第一章 二つの遺言状②
子供の声が聞こえる。
薄明りから完全な覚醒のはざま辺りでエミルナールは思う。
子供?何故?フィスタ砦に子供はいない。野卑な男どもと威勢のいいおばさんばかりがいる、活気はあるけどうるおいに乏しい環境。子供なんかいたら蹴り飛ばされそうな……。
(いや、でもないか。彼等はみんな優しい。ただ荒っぽいだけで)
「神山ラクレイのふもとにソを持つ、こうしゃくアイオールの息子、シラノール・デュ・ラク・レライアーノと申します。よろしくお願い、いたします!」
「神山ラクレイのふもとに祖を持つ、公爵アイオールの娘、ポリアーナ・デュ・ラク・レライアーノと申します。よろしくお願い致します」
男の子と女の子の声。ややたどたどしい男の子の声と、その年齢にしてはなめらかに口上を述べる、ちょっと気取った感じの女の子の声。
(……デュ・ラク・レライアーノ……)
はっとし、あわてて身を起こす。
少し開けられた明かり取りの窓。
夕方に近いらしく、陽射しはすでに黄色い。
身体の上には柔らかな掛け物がかけられている。寝台に元からあった上掛けの上に寝ていたようだから、後から誰か、おそらく屋敷の侍女あたりがかけてくれたのだろう。
レライアーノ公爵邸だ。エミルナールは深い息をつく。
きゃっきゃっ、という笑い声が窓の向こうから響いてくる。レライアーノ公爵のお子様方の声だ。
今年七歳のポリアーナ公女と、年子の弟君のシラノール公子。どうやら、礼儀作法の家庭教師に名乗りの作法にそった自己紹介を教わったらしく、二人で自己紹介をしあって遊んでいる様子だった。
「おとうさま、お帰りになったね。今度は新年祭の前辺りだっておっしゃってたのに、早く帰って下さって嬉しいな。まだ寝てるのかな?」
弾むような弟君の声に、やや逡巡したような公女の声が答える。
「きっとお疲れなのよ。うるさくしちゃ駄目よ、シラノール」
うるさくなんかしないよ、と、ややむくれた公子の声。
「でもお夕飯、一緒に食べられるよね?楽しみだな、今日のお土産は何かな?」
「シラノールったら。おとうさまと一緒のお夕飯が楽しみなの?お土産が楽しみなの?」
「どっちも!」
屈託のない公子の言葉に思わず笑みを誘われたが、次の瞬間ふっと、エミルナールは頬を引いた。
今回、何故ここまで急いで、それも強引に帰って来なければならないのか、エミルナールは聞いていない。
しかしまったく察せない訳でもなかった。
今年の春頃から陛下は体調を崩していらっしゃる。
元々お身体の丈夫な方ではないという話は聞いている。幼い頃は、体調がいい時の方が珍しいほどだったと。
しかしだからこそ体調の管理は万全を期していらっしゃり、ご即位以来寝込むことはなかった、とも。
その陛下が春先に引いた風邪をこじらせ、寝込むようになられたという話を聞いたのは初夏。
それでも夏の定例御前会議には出席なさっていたし、お顔の色は常よりやや青かったものの、相変わらずの鋭い眼光、鋭い舌鋒で臣下を抑えていらっしゃった。
しかしここ一ヶ月、陛下は春宮から出ていらっしゃらないらしい……という噂は、王都詰めの海軍将校から聞こえていた。
あまり良いことが考えられる状況ではない。
重いため息をつき、立ち上がる。
一歩踏み出した途端、膝から崩れそうによろめいたが、何とか踏みとどまった。
身体中がミシミシいっているし、内腿がひりひりする。情けなく眉を寄せ、今度は別の意味でため息をつきながらエミルナールは、部屋にある鏡の前で簡単に身づくろいをし、部屋の扉を開けた。
公爵の様子を確認するつもりで廊下を歩いていたら、たまたま向こうから来たタイスン夫人と行き会った。
「お目覚めになられたのですか、コーリン殿」
目が合うと夫人はにっこり笑った。
いつもと同じあっさりしたワンピースに白い木綿のエプロン、燃えるような赤毛をきちんと結い上げた小柄な女性だ。地味な、いかにも既婚の侍女らしい装いだが、彼女がまとうと不思議と少女めいて見え、可愛らしい。
七歳の息子がいる母親とも思えない。
赤毛といい緑色がかかった瞳の色といい、彼女はデュクラ人の血を引いているのかもしれない。
あの、武骨でぶっきらぼうで気の利いたことひとつ言えなさそうなタイスンが、一体どんな顔をしてこんな可愛らしい女性を口説き落としたのだろうと、実はエミルナールは密かに思っている。
「良かった。寝台に倒れ込んで死んだように眠ってらっしゃったから、ちょっと心配しておりました」
エミルナールは思わず赤面した。
「あ……それでは、掛け物をかけて下さったのはタイスン夫人でしたか?」
「ええ。勝手に入って申し訳ないと思いましたけど、扉が半開きでしたし。あのままでは風邪を引いてしまわれるでしょうから」
「いえいえ、申し訳ないのはこちらです。ありがとうございました」
彼女に公爵の様子を聞いてみると、ちょっと前に目を覚ましたという話なのでひとまず安心した。
食事を勧められたので、タイスン夫人と連れ立って食堂へ行く。
言われて初めて気付いたが、途轍もなく腹が減っている。昨日の朝以来まともに食事をしていないのだから当然だ。
夫人が給仕してくれ、召使いたちの夕食用にと煮込んだ、根菜と骨付き肉の煮込みとパンをいただく。一口食べて余計に飢えを自覚する。こってりと煮込まれた肉も脂身も、旨みを吸った芋もとろとろにとろけた玉ねぎも、生まれて初めて食べた御馳走かと思うくらい旨い。おかわりもし、パンと一緒にひたすら食べた。
ようやく人心地付いた頃、タイスン夫人がお茶を入れてくれた。
砂糖も牛乳も入れず、お茶の香りを楽しみながら飲む。
そこで初めてエミルナールは、公爵のことを思い出した。
カップを置き、片付けものをしている夫人の背中に声をかける。
「タイスン夫人」
振り向いた彼女に問う。
「閣下は何か召し上がったのでしょうか?」
彼女の顔が一瞬微妙に曇ったが、すぐに笑顔に変わる。
「大丈夫ですよ、コーリン殿」
……何が大丈夫なのかわからない。
夫人に礼を言い、エミルナールは立ち上がった。ちょうどその時、
「コーリン」
と声をかけられた。タイスンだ。
「あんた、動けるか?動けるようだったら支度してくれ。これから王宮へ向かう」
「わかりました」
部屋に戻り、エミルナールは、床に投げ出したままの荷物からきちんとたたんだ軍服を出す。
縹色の生地で仕立てられた高襟の軍服。海軍将校の制服だ。
俗に言う『青軍服』だ。海軍の制服は青い色で仕立てられるでそう呼ばれている。……揶揄を込めて。
ラクレイドは古くから屈強な騎馬隊を擁している陸軍国だ。
『神山ラクレイの麓に祖を持つ』ラクレイド王の国なのだから、当然とも言える。
昨今の事情から、やむなく海軍を持ってからまだ三十年ほどだ。急ごしらえは否めないし、歴史もないから兵も寄せ集めで士気が低く、国からお荷物扱いされてきた……レライアーノ公爵が将軍として着任するまでは。
八年前、十八歳の若き将軍は着任の日、皆に挨拶をする壇上でいきなりナイフを取り出し、ひとつにまとめた背中を過ぎる長い髪をばっさりと切り落とした。そして例の響きのいい声で、熱を込めてこう演説したそうだ。
「私は将軍として海軍に来たが、有り体に言って昨日入隊した新兵と同じくらいにしか海軍のことを知らない。だから新兵のつもりで貪欲に学び、諸君と苦楽を共にしたい。その誓いの証がこの髪だ!」
たった今切り落とした髪の束を差し出す。
ラクレイドでは長い髪は貴人の証。王弟である公爵閣下がその髪を切り落としたことに、居並ぶ者は硬直した。
「今現在、我が海軍は『青軍服』と呼ばれているが、残念ながらその言葉には揶揄がにおう。しかし我々は、いつまでもその屈辱に甘んじていていい訳ではない。南方の海域の防衛は我らにかかっている。誇りを持ってその任務を果たそうではないか。我らが誇りを持って任務を果たし続ければ、やがて皆『青軍服』を揶揄ではなく、憧憬を込めて呼ぶようになるだろう!」……と。
普段から公爵のおふざけに付き合わされているエミルナールからすると、一連の行動はいかにも彼らしいはったりに思える。が、常に中央から冷遇されてきた海軍の将校も兵も、王族であるのに髪を切り落としてまで自分たちに寄り添おうとしてくれる、若き将軍に意気を感じた。
そして彼は言葉通り、積極的に兵たちの中へ入って行って現状の問題を共有するよう努め、時には私財を投じてでも設備の補修や兵たちの待遇改善に努めた……と。
一体誰の話だろう、というのがエミルナールの印象だが、本当にそうだったらしい。
型破りだが真摯に親身に向き合ってくれるこの将軍の、海軍での人気は異常に高い。ほとんど崇拝されていると言えよう。
エミルナールは『青軍服』に袖を通す。
文官ではあるが、エミルナールの今の所属は海軍だ。階級は少佐。正しくは『少佐待遇』と呼ばれている王宮官吏にだけ適用される階級である。
着任した時は『伍長待遇』だった。エミルナールとしてはそれくらいでちょうど良かったのだが、それでは色々と制限があって面倒だ、という将軍閣下の鶴の一声で、今年の春からいきなり『少佐待遇』に特進させられた。
軍のように『強さ』が一番わかりやすい価値観である環境では、お勉強が出来るだけの文官は軽く見られる。その鼻くそみたいな青瓢箪の若造を少佐扱いしなくてはならなくなり、下士官あたりからからちくちく嫌味を言われるようになった。だからエミルナールは正直、この特進に迷惑していた。
しかし今日初めてエミルナールは、『少佐待遇』である自分の階級を有り難いと思っていた。
一応は将校だ。今までなら入れなかった宮殿の奥へも公爵に随行できる。
エミルナールの目に、まるで傷付いた少年のような表情でぐったりしていた、憔悴し切った公爵の顔が何度も浮かぶ。いつもの彼なら何とも思わないが、今日は出来るだけそばにいて補佐したい。
鏡の前に立ち、確認する。肩で切りそろえた栗色の髪へもう一度櫛を通す。文官では一般的な髪型だが、海軍では浮く。でも己れが文官であることに、これでもエミルナールは誇りを持っている。
少なくとも、彼等が海軍の軍人であることを誇る程度には。
ひとつ息をつき、部屋を後にする。
玄関前の広間へ行く。
すでにタイスンは用意を整えて待っていた。目が合うと、タイスンはにやっとした。
「よう。馬に乗ってるよりそっちの方が、よっぽどあんたに似合ってるな、コーリン秘書官」
少なからずむっとしたエミルナールは、こう答えてやった。
「お陰様で。しかし、あなたは護衛官の制服があまりお似合いになりませんね、タイスン護衛官」
これは前から思っていた。
フィスタ砦で彼は、普段海軍将校の制服を着て務めている。
彼曰く、護衛官の制服は窮屈だが海軍将校の制服はゆったり目で着ていて楽だから、だとか。
そんな理由で勝手なことをしていいのかと思ったが、護衛官は王宮内以外では服装に制限がないらしい。一目で護衛官だとわからない方が望ましい場合、私服で務めるのも可能だそうだ。
しかしそちらの服装に慣れているからか、タイスンが護衛官の制服を着てもなんとなくピタッとしない。まるで、酒場の用心棒が護衛官の扮装しているみたいに見える。
マイノール・タイスンは『ふたつ名持ち』と呼ばれる凄腕護衛官だそうだが、エミルナールにはピンとこない。
彼が弱いとは決して思わない(海軍の人間が皆、タイスンには一目置いている雰囲気だし)が、宮廷で見かける他の護衛官とは雰囲気が違い過ぎるのだ。主従は似るというが、貴人らしくない主に相応しい護衛官と言えよう。
タイスンはからりと笑う。
「その通り。俺は根っからのがさつ者でね。こういうカチッとした服はどうもいけない。だから、ずっとこれを着てなきゃならない王宮務めの時は心底うんざりしてたんだよな」
その時扉が開き、公爵が出てきたが……エミルナールは驚いて息を呑んだ。
彼は深い紫色の高襟の上着を身に着けていた。
そして上着以外は白。略式ながら礼服に準じる装いだ。
紫はアイオール・デュ・ラクレイノ……スタニエール王の王子として、王より賜った貴色。
貴色とは王子もしくは王女に成人の証として王より与えられる、王位継承権を持つ者を意味する黄金の指輪と共に与えられる色のことだ。その人が死ぬまで、冠婚葬祭時の礼装等に用いられる。
いくら緊急に、断りらしい断りを入れずに王宮つまり王にお会いする為に参上するとはいえ、この装いは改まり過ぎだろう。
しかしそれ以上にエミルナールが驚いたのは、公爵がつけ毛をしていたことだった。
夏宮での御前会議であろうと、個人的に春宮の陛下をお訪ねする場合であろうと、公爵がつけ毛をしたことはなかった。
長く伸ばした髪を梳かし、後ろでひとつにまとめる。
それがラクレイドの貴人男性の髪型だ。
諸般の事情でそう出来ない者は、最低でも宮殿内ではかつらやつけ毛を利用するのが普通なので、公爵の態度は当然波紋を呼んだ。
別に、貴族階級の者は宮殿内で、かつらやつけ毛を使ってでも長い髪でなくてはならないという決まりはない。ないが、決まり以前の常識、当然の礼儀と認識されている。
しかし公爵は我関せずの態度で、短髪のまま飄々と宮殿内を闊歩していた。『王弟』という身分であればさすがに皆遠慮もあるので、そんな頭でうろうろするなと直接は言いにくい。
唯一諫められる立場のセイイール陛下も黙認していらっしゃるから余計だ。
陰でこそこそ『瘋癲閣下』などと陰口をたたきあうのが精一杯というところだ。
公爵自身、そんな反応を知っていながらわざと露悪的な行動を取って楽しんでいる節があった。
彼の性格的なものが半分、戦略として瘋癲を利用しているのが半分だとエミルナールは解釈していた。
しかしその公爵がつけ毛をしているのだ。
只事ではない。
「待たせたな。では参ろうか」
静かな声で公爵は言った。
馬上でぐったりしていた時よりは顔色も戻っているが、当然いい顔色とは言えないし、表情は硬く生気が乏しい。
「閣下……」
呼びかけたものの、どう言葉を続けたらいいのかエミルナールは困った。
公爵はかすかに苦笑いをする。
「心配をかけたな、コーリン。大丈夫だ。ああ……」
思い付いたように公爵はエミルナールの目を覗き込む。
「ひとつ言っておこう。これから春宮の陛下をお訪ねする予定だが、あくまでも私的にご訪問させていただくのだ。海軍将軍レライアーノ公爵がセイイール陛下をお訪ねするのではなく、ただのアイオールがセイイール兄上をお訪ねする……そういうつもりだから君もそう思っていておくれ」
「承りました。御心のままに……」
答えながら、ぞくぞくと背筋が冷えてならないエミルナールだった。