第二章 デュ・ラク・ラクレイノの娘①
フィオリーナは物心がつく頃から、鮮やかな青の、高襟の軍服に身を包んだ短髪の人が来るのを楽しみにしていた。
武官のような短髪だったが、彼が普通の武官ではないことは察せられた。
その人の青い軍服からは、かぎ慣れないけど清々しい、不思議な香りがかすかにした。
はろばろと広がる景色を思わせる、心が明るくなるような香りだった。
「フィオリーナ姫」
呼びかける声は優しく、父の声によく似ていたがもう少し柔らかいような感じもした。
短く刈った彼の髪は漆黒で、瞳の色は黒に近いくらい濃い紫色なのが、フィオリーナを含め周りにいる者とは違っていて強い印象があったが、嫌だとか怖いとかは思わなかった。
彼はフィオリーナを抱き上げると必ず、大きくなられましたね、と言った。
「そのうちに私の娘も、姫のようになるのでしょうけど」
フィオリーナは新年祭の後で彼が抱いて連れてきた、拳骨をしゃぶっている赤ちゃんを思い出した。
キョトンとこちらを見ている、蜂蜜色の髪をした可愛らしい赤ちゃんだった。彼よりも淡い紫色の瞳が、フィオリーナを見つめてキラキラしていた。
「ポリアーナはまだお人形遊びが出来ないの?アイオール叔父さま」
フィオリーナが問うと、彼は困ったように少し笑った。
「うーん、そうですね。でもそのうち出来るようになりますから、その時は遊んであげて下さいませ」
その人はいつも、珍しいおみやげを持って来てくれた。
ある時は白い巻貝。細い角が沢山ある、面白い形をしていた。
ある時はフィオリーナの爪を思わせるような、薄い桜色の二枚貝を幾つも封じ込めたガラス細工。
うっとりするほど綺麗で、いつまで見ていても飽きなかった。
ある時は赤い珊瑚の枝。
丁寧に磨かれ、まろやかに輝くそれは、彫刻家の作った置物のようだった。
ある時は香り高い、黒糖を使ったお菓子。
丸く作られた揚げ菓子は、素朴だけど食感が独特で美味しかった。
その人が来ると、父はとても嬉しそうだった。
執務時用の地味な王冠を外し、部屋着に着替えて彼を迎える。
彼が挨拶するのもそこそこに制し、ご自分で将棋の盤と駒を持って来て、楽しそうに将棋を指し始めるのだ。
フィオリーナは、二人が楽しそうにしている姿を見ているのが好きだった。
大抵そばの長椅子に寝転がって見ていたが、時々父が膝に乗せて下さるのがまた楽しみだった。
背中や頭越しに、ちょっとくぐもってぼわんと響いてくる父の声が面白かった。
「退屈じゃないのかい、フィオリーナ」
時々、ややあきれたように父はそう言ったが、フィオリーナは不思議と退屈だとは思わなかった。
すべてがわかる訳ではなかったが、将棋を指す二人の、あちこちに飛ぶ思い出話を聞いているのは、物語の書かれた本のページをあちこちめくって読んでいるような感じで面白かった。
思いがけない時に思いがけなくお話がつながる、わくわくする感じもあった。
「そう言えば一時期、竪琴に凝りましたよね」
ある日彼がそう言うと、フィオリーナを膝に乗せたまま父は大笑いをした。
「ああそうだった、懐かしいな。竪琴は今でも嫌いじゃないが、あの当時のあの熱意は何だったんだろうと思わなくもないよ。下手くそな作曲までやって、二人で得意になっていたよな。一応楽譜は取ってあるが、ちょっと前に何の気なしに見返して、あまりの稚拙さに恥ずかしくなったよ。思わず引き出しの奥へ突っ込んでしまった」
「でも、そのうちで一番出来のいい曲を組み込んで、義母上さまのお誕生祝いにとオルゴール人形を作らせましたよね?義母上さまの姿を映した人形の」
彼の言葉に、ふっと父の気配が変わった。
「ああ……そうだったな。我々は気の利かない息子だから、母上の誕生祝いに洒落た贈り物をなんて考え付かなかったが、お前のお陰で少しは気の利いた贈り物を贈ることが出来たよ。あの時、母上は泣いて喜んで下さったな。結局、我々全員であれほどの贈り物が出来たのは、あれが最初で最後になってしまったけど……」
んん?と、しんみりしていた父がいきなりうなったので、フィオリーナは驚いて見上げた。
「おい、アイオール。何だこの手は。普通、この駒をこんな使い方するか?」
「え?ですがこう動かすこと自体には、何も問題はないでしょう?」
心外だと言いたそうな彼を、父は渋い顔で見返す。
「そ、そりゃあ……そうだが」
いつも冷静な父のあわてた様子が、幼心にも印象に残っている。
「アイオール叔父さまはどうして、髪を短くなさっているの?」
彼にそう問うたのは、確か七、八歳の頃。
短髪で宮殿をうろつくなんて、と、大人たちが忌々しそうに言っているのに気付いたからでもある。
「軍人だからですよ」
彼は簡単に答えたが、それでは答えになっていない。
「でも、近衛隊の長官や陸軍の大将、騎馬部隊の隊長たちはみんな、髪を長くしているわ。アイオール叔父さまは海軍の将軍でいらっしゃるのでしょう?将軍を務めるような偉い方は、髪を伸ばしているものなのでしょう?」
「偉いかどうかはともかく……」
苦笑しながら彼は言った。
「私のお務めの場は海です。海は陸と違って、当然ですがとても湿っています。おまけに海の水は真水ではありません、塩水ですから、当然吹く風にも塩が混ざってしまいます。長い髪では潮風でべたべたに……」
「塩?」
思いがけない話に、フィオリーナは驚く。
「どうして?どうしてお水に塩がまじっているの?塩はお山で取れるのでしょう?」
「岩塩ですね。確かにラクレイドでは主に岩塩が使われていますが、実は海水から作った塩を使っている地域も多いのですよ」
どう説明しましょう、とつぶやき、彼は再び苦笑する。
「はっきりしたことはまだわかっていないようですが。ものすごく乱暴に言ってしまうと、お山の塩が雨水で流されて海へ行き、海から先は何処へも行けずに塩が残るので長い年月をかけて濃い塩水になっていった、とでもいう感じでしょうか?姫のおとうさまの方が私などよりずっとご聡明ですから、機会があったら質問してみて下さいませ」
首をひねりながら、フィオリーナはもう一つ質問をした。
「それじゃあ叔父さま。これからどんどん、海のお水は塩辛くなってゆくの?」
「うーん、どうやらそうとも言い切れないそうなのですが。仮に、塩辛くなってゆくにせよ何千年も先の話でしょうね。我々には想像も及ばないずうっと未来のお話ですよ。興味はありますが、そんなに長くは生きられませんからね。例えばこのまま眠って、何千年も先になってパチンと目を覚まして、海の水が今の味と違うのかなめ比べてみたい気も致しますが。でもその時には、家族も友達も誰もいなくなっていてものすごく寂しいでしょうから、やっぱり嫌ですねえ」
すっかり話が、何故髪の毛を短くしているのかという理由からずれてしまっていたが、時にこういう面白いお話をして下さるのでフィオリーナは彼……アイオール叔父さまが、大好きだった。
しかし彼を好かない人も当然いる。
フィオリーナの曾祖父さまである先代リュクサレイノ侯爵がそうだ。
「非常識で軽薄な男だ、宮殿内をあんな短い髪でうろうろして。デュ・ラクレイノとも思えない風体だ。下賤の血を引く者の性根は所詮、下賤という訳だな」
アイオール叔父さまの話題が出ると、吐き捨てるように曾祖父さまはそう言う。顔は醜くゆがみ、恐ろしいほどだった。普段フィオリーナへ向ける『目も鼻もない』という雰囲気の甘い顔とは別人のようで、フィオリーナはいつも悲しくなる。
デュ・ラクレイノ。王の血筋。アイオール叔父さまは、ラクレイド王である父の、弟。ただ、父上は同じだけど母上の違う弟らしい。
七、八歳になればそういうことが、ぼんやりながらわかってくる。少なくとも、アイオール叔父さまのおかあさまがカタリーナおばあさまでないことは、説明されなくても察せられる。
フィオリーナは父に、アイオール叔父さまの母君について訊いてみた。
「アイオール叔父さまの母君は、レーンという南の海にある国の方なのだよ。レーンの神様をお祭りしている大神殿で、三番目に偉い神官を務めていらっしゃった方だ。ラクレイドとレーンが、国同士仲良くしましょうというお約束の証としていらっしゃった。とても上品で、勉強熱心な方だったな。ラクレイドの歌や詩を知りたいと、本を読んだり人に訊いたりよくしていらっしゃったよ。笑顔がすごく可愛らしい方で、叔父さまの笑顔はきっと、母君譲りなのだろうね」
話を聞く限りでは、アイオール叔父さまの母君はとても感じのいい方にしか思えなかった。こんな素敵な方のどこが『下賤』だろうと思った。
それに『国同士仲良くしましょうというお約束の証』としてラクレイドにいらっしゃったというのなら、フィオリーナのおかあさまだってそうだ。するとフィオリーナも『下賤の血を引く者』ということになるのだろうか?
ためらいながらもそう父に訊くと、父は困った顔をした。
「違うよ。それにリュクサレイノの曾祖父さまは決して、フィオリーナを『下賤の血を引く者』だとは思っていらっしゃらない。フィオリーナを心の底から、可愛い、大切だとも思っていらっしゃる」
父は、どう説明しようか、と言いたげに眉根を寄せた。
「そうだね、アイオール叔父さまに関しては、曾祖父さまはちょっと間違っていらっしゃるのだけれど。曾祖父さまの中ではちっとも間違っていらっしゃらないから、どう説明してもなかなか納得していただけない。でもフィオリーナは曾祖父さまがどうおっしゃろうと、アイオール叔父さまも叔父さまの母君も決して下賤なんかじゃないって、信じていておくれ」
アイオール叔父さまが髪を伸ばし、ラクレイドの貴人らしくちゃんとすればリュクサレイノの曾祖父さまも見直すのだろうかとちょっと思ったが、どうやらそういう単純な話ではなさそうだった。
リュクサレイノの曾祖父さまが蛇蝎のごとくにアイオール叔父さまを嫌っているように、アイオール叔父さまもリュクサレイノの曾祖父さまを嫌っているらしい、ということを知ったのもこの頃だった。
アイオール叔父さまは決して、リュクサレイノの曾祖父さまの悪口は言わない。言わないが、悪口だけでなく一切話題にしない。ごく幼い頃は何も感じなかったが、何も言わないとは要するに『拒絶』『否定』『無視』なのだった。
この二人が一度、フィオリーナの居間で鉢合わせたことがある。
目が合った途端、曾祖父さまは嫌そうな顔になったが、叔父さまの方は逆にほほ笑んだ。
ほほ笑んだが、いつもフィオリーナや彼の子供たちに見せるような明るいほほ笑みとは、どこか違って見えた。
「ごきげんよう、リュクサレイノ卿。お元気そうで何よりです」
あきらめたようにひとつ息をつき、曾祖父さまは挨拶を返す。
「ごきげんよう、レライアーノ公爵閣下。フィスタの方はいかがでしょうか?」
ほほ笑みを留めたまま、叔父さまは答える。形ばかり美しいほほ笑みは、関係のないフィオリーナであってもぞっとするほど恐ろしかった。
「お陰様で。順調ですよ。明日の御前会議で詳しい報告をするつもりですが」
ふん、と曾祖父さまは鼻を鳴らして笑う。
「それはそれは。まあしかし、順調でなくては大変ですな。何と言っても海軍は予算食いですからなあ」
ずけずけと嫌味を言う曾祖父さまへ、
「あっはははは!まったく、おっしゃる通りです」
と、アイオール叔父さまが底抜けに明るく笑ったので、曾祖父さまは拍子抜けしたような顔になった。
「という訳ですので、フィオリーナ姫。そろそろおいとまを致します。父君様、母君様へよろしくお伝え下さいませ」
では、と誰にともなく会釈をし、アイオール叔父さまは後ろも見ないで立ち去った。
「ふん。忌まわしい魔性の裔めが」
曾祖父さまの呪うようなつぶやきが、いつまでもフィオリーナの耳に残った。




