第二章 デュ・ラク・ラクレイノの娘⑧
埋葬から十日。
国葬が済んだ。
ラクレイドでは古来、慶事は派手に、弔事は質素に執り行う。
王であってもその慣習に従い、他国に比べれば早い時期に、比較的簡素であっさりとした国葬が執り行われる。
国事であると同時に近しい身内の葬儀、二重三重にがっくり疲れる。
自室に戻ったフィオリーナは喪の装いを脱ぎ、のろのろと寝間着に着替えた。
喪服の後始末は、さすがに今日は侍女に頼んだ。
結い上げた髪をほどいて簡単に櫛けずった後、編んでひとつにまとめる。
用意してくれていたぬるま湯で丁寧に顔を洗い、寝台へもぐりこむ。羽枕に顔を埋めるようにして、うつぶせになった。
様々な出来事の断片、あれこれの物思いが頭の中でぐるぐる回る。
『虚ろの玉座の嘆き』の終盤、宰相が封書を掲げた。
蜜蠟で封をされている遺言状だ。
王家をあらわす神狼の意匠とセイイールの紋章である柊の意匠が組み合わさった、セイイール・デュ・ラク・ラクレイノの黄金の指輪で封をしてある。
つまりこの封筒に入っている書類は、セイイール自らが書いて自らが封をしたことを表す。
フィオリーナと母へ託された封書とまったく同じ体裁だった。
当然母は異議をとなえる。
レライアーノ公爵の発案で、ふたつの遺言状の中身が改められる。
宰相たちに託されていた遺言状には、フィオリーナが王位を継いで後見はカタリーナお祖母さま、母に託されていた遺言状にはレライアーノ公爵、つまりアイオール叔父さまが王位を継ぐようにと書かれていた。
騒然とした。
思い出す。
比較的最近までフィオリーナは、父と叔父さまが将棋を指しながらいろいろと話しているのを、そばの長椅子で寝そべったりしながら聞いていた。
大抵は思い出話やお互いの家族の話だったが、時にはふたりとも怖い顔で、ささやくようにして話している時もあった。
『あれ』や『それ』や『例の』でおぼめかされる、切れぎれに話される話題のすべてなど当然、子供のフィオリーナには理解出来なかった。
が、ラクレイドの周辺が昔ほど安全でないらしい、くらいの察しはつく。
それを真剣に心配し、対策しようとしているのは父以外ではアイオール叔父さまくらいであろうことも、同時に察せられる。
遺言状を託された時の父の様子から、母に託された遺言状の中身はある程度察しがついた。
リュクサレイノの曾祖父さまが激しく反発するだろうことも。
だがたとえそうであっても父は、自分と同質の懸念と危機感を共有している叔父さまに後を託したいのだとフィオリーナは理解した。
自分は所詮、父の期待にそえない存在なのだという明確な自覚は、自分でも意外なほど苦かったが。
しかし何故、フィオリーナが王位を継ぐようにという遺言状まであるのだろう?
それも父自身の手で書かれ、宰相やリュクサレイノの曾祖父さまに託されていたのだろう?
意味がわからず、フィオリーナは円卓の前に座ったまましばらく硬直していた。
やけに落ち着き払った態度でレライアーノ公爵は立ち上がり、混乱した事態を整理してゆく。
事前に父とある程度打ち合わせていたのかもしれないと後で思ったが、それにしても見事に浮足立つ皆を鎮めていった。
素晴らしい手腕だ。
子供のフィオリーナでさえ心配になったほどに、十日前の埋葬の儀での彼は打ちひしがれ、半ば放心していた。ポリアーナとシラノールがそばにいなければ、歩けたかどうかも危うい状態だと感じたほどだ。
その時よりは幾分落ち着いていたが、ついさっきまで彼は、時折肩を震わせては歯を食いしばるようにして声を殺し、泣いていた。
元々お世辞にも大柄とは言えない上細身である彼がそうしているのは、ひどく頼りなげだった。親と死に別れた幼い子供を思わせるたたずまいだ。
七歳の頃、病気で母君を亡くされたアイオール叔父さまは身内の死に極端に弱いのだと、そういえば何かの折に父から聞いたことがある。
しかし、緑の練り絹をまとった玉座の前へ移動した彼に、あの正気すら危ういもろさは微塵もなかった。
彼が『レライアーノ公爵』……王弟であり、わずかな期間で海軍を鉄の結束力を誇る強靭な軍団へと育て上げた有能な将軍であることを、フィオリーナは改めて思い知る。
なるほど、こういう強かさを涙の裏に合わせ持つ人でなくては、王などとても務まらない。父にはそこも見えていたのだ。
フィオリーナなど勝負する前から負けている。年齢や経験もあろうが、何と言うか……器が、違う。そんなことを思っていた。
レライアーノ公爵の秘書官が呼ばれ、この異常事態が法的にどう判断されるのかが明らかにされてゆく。
その流れでフィオリーナは初めて、法的にはレライアーノ公爵……アイオール叔父さまの方が王位の継承順位が高いと知り、愕然とした。
ラクレイドは古くから成人前の王を忌避する慣習だが、まさか現時点ではフィオリーナより叔父さまの方が御位に近いとまでは思っていなかった。
そういうことならばレライアーノ公爵が王位を継いで何も問題はない、むしろ継ぐべきだろう。
なのに曾祖父さまをはじめとした少なくない者が、レライアーノ公爵が王になるのをよしとしない。
たとえ法的には継承順位が高くとも、『諸侯臣下に了承』されなければ王とは認められない。
問題を拗らせているのがこの部分なのだと、遅まきながらフィオリーナは理解した。
何故認めない者が多いのか?
ひとつは心理的なこだわりだろう。
他国それも海山を隔てた遥か遠い国の人間を、ラクレイド人はそもそも人間とは認識していない。獣に近い蛮族で、我々より数段劣った者だと思っている。
古くから栄えてきた大国の自負が、いつしか己れ以外を下に見て貶める風土を作り出した、これはラクレイドの悪癖だと父は時折嘆いていた。
つまらぬこだわり、間違った誇りが、ラクレイドという国を縮こめてしまっている、と。
蛮族であるレーン人の母を持つレライアーノ公爵に、理由らしい理由もなく忌避感を抱いているラクレイドの貴人は少なくない。
『デュ・ラク・ラクレイノ』ならまだしも、彼は先王の庶子でしかも蛮族の子なのだ。
この王弟が、幼いとはいえ嫡流の嫡子である『デュ・ラク・ラクレイノ』の王女を差し置いて即位するなど認められない。
はっきりと口には出さないものの、そんな気分が彼らの本音だ。
『気分』というとりとめのないものだからこそ対処が難しい、そんな問題だともいえる。
あとひとつは、王と血が近いことで保ってきたリュクサレイノの力が、レライアーノ公爵が御位に就いたら大きく削がれるだろうという懸念だ。
ある者たちにとってはこちらの方がより切実だろう。
リュクサレイノとリュクサレイノに従っている保守勢力が宮廷で影響力を保ち続けるには、リュクサレイノの血筋である王女の即位が望ましい。
フィオリーナは保守派の優位を保つ為の旗じるし、否応なく利用されるだろう。
今のところフィオリーナは、悔しいが何も出来ない子供だ。
黙って利用されるつもりはないが、ならばどうすればそれを防げるかもわからない。
それ以前に、この国をどうしたいという明確なものもフィオリーナにはない。
皆が笑って暮らせる国にしたいな程度の思いはあるが、そんなふわふわした思いなど、市井の子供ならともかく王たる者が見つめる国の行く末ではない。
(わたしは今後、最低十年は王になってはいけないわ)
国を背負う能力などないし、背負う覚悟すら甘い。
世界のあちこちを見て回りたいから、などというわがままで個人的な理由ではなく、能力がない自分は王位を継いだりしてはいけない。
玉座の前に背筋を伸ばして立つレライアーノ公爵を見ながら、フィオリーナは思いを新たにしていた。
ふと気付くと彼女は、手の中のハンカチを強く握りしめていた。
法的にはどちらの遺言状も無効。
遺言状が無効つまり無いと見做される場合は、叔父さま……レライアーノ公爵が王になる。それが必然の流れであろう。
法律を素直に解釈するならどうしてもそうなる。
危機を感じたリュクサレイノの曾祖父さまが、難癖に近い異議をとなえ続ける。
論理的ではないが情緒的には、リュクサレイノの曾祖父さまの異議も宮廷の空気として受け入れられなくもない。
少なくとも『デュ・ラク・ラクレイノ』の王女をないがしろにしていいのかという部分は、誰もが口ごもって互いの顔色を窺うだろう。
レライアーノ公爵が王になった後、成人したフィオリーナが王太子になって跡を継ぐという措置も考えられるし、彼の性格上そう言い出す可能性は高い。
が、たとえ一時期であったとしてもレライアーノ公爵を王として戴くなど、リュクサレイノの曾祖父さまは受け入れないだろう。
理屈ではない。
そう、理屈ではない。
理屈ではないのだ!
「やめてください!」
気付くとフィオリーナは叫んでいた。
それが戦略・作戦だとしても『王位を継ぐ』という言葉を弄ぶようにひらひらと使うレライアーノ公爵にも、醜いまでに恐ろしい顔でレライアーノ公爵へひどい罵りを浴びせるリュクサレイノの曾祖父さまにも、フィオリーナはこれ以上耐えられなかった。
理屈ではない。
ただひたすら哀しい。
ここは亡き王、亡き父を悼む場だ。
政争なら他所でやれ!
「……フィオリーナ。フィオリーナ」
呼ぶ声にはっとする。あやうい、今にも消えそうなつぶやきだ。
フィオリーナは半身を起こす。
母だった。
しかしこんな母は見たことがない。
落ちくぼんだエメラルドの瞳に生気はなく、頬は土気色。ほどいた赤い髪を無造作に垂らしている姿は、壊れかけたあやつり人形を思わせた。
虚ろな目のまま、彼女はよろよろとこちらへ寄ってくる。
「はい、おかあさま」
母へ応えた途端、何故か涙がふき出してきた。
フィオリーナの涙を認めた瞬間、母の瞳に感情らしきものがひらめいた。
己れが母親であることを彼女は不意に思い出したのか、足取りに意思が加わる。
寝台で泣く娘へ近付き、優しく抱き寄せて髪を撫ぜた。
母の胸は、かすかだが疲れたような汗のにおいがした。ああ、この人も人間なんだとフィオリーナは思った。
「おかあさま。悼んでいるだけではいけないのですか?」
フィオリーナの髪を撫ぜる母の指が、やや戸惑ったように止まった。
「せめて月がひとめぐりするまでは、ただおとうさまを悼んでいてはいけないのでしょうか?いけない、のかもしれません。けど……わたしは悼んでいたいのです。悼んでいたいのです……」
母は無言で、悼んでいたいのですと繰り返すフィオリーナの髪を撫ぜ続けた。




