第二章 デュ・ラク・ラクレイノの娘⑥
そんな日々を過ごしながら一年ばかりが過ぎた。
初夏。フィオリーナは十歳になった。
常に比べ、今年は気候が不安定だとみんなが言っていた。
急に暑いくらい強い陽射しが照りつけるかと思うと、次の朝は肌寒いくらいに気温が下がったりする日が続いた。
元々虚弱な父は、天候の不順が身体に堪えるようだった。最近、仕事を中断して早めに春宮へ戻っていらっしゃることが増えた。お顔の色も良くない。
早くから寝間着に着替え、寝台に横たわる父をフィオリーナは見舞う。
目を閉じてぐったりと枕に頭を預けている父は、口には出さないもののひどく辛そうだった。
「フィオリーナ。今日は何を学んだのだい?」
フィオリーナが近付くとそう言いながら目を開け、父はほほ笑む。一生懸命ほほ笑む。
無理をさせていると思うとたまらなくなるが、フィオリーナが顔を出さないと父が寂しがるのだと、母にも侍女たちにも言われる。だからフィオリーナは父を見舞い、出来るだけ明るく振る舞う。
「今日は乗馬を習いました。でも貴婦人は常歩が普通で、たしなむのは速歩までなんですって。わたしは少なくとも駈歩までは習いたいんですけど。もっといえば、襲歩でどんどん走らせたいんです。学友の女の子たちとは別に、乗馬の教師をつけて下さいな、おとうさま」
父は苦笑する。
「怪我をしても知らないよ。私だって常歩以上で走らせることは滅多にないのに」
実際の話、王宮内を移動するだけなら並足以上はほぼ必要ない。
特に女性は乗馬そのものがさほど必要ではなかろう。移動する場合は馬車を用意されるのが普通だから。
「怪我はもちろん注意します。でも、乗馬の技術を磨いて損はないでしょう?だってわたしは、数多の殿方が私の騎士になりたいと先を争って忠誠を誓いに来るような、絶世の美女には逆立ちしたってなれないのですもの。右手を差し出して『お願い、私の騎士』と言えば命でも差し出す、そんな殿方は多分現れないわ。だったら自分で何でも出来なくちゃ」
素敵な殿方が自分の前で膝を折り、どうか私の妻になって下さい、私は貴女の騎士として永遠の忠誠を誓います、と求婚する。
昔から少女たちが夢見る、最高の求婚だ。
父は困ったように眉を寄せる。
「フィオリーナ。ずいぶんと自分を卑下するんだね。お前は可愛い、本当だよ。お前に忠誠を誓いたがる男の一人や二人や三人、すぐに現れるさ。私としては……いささか複雑だけどね」
お前が娘じゃないのなら私が誓いにゆくよ、と真面目に言う父へ、フィオリーナは空を向いて笑う。
「おとうさまったら。そういうのは親馬鹿って言うのだそうよ。それにわたし、卑下なんかしていないわ。わたしに本気で忠誠を誓いたい殿方は、襲歩で風のように駆けるわたしを襲歩で追いかけてきて、鞍の上からさらうくらいのことが出来る颯爽とした方がいいと思っているだけよ」
そんな方、そうそういないのが悩みなんですけど。フィオリーナがわざとため息まじりに言うと、父は大笑いした。
「確かに。もし私がお前と同じくらいの年頃で、フィオリーナ姫に焦がれて忠誠を誓いに行ったとしても。その条件なら、まったく相手にされないだろうね」
夏には少し体調が上向いたように見えた父だが、晩夏の風が吹くある朝、枕から頭が上がらなくなった。
「夏バテだよ。情けないね」
そんなことを言って父は、フィオリーナへ苦笑いしてみせる。
嘘ではないだろう、父は季節の変わり目に弱い。しかし、こんなにお顔がむくんだことも、顔色が青黒かったことも今までない。
幼い頃にかかった重い雪花熱が原因の、腎臓の病が急激に悪化しているのだと侍医が話していた。
母に余裕がなくなってきた。
人目のある所ではいつもと変わらぬ春風のようなアンジェリン王妃だったが、うつらうつらしている寝台の父を見守る目は、まるでおびえた子供のようですらあった。
「陛下……陛下……」
エメラルドにも似た彼女の緑の瞳には、フィオリーナの姿すら映っていないのかもしれない。
枕元にたたずみ、うわ言のように自分を呼ぶ妻に気付き、父は目を開ける。そしてほほ笑み、優しい声で言う。
「大丈夫だよ、アンジェリン」
ただの気休めに過ぎない言葉だったが、それを聞くと少しだけ、母はほっとするようだった。
元々母は、疲れやすい父をかばって王妃で代われる会合や付き合いを積極的にこなしていた。
政務以外で父を煩わさないよう、侍従長や秘書官、内務官ともよく諮ってきた。
しかし、もはやそんな程度の調整でどうにか出来る状態ではなくなってきていた。
王の決済が必要な書類に、署名をする仕事だけは午前と午後に一時間ばかり、寝台に半身を起こしてなさっていた。が、それすらも休み休みでなくては出来なくなりつつあった。
父の病状がただ事でなく重いのが、フィオリーナにも察せられる。
本格的に秋風が吹き始めた頃、ついに父は宰相であるリュクサレイノ侯爵を枕元に呼んだ。
「余程の事案でない限り、あなたに決済を委任することにします」
以来、父は一日の大半を寝台に横たわり、過ごすようになった。
横たわったままぼんやりと、どこか遠くを見つめている蒼い瞳には『千里を見通す』と恐れながら敬われた、かつての覇気が失せかけている。
宰相に決済の大半を委任して、気の張りも失せたのだろうか。
毎日のように報告に来る宰相と一緒に、リュクサレイノの曾祖父さまも来るようになった。
どうやら、父に万一があった場合について話しに来ている様子だ。
父はこう言ったのだそうだ。
「正式な王太子のいない今ですから、今後について何らかの形で遺志を残しますよ。誰もが納得して従う……そういう者に後を託したいですね」
そう陛下がおっしゃっていたと、いささか声高に曾祖父さまが宰相たちと話していたのを、フィオリーナは偶然耳にした。
ふと思い出すのは、夏の走りである通り雨が上がったある夕方のこと。
体調が小康状態だった父と、いつものように話しながらお茶を飲んでいた。
「フィオリーナは女王になりたいかい?」
まるで、今日はお茶に牛乳を入れるかいとでもいうくらいの軽さで問われたので、フィオリーナも気軽に答えた。
「なりたいかなりたくないかで答えていいの?おとうさま」
さすがに父はかすかに苦笑いめいた笑みを頬にただよわせたが、
「ああ。それでいいよ」
とおっしゃった。
「それならなりたくないわ、と言うより、なりたいと思ったことがないの。だって女王になってしまえば、ラクレイドの王都以外、出歩けなくなるでしょう?」
王自ら兵を率いて戦った大昔ならいざ知らず、昨今の王が王都どころか王宮から出ることはまずない。
王太子時代には見聞を広めるために各国をめぐることもあるが、当然時間も場所も限られる。
「わたしはあちこち、それも世界のあちこちを、じっくりと見て回りたいの。ラクレイドの隅々はもちろん、デュクラにもレーンにも、もっと言えばルードラントーにも行ってみたいと思っているんです。女王になってしまったら、王都の下町にすら行けなくなってしまうでしょう?そんなの嫌ですもの」
父は楽しそうな声を上げて笑った。
「まったく。王になりたくない者ばかりだな。ラクレイドは実に変わった国だ」
しかしお茶を飲みながらの雑談など、現実の前ではまったく意味がない。そのくらい子供のフィオリーナもわかっている。
ラクレイドには女王が治めた時代がある。
第五代と第六代の王が女王だった。
フィオリーナは、第五代ラクレイド王たるフィオリーナ陛下から名をいただいた。果敢にして繊細なるラクレイドの偉大な母、と呼ばれていらっしゃる賢君だ。
フィオリーナ陛下のような女性になってほしい、そんな願いを込めて名付けられたと聞く。
(わたしが……王?)
もし父が儚くなられたら、普通に考えればそうなるのが順当だ。
しかしまったく実感が持てない。冗談のような気すらする。こんな子供が王になるなんて、出来る出来ない以前の話だ。
では……他に誰がなるというのだ?
身内の誰彼の顔を思い浮かべるが、自分を含め誰が王になっても、現王である父ほど皆が納得して従い、導けるとは正直思えない。
自分の居間の窓から色付き始めた庭木をうち眺め、フィオリーナは、何度も何度もため息をついた。
父の病状を心配するより自分の今後を心配をしているのに、フィオリーナは不意に気付く。さらにため息が出た。
何が心配で何が不安で結局何が辛いのか、フィオリーナはもうわからない。
わからないまま何故か勝手に涙があふれてくる。唇をかみ、ぼやける視界を瞬きして晴らす。
ジャスティン夫人が無言でハンカチを差し出してくれる。
反射的に押し返そうとしたが思い直した。素直に礼を言って受け取り、目を押さえる。
「少し庭を歩いてくるわ」
ハンカチをジャスティン夫人へ返し、唐突に立ち上がるとフィオリーナはそう言った。それでは外套をと言う乳母を、フィオリーナはぎこちなく笑って制する。
「すぐ戻るから。ちょっと頭を冷やしたいだけなの」
廊下を行くフィオリーナから、少し離れてデュラン護衛官が足音もなく付いてくる。
護衛の相手に必要以上の負担をかけない、それでいて存在をほのめかせる絶妙の距離感。
王女付きの正護衛官である彼は、当然優秀だ。
国王付きのクシュタン護衛官、レライアーノ公爵付きのタイスン護衛官のようなふたつ名持ちではないものの、デュラン護衛官は彼らに次ぐ実力者だ。
三十代半ばほどの彼には幾人かの部下もいる。
しかし彼は、部下にフィオリーナの護衛を任せることはほとんどない。職務に忠実過ぎてやや融通が利かず、他人に仕事を任せるのが下手なのが彼の欠点であり、良さでもあるのだと、いつか父がこっそりフィオリーナへ耳打ちしたことがある。
「相手の人柄を見抜くこと。その人の良さを最大限に引き出すこと。私は、見抜く目にはいささかの自信があるけど、良さを引き出すのはあまり得意じゃない。この部分は、お前のおかあさまやアイオール叔父さまには敵わないといつも思っているのだよ」
そんな思い出を反芻しながら回廊を行こうとして、フィオリーナは足を止めた。
向こうを横切る、侍従長に先導された見慣れぬ貴人の横顔が見えた。
背中を過ぎる黒髪に、濃い紫の高襟の上着。
アイオール叔父さま……レライアーノ公爵の髪の色をした、レライアーノ公爵の貴色の正装をまとっている貴人。
いや、つまりレライアーノ公爵、アイオール叔父さまなのだとわかっている。
しかし、こんなに顔色の悪い、そしてこんなに切羽詰まった暗い顔をした彼を見たのは初めてだ。
はろばろとした景色を思わせる不思議な香りの鮮やかな青の軍服をまとった、優し気な笑みを浮かべたいつもの彼とは別人に見えた。
(レクライエーンの申し子……)
レライアーノ公爵の不吉なふたつ名が何故か浮かぶ。
レライアーノ公爵の周りには影が見える。
死をもたらす暗い影だ。
彼の母である海の女神は、山の麓に閉じ込められたまま死に、魔女となった。
魔女は死後、闇の神と通じて己れのいとし子へ闇の力をもたらした。
彼女の息子は母を閉じ込めた山の神を憎み、その末裔たる王家を根絶やしにする為、密かに忌まわしい闇の力をふるっている。
馬鹿馬鹿しい噂話だと、小耳にはさむ度にフィオリーナは憤っていた。
ラクレイドの貴人には珍しい、彼の暗い色の髪と瞳を徒らに恐れた、愚か者の戯言だと。
だが青ざめた正装の彼に、その不吉なふたつ名はひどく似合って見えた。
病み疲れた父へ、お前はもはや生きていられないと通告に来た使者のようにすら見えた。
(変わる。何かが。すさまじい勢いで)
不吉な予感に肌が粟立つ。
自分の腕を自分で抱くようにしながら、フィオリーナは鋭くきびすを返した。




