしはお祖母さまに質問をしているのです。はぐらかさないで下さいませ」
苦笑まじりながら、面白そうにお祖母さまは応える。
「わかりました。……そうですね、あくまでもわたくしの感じたことですが。火のないところに煙は立たないとも言いますから、彼がそう言われるのにも理由があるのでしょう。事実彼には不可解な言動が見られましたし、『虚ろの玉座の嘆き』でも玉座への野心をほのめかしました。あながち、外れていない訳でもないのかもしれませんね」
「……そうですか」
むっつりと目を伏せるフィオリーナへ、お祖母さまは先程の質問をぶつけてくる。
「では。フィオリーナはどう思いますか?」
フィオリーナは軽くまぶたを閉じ、ひとつ大きく息をついた。
「わかりません。感じ取れるのは悪意と思惑だけで、事実も真実も見えませんから」
「悪意と思惑?」
問うお祖母さまを、フィオリーナは唇をかみ、きつく見返す。
「アイオール叔父さま……レライアーノ公爵は。ひょっとするとラクレイドを裏切っているのかもしれません。ルードラントーに与しているのかもしれません。デュクラに関する情報も、もしかするとよく出来た嘘なのかもしれません。でも……」
フィオリーナはもやもやの芯を見つめる。
「この噂にあるのは情報ではなく、レライアーノ公爵を陥れたいという悪意と、わたくしを王位に就けたいという思惑。それだけです。少なくともわたくしにはそうとしか伝わってきません。わたくしが欲しいのは情報、それも正しくて確実な情報です。それなしに何も判断出来ませんから」
お祖母さまは驚いたようにかすかに眉を上げ、苦笑ではない笑みを浮かべた。
「良い答えね、フィオリーナ。さすがはライオナールとセイイールの愛娘だわ」
思わずぎくりと身体がゆれた。
カタリーナお祖母さまの口から『ライオナール』の名が出たのは、フィオリーナの記憶にある限りでは初めてだ。
お祖母さまの蒼い瞳は、どことなく揺らいで見える。
「欺瞞を嗅ぎつける本能的なまでの鋭い感性。物事の判断には正確な情報が必要だと考える冷静な思考。ライオナールの血から伝えられた感性を、セイイールの薫陶を受けて磨いた貴女は、ふたりの父から素晴らしいものを受け継ぎ、ひとつにしていたのですね」
思わぬことを言われ、フィオリーナは戸惑う。お祖母さまは柔らかくほほ笑んでいる。
「貴女はいい子だけど、正直言って王位に就くのはどうかと思っていなくもなかったの、年齢が若すぎるからだけでなく。真っ直ぐで素直であることは美徳だけど、王としては必ずしも美徳ではないわ、残念だけど。でも今の貴女なら……」
お祖母さまはほほ笑んだまま、涙を一筋、流した。
「第五代ラクレイド王たるフィオリーナ陛下はきっと、貴女のような少女だったのでしょうね、フィオリーナ……いえ」
お祖母さまは涙を指でぬぐい、すっと居住まいを正した。
「フィオリーナ王女殿下。もちろん今までも、全力で貴女の後見役として補佐するつもりでしたが、少し意識が変わりました。貴女は王だわ、もうすでに。足りないのは年齢と経験だけで、一番大事なものはもうすでに貴女の中にあるご様子。貴女の足りないものはわたくしにあるでしょう。なにとぞ上手にお使いになって下さいませ」
「お、お祖母さま……買い被り、です」
あまりにも大層な褒め言葉、困惑を通り越して恐ろしい。
青ざめる孫娘へ、王太后カタリーナはかぶりを振る。
「買い被りなどではありませんとも、どうか自信をお持ちになって下さいませ。我々の、未来の女王陛下」
以来、フィオリーナに対するカタリーナお祖母さまの接し方が少し変わった。
教え導くというより、情報を共有して互いの考えを述べ合うことで、フィオリーナを伸ばそうとなさっている様子だ。
「叔父としてではなく、レライアーノ公爵をどう見ますか?」
翌日の午後。カタリーナお祖母さまが問う。
難しい問いだ。
フィオリーナは一瞬、口に含んだお茶が気管へ入りそうになった。ハンカチで口許を押さえ、答える。
「わたくしは叔父として以外のレライアーノ公爵をよく知りません。ただ……」
「ただ?」
お祖母さまの射抜くような蒼い瞳。
父はきっと、こんな風に臣下諸侯を見据えていたのだ。さながらレクライエーンの前にいるかのごとき恐ろしさに、どうしようもなく胸がわななく。
「玉座への野心とか祖国への裏切りとか。彼の人となりとはそぐわない印象が強いです」
ふと目を伏せた後、フィオリーナは思い切って言葉を続ける。
「わたくしの印象が、必ずしも彼のすべてではないくらいは承知しています。でも半年ほど前、父上……セイイール陛下とお茶を飲んでいた時のことを、わたくしは時々思い出すのです」
フィオリーナは冷めかけたお茶で口を湿らせる。
「その時、陛下はわたくしへ、女王になりたいかと問われました。まるで、お茶へ牛乳を入れるかいとでもいう軽さで問われたので、わたくしも半分冗談で、今まで女王になりたいと思ったことなどないと即答しました。すると陛下は大声で笑って、まったく王になりたくない者ばかりだ、ラクレイドは実に変わった国だと仰せられたのです。『なりたくない者ばかり』ということは、陛下は同じ問いをレライアーノ公爵にもなさって断られたのではないか、と後から思いました。ストンと納得出来ました。王位に執着のないレライアーノ公爵が、わたくしの知るアイオール叔父さまの在り様と一致しますから」
なるほど、とつぶやき、お祖母さまは少し考え込む。
「フィオリーナ」
お祖母さまは再びフィオリーナを見据える。
「わたくしは過去五年ほどの御前会議の議事録や各種の報告書の写しを取り寄せ、読んでみました。そこで語られている内容をかいつまんで貴女へ説明しましょう。腑に落ちないことがあったり正確を期したい場合は、お貸ししますから写しを読んでみて下さい。レライアーノ公爵の動向を含めたラクレイドの宮廷、そして周辺諸国の実際を知って下さいませ」




