第三章 際どい一手①
寝台へ倒れ込み、エミルナールは大きく息をついた。
慣れない鍛錬を始めて十日ほどになる。ここ最近、筋肉痛が治らない。
(と言うか……)
寝台わきにある小卓の、見慣れた木目をぼんやり見つめて思う。
(完全に新兵の訓練だよなあ)
公爵の『命令』があった翌朝。
エミルナールは、日の出頃にタイスンにたたき起こされた。
「コーリン。起きて着替えろ。朝めしの前に軽く汗を流す」
ぶっきらぼうにそう言われたが、寝ぼけていたエミルナールは腫れぼったい顔で、ぼうっとタイスンの鳶色の瞳を見返した。
タイスンはやや気の毒そうにため息をついたが、すぐ真顔に返る。
「昨日の今日だし疲れてもいるだろうから、無理はさせねえつもりけどな。まずはあんたの体力がどのくらいか知りたいんだ」
五分で着替えろ、一番ぼろの動きやすい服でいい。
タイスンは言うと、夫人が半分趣味でたくさん編んでいる、毛糸の上着を投げて寄越した。
「肌寒いだろうから最初は羽織れ」
『最初は羽織れ』の意味を正確に知ったのは、それから三十分ばかり後だ。
屋敷の裏庭に出て、まず筋を伸ばして関節をほぐす簡単な体操をさせられた。
「身体がほぐれたところで歩く」
簡単に言うと、タイスンはさっさと歩き始めた。
公爵邸の敷地を歩くのだそうだ。
やや早足で歩き始めるタイスンへ、とにかくエミルナールはついてゆく。
敷地といってもちょっとした町の一区画くらいの広さはあるのだから、真面目に歩くと結構大変だ。
「速度を上げるぞ」
大周りで敷地を一周した辺りでタイスンの声がした。
語尾が消えるか消えないかの頃には、もう速度が上がっていた。
それでも、そこまではまだ余裕があった。
もう一度『速度を上げるぞ』と言われた時の速さは、エミルナールの感覚では小走り以外の何物でもなかった。
ぐんぐん遠ざかるタイスンの背中を見失わないよう、エミルナールはひたすら進んだ。
身体中から汗が吹き、目がちかちかし始めた。
己れの呼吸音がうるさい。
タイスンの歩く速度はまったく衰えない。
静かな彼の背中、息が乱れている様子はまったくない。
このおっさん化け物か、と胸の中で悪態をつく。歩きながらなんとか上着を脱ぐ。
しばらく上着を持ったまま歩いていたが、いつの間にか無くなっていた。どこかで落としてしまったらしいが、気にかける余裕などなかった。
ひたすら歩く。
とにかく歩く。
もう敷地を何周したかわからない。
タイスンはいつまで続ける気なのだろう、と絶望的な気分で思う。本格的に目がかすんできた。
「よし、速度を落としながら止まるぞ。あの楡の木の下で終わりだ」
と言うタイスンの声を聞いた途端、気が抜けて足がもつれた。
しまった、と思った時には土を噛んでいた。唾と一緒に吐き出す。それでも舌に土の味が残っていた。何度も唾を吐く。
タイスンが無言で戻って来た。
半分えずくように苦しんでいるエミルナールの背をさする。
少し落ち着いたところで肩を貸してくれた。
麻袋に入った芋か何かのようにエミルナールは引きずられ、楡の木陰に寝かされた。
しばらくそうしてろと言い残し、タイスンはどこかへ行った。
その辺りは、半分枯れているが柔らかな草が残っていた。
頭の下に、エミルナールが着ていた毛糸の上着が枕替わりに丸められている。
どうやら、いつの間にかタイスンが拾っていてくれたようだ。
水を手にタイスンが戻ってきた。
「起きれるか、まず口をゆすいで、飲めるようなら飲んだ方がいい」
エミルナールはうなずき、のろのろと身を起こす。
ちょっとふらついたが、倒れ込むようなことはなかった。
楡の幹にもたれ、タイスンが差し出す木のカップを受け取る。
そろそろとすすり込む。柑橘系の香りがかすかにする薄甘い水だった。口をゆすいで楡の根元にそっと吐き出す。
ようやく口中の泥の気配が消えた。水の甘味がすうっと沁みる。思わずひとつ、大きく息をつく。
「あんたに根性あるのは知ってたが」
ゆっくり水を飲んでいると、半ば呆れたようなタイスンの声が響いた。
「思った以上だな。そこいらの新兵ならとっくに音を上げてたぞ」
「……そうですか。どうも」
一応褒めてくれたようなので、エミルナールはやや憮然としながらも礼?を言った。
何が『無理はさせねえつもり』だこのクソ馬鹿オヤジ、と思っていたが、彼だってやりたくてやっている訳ではないだろう。文句を言うのも大人げない。
「なるほどね、閣下様はよく見てる。まあ、だからって無茶なのは変わらんが、それだけ根性あるのならこっちも鍛えがいがあるな。じっくりやってゆこう」
「はあ……よろしくお願いします」
放心しながらエミルナールは応えた。
その日はそれだけで鍛錬は終わった。
今日のところはゆっくり休め、と、エミルナールは鬼教官から有り難いお言葉を賜ったので、部屋へ帰ると服を着替えて寝台に倒れ込み、二度寝した。
昼前、猛烈に腹が減って目が覚めた。食堂へ行き、朝昼兼用の食事を親の仇に出会ったような形相でむさぼり、再び部屋へ戻って眠る。
夕方になってようやく普通の体調に戻った。ため息が出る。先が思いやられるではないか。
(死ぬかも)
結構本気で心配になってきた。
もっとも、疲れ果てて倒れ込むような訓練は、さすがにそれ以後なかった。
タイスンもエミルナールの許容範囲がわかったのだろう。
しかし、楽かといえばちょっと違う。
「あんたを鍛えるにあたり、俺は当面方針を決めた」
翌朝。エミルナールの教官は仰せられた。
「あんたは文官だ、それも飛び切り優秀な。しかし武官として務めるのは無理だ、当たり前だがな。武官になれそうな才能が元々あるなら、ガキの頃からそういう訓練に血道をあげてたろうし、そっちで仕官したはずだ。だから武官並みの腕になろうとするのはあきらめろ。今からやっても、短期間で新人武官並みの腕に追いつくのさえ無理だ」
「ええ。そうでしょうね」
エミルナールはうなずく。
子供の頃から体力や腕力にはあまり自信がなかった。強いて言えば逃げ足は速い方だったが、それだって飛びぬけていた訳ではない。
「あんたが鍛えるのは、だから戦う技術じゃなくて逃げる技術・躱す技術だ。そちらを中心に鍛える。何の因果でこんなことしなくちゃならんのだと思うだろうが、今後を考えたら最低限我が身は守れるようになった方がいい。これは公爵の命令以前の話だ。了解?」
「はい。よろしくお願いします」
具体的に何をするのかと言うと、最初の三日はひたすら柔軟体操をさせられた。
こんなに真面目に、こんなに集中して身体を動かしたのは生まれて初めてだ。
ひとつひとつは決して難しくないが、まとまった時間ずうっと柔軟体操をするのは結構きつい。終わるとへとへとだった。
タイスンが言うには、エミルナールの身体の柔軟性は悪くないそうだ。
机に向かって書き物ばかりしていた割には肩関節が柔らかいな、と驚かれた。
背筋も柔らかい、と褒められた。
褒められてもいまひとつピンとこないので、嬉しいのか嬉しくないのかよくわからない。
「柔軟性の高い身体なら今後が楽だぞ。まあ、比較する基準がないからあんたは楽だと思わんだろうが、少なくとも教える方は気が楽になった。あんたがもし、若い頃の俺並みに身体が堅かったら大変だなと思っていたんだ」
タイスンは言う。
「明日から受け身を取る訓練を少しずつやってゆこう。これからは、出来れば寝る前に軽く柔軟をやっておけ。朝一番に、あんたにとっての早足で敷地を十周することから鍛錬を始めよう。すぐへばる心臓だと逃げられる敵からも逃げられんからな、持続力も鍛えつつ進める。明日の明け方、楡の木の下に来てくれ」
「わかりました」
そんな感じで十日経った。
さすがにずいぶん慣れた。
少なくとも『エミルナールにとっての早足』で敷地を十周するのはきつくなくなってきた。
最初の日にタイスンが言った『朝めしの前に軽く汗を流す』適度な運動と感じられるようになってきたのだ。
脚の筋肉が鋭角的に盛り上がってきた印象だし、身体全体が締まってきた気もする。ただ、全身のあちこちに鈍い筋肉痛があった。今までほとんど使わなかった筋肉を使っているのだから当然だろう。
タイスン教官が仰せられるには、こういうのはそのうち治まってくるものなのそうだが、つらくないと言えば嘘になる。
老執事が気を利かせて湿布を用意してくれているので、寝られないほどつらい訳ではないのだが。
(……ああ)
寝台に横たわり、窓越しに星の瞬きを見つめながら、エミルナールはため息をついた。
まったく、人生と言うのは何があるのかわからない。
(クリークスのみんなは……無事に伯爵の庇護下へ入ったろうか?)
家族がどれほど驚き、困惑しただろうかと、改めてエミルナールは申し訳なくなった。




