第一章 二つの遺言状①
「コーリン。最近君、可愛げがなくなってきたねえ、着任した頃はあんなに初々しくて可愛いかったのに。あの頃の君は、私が何か言う度に赤くなったり青くなったり、表情もくるくる変わって実にからかいがいがあったんだけど」
「そうですか?でもそれはきっと、閣下のご教育の賜物かと」
感謝いたしております、と、エミルナールは書類をまとめながら涼しい顔で言ってのける。
あれから三度目の秋。エミルナールもさすがに慣れた。
毎日この上官と付き合っているのだ、慣れずにはやっていられない。
正直に言えば着任して半年くらいは、辞表を置いて故郷に帰ろうかと何度か思った。でもその度に『もしそうだったとしたら。所詮、それだけの男だったということさ』という冷ややかな公爵の声が聞こえてきて、ムカッと腹が立った。
このいい加減極まりない(としか思えない)公爵に『それだけの男』と見下されるのかと思うと、負けてたまるか、とでもいう闘志じみた気持ちがむらむらとわいてくる。
ナメてもらっては困る。
こう見えてエミルナール・コーリン、コーリン家、否、クリークス始まって以来の神童と呼ばれてきたのだ。
言わせてもらうが、『神童』と呼ばれた子供が成人後も『神童』たり得るのは、天賦の才でも何でもない。
倦まずたゆまず、しぶとく粘り強く、とことん食らいついてゆく努力と根性。泥臭くて地道な努力をひたすら続ける根性によってのみ、成人後も『神童』たり得るのだ。
伊達に弱冠十八歳で、王宮官吏の登用試験を主席の成績で受かったと思うなよ!
見ていろ、あんたのおちゃらけに付き合いつつも、キッチリそつなく完璧に、業務を遂行してやる!
将棋だろうが工作だろうが、唐突に始まるボール遊びだろうが、油断してると雲隠れするあんたを探すかくれんぼだろうが(この場合はタイスンも鬼の役……つまり一緒に探す。慣れてるのか、彼は淡々と主を探す。そして大抵彼が捕まえる)、どんと来い!
今やエミルナールは、右の耳で公爵の軽口を受け流しつつ左の耳で副官からの報告を聞き取り、左手でそれなり以上の将棋の相手を務めながら(公爵はまた、無駄に将棋が強い。最初の頃、エミルナールはあっという間に壊滅させられた。悔しくて定跡の研究をはじめ、今は、公爵と五分とまでは言わないけれどまあまあ相手が務まるようになってきた。王宮官吏にまでなって何をやってるんだろうと情けなくなる瞬間もあるが、いい趣味を覚えたと前向きに考えるようにしている)、右手で報告書の作成をする……なんてことも出来るようになった。ざまあみろ!
しかし着任の日にいみじくもタイスンが言った通り、公爵は馬鹿ではないしそこそこ以上仕事が出来るのだ、悔しいが。
鼻歌まじりにやすりで爪を整えながら報告を聞いているくせに、肝心な部分はまず聞き漏らさないし、時にはエミルナールがうっかり抜けていた箇所の指摘もする。
趣味?のナイフでの格闘の鍛錬をしながらでも、出す指示は鋭く的確で、だからか副官たちはこのふざけた将軍を敬愛し、信頼もしている様子だ。
読んでいた書類から目を上げ、公爵はにやっと笑う。
「おやおや、言うようになったじゃないか。お勉強以外何も出来なかったエミルナール君が、ずいぶんと頼もしくなったもんだねえ。……ま。それくらいじゃないとね。何と言っても君は、問題の多い青軍服の親玉の秘書官なんだし」
エミルナールはふと手を止め、そっと公爵をうかがった。
公爵は今、執務机の前に座って書類を読んでいる。春宮侍従長を務めているロクサーノ子爵から、親展で送られてきた書類だ。
珍しい。
春宮は王家の方々の私的なお住まい、その宮殿の管理を任されている侍従長が、そもそも海軍の将軍に書類を送ってくること自体が稀だ。
それにチラッと見ただけだがこの書類、早馬を使った速達便で来たというのに、中身は能天気な時候の挨拶と、何処をどう見ても将棋の棋譜とその解説、というのもちぐはぐだ。
ロクサーノ子爵は公爵の幼馴染で互いを名前で呼び合う仲、そして将棋友達でもあるのは確かだが……公爵はともかくあの実直そのもののロクサーノ子爵が、趣味の為だけに『海軍将軍』宛てに速達便を使うとも思えない。
(暗号?)
その可能性はある。しかし、解読表を見せてもらえればエミルナールにも読めるし、実際一、二回やらされたことがある。
今まで公爵は、書類仕事は基本エミルナールに丸投げしたきた。
公爵宛て親展で来た暗号化された書類さえ無造作に渡され、適当に返事しておいてくれなどと言われた時には啞然とした。
「なんて顔をしているんだい?いいかい、コーリン。私は『適当に』って言ったんだよ?適当という言葉の意味をちゃんと理解しているかな?決していい加減な返事をしろなんて言っていないんだからね」
その公爵が朝から大人しく机の前に座り、書類とにらめっこしている。
実に珍しい。
エミルナールの記憶にある限り、公爵が朝から真面目に書類を読むなんてことはなかった。せいぜい、ちらっと斜め読みをした後エミルナールに渡し、いつも通り適当に、と言ってあくびをかみ殺しながら執務室から出て行くのが常だった。
しかし今日、公爵はエミルナールが出勤するより前に執務机の前に座り、眉をしかめて書類を読んでいた。そう言えばこの人が秘書官より先に執務室に来ているなんてことも、思えば数えるほどしかなかった。
時々軽口をたたきはするが、今朝の公爵はどこか上の空だ。いや、いつも上の空みたいな感じの人だと言えば言えるのだが……上の空の理由が、いつになく真剣に書類を読み込んでいるせいなのがそばで見ていてもわかる。
ばさり。
唐突に紙を机の上に置く音。エミルナールはぎょっとして手を止める。
「コーリン」
書類を丁寧に片付けながら、公爵は立ち上がる。心なしか顔が青い。
「今後しばらく、よほどのこと以外は副官のデュ・クラウィーノとデュ・シェンタノに任せる旨の命令書を用意してくれ。それから早馬の手配を。君とタイスン護衛官だけでいいから一緒に来てほしい。至急王都へ戻る」
午前いっぱい目まぐるしく引継ぎ等を行い、馬の手配や旅の準備が済んだのは午後になってから。
「コーリン。強行軍になるぞ、覚悟してくれ」
乗馬に慣れていないエミルナールへ、馬上の人になった公爵は言う。
「コーリンもそうだが、公爵。あんたこそ大丈夫なのか?顔色が悪いぞ」
同じく馬上の人となったタイスンの言葉。言い方は素っ気ないが、本気で心配しているようだ。
確かに公爵の顔色は悪い。血の気のない唇、手綱を持つ革手袋に包まれた手が、よく見るとかすかに震えている。
(閣下は馬が苦手なのか?)
そう言えば、そもそも公爵が馬に乗っているのを見たのは初めてだ。
しかし公爵は首を振る。
「とにかく急がなければならないんだ。大丈夫だろうがなかろうが、一番早く王都まで戻れるのは馬だからな。……行こう」
早馬は、街道に沿って設えられた駅で馬を替えながら移動する、国が管理する最速の交通手段だ。当然、馬の賃料は高い。
大抵、のっぴきならない急用がある者……緊急の伝令、急ぎの大口の商売、身内の危篤など、高い賃料を払ってでも移動したい事情のある者が利用する。
各駅では休憩や仮眠、簡単な食事も出来るようになっている。
しかし今回は公爵が『強行軍』と表現したように、駅に着いても仮眠は一切取らず、食事も持参した干し肉を水と一緒に飲み下す程度、馬の準備が出来次第慌ただしく出発する、という感じだった。
フィスタから王都までは、クリークスから王都までに比べれば半分ほど。それでも馬車で普通に行けば三、四日かかる。
しかし、馬を使い捨てるように駆けに駆け続ければ、王都まで一日程度でなんとかたどり着く。
丸一晩走り続け、東の空が明るむ頃に最後の駅に着いた。
エミルナールはすでにへろへろだった。
「遅れるな、コーリン。最悪の場合、置いて行くぞ」
先に着いて、休憩所の椅子にうずくまるようにして休んでいた公爵に、冗談でも何でもない完全な真顔でぼそっと、エミルナールはくぎを刺された。しかし、そう言う彼の顔色はもはや土気色を通り越し、死人のようでさえあった。
「も……申し訳ありません」
がくがくする足腰ををなだめ、あえぎながらエミルナールは答えた。
よくわからないが、どうやら公爵は死ぬほど馬が苦手らしい。
しかしその割には馬の扱いが上手かった。無駄のない手綱さばきは、武官のタイスンにも引けを取らない。
「もうすぐ王都だ、もうちょいの辛抱だ」
疲れているだろうに、頑健なタイスンは疲れを感じさせない。どこで手に入れたのか砂糖湯を手にしている。エミルナールは頭を下げて受け取り、すすり込む。瞬くうちに甘みが全身に沁みる。思わず涙がにじむほど旨い。
「あんたも飲みな、ひどい顔だ」
公爵は虚ろな目で砂糖湯を受け取り、一口すすり込んだ途端、えずいた。
「アイオール!」
思わずのようにタイスンが公爵の名を呼び、背中をさする。
この辺が誤解される原因なんだよな、とエミルナールは、砂糖湯を飲みながらぼんやり思う。
いくら近くで一緒に育った乳兄弟とはいえ、護衛官が王族の主を名前で呼び捨てるようなことは普通しない。エミルナールだって未だに違和感がある。
公爵の母君の方針で、二人は本当の兄弟のように育てられたのだという事情を聞かされてもやはり、すっきりとは腑に落ちない。
もちろんタイスンだって公の場では『閣下』、フィスタ砦内など畏まらなくていい場所では基本『公爵』と呼んでいる。が、ふとした時に『アイオール』が出てくる。貴族でさえない一護衛官が、先王の王子である方を呼び捨てる距離感の近さが奇妙になまめかしく感じられ、妄想を呼ぶ。元々公爵には不思議な色気というか、どことなくあやうい感じがあるから余計に。
つまりはそういうことから出てくる妄想的な噂なんだなと、着任してすぐエミルナールは理解した。
戻すまではいかなかったようだが、公爵は苦しそうに大きな息を何度もついていた。
「すまない。大丈夫だ」
胸元をさすりながら公爵は顔を上げる。砂糖湯の入ったカップをタイスンに渡し、眩暈でもあるのか目を閉じてぐったりと壁にもたれる。
「少し仮眠を取るか?」
心配そうなタイスンの声に、いや、と応えて、公爵は閉じていたまぶたをこじ開ける。
「馬の準備が出来次第、出発しよう」
辺りが明るくなった頃、ようやく王都の街並みがはっきりと見えてきた。やれやれ、とエミルナールが思ったその時だった。
少し先を行く公爵の馬が突然、たたらを踏むように立ち止まる。すべり落ちるように馬から降りると、公爵は身体を折って道端の草むらに走り込み、すさまじい勢いで嘔吐した。
「アイオール!」
先頭を走っていたタイスンがあわてて馬を止め、首を返して戻ってくる。
「畜生、言わんこっちゃねえ!」
エミルナールもあわてて馬を止め、わななく足腰になけなしの力を込め、苦しんでいる上官の許へ寄る。
「閣下!」
空えずきを続けている公爵の肩に手をかけようとしたその刹那、
「触るな!」
という悲鳴じみた叫び声が響き、エミルナールは硬直した。
公爵はのろのろと顔を上げ、振り向いてエミルナールを見た。彼はおびえ切った子供のような目をしていて、エミルナールは息を飲んだ。
「触るな、コーリン。私は今……普通の状態じゃないんだ……」
茫然とした口調で言うと、公爵は幽鬼のように立ち上がる。よろよろと二、三歩進み、どうと倒れ込んだ。
ようやくやって来たタイスンが無言で公爵を肩に担ぐ。
「コーリン」
タイスンはエミルナールを見ると言う。
「あんたの馬に公爵を乗せて連れて行ってくれ。俺は公爵の馬を曳いて後から行く」
「え?ええっ」
エミルナールはぎょっとしてタイスンの顔を見る。
「ええっ、じゃねえ。あんたの方が俺よりよっぽど体重が軽いだろうが。馬の負担を考えろ」
言い捨てるとタイスンは、公爵の身体をエミルナールが乗っていた馬の背に担ぎ上げる。
馬上に乗せられた段階で公爵は目を覚ました。
「くそっ」
舌打ちをすると公爵は、手綱をつかもうとした。
その刹那、タイスンは主のみぞおちを軽く打った。声もなく公爵は馬の首筋にくずおれた。
タイスンは器用に、くるくると主を縄で馬の身体にくくりつけ、エミルナールに目顔で示す。がくがく震える足を踏みしめ、よじ登るようにして馬に乗った。
「急がなくてもいいけどのんびりもするな。小一時間ほどで公爵の屋敷だ。屋敷の着いたら何とかなる。行け。俺は後からついて行くから」
眠っていないし食べていない。
自分の身体が自分のものではない気がする。
そもそも眠っているのか起きているのかもよくわからない。何だか夢の中で苦行でもしている様な気がする。
エミルナールはふと、顔を横に向けた状態で馬の首筋にぐったりと身をもたれさせている、いつもとはまったく違う上官を見る。
くたびれ切った青白い顔。頬やあごにうっすらと無精ひげが伸び、静かに閉じられたまぶたの下には深い隈がある。疲れているのはエミルナールも同じだが、わずか一日足らずでずいぶんと彼は憔悴している。
(閣下……)
エミルナールは何故か、自分より五つも年上のこの上官が、傷付いた哀れな少年のような気がしてならなかった。
ようやく公爵邸に着いた。
屋敷の者たちと共に公爵を馬から下ろす。
汗の浮いた顔で公爵は低くうなり、一度目を開けた。見知った己れの屋敷の者たちの顔を確認すると、ほっとしたように小さく笑い、何か言った後に再び意識を失った。
公爵の身体を寝室に運び、お抱えの医者が治療を始めた頃に公爵邸の執事から、エミルナールも部屋で休むよう言われた。
部屋に案内され、外套を脱いで革の長靴も脱いだ辺りで記憶が途切れた。
寝台に突っ伏し、エミルナールは泥のように眠った。