第一章 二つの遺言状⑫
公爵邸に着いた。
すでに夜も更けている、灯の点された屋敷は静かだった。
馬車を降りた途端、クラーレンが足音もなく上官へ寄ってきた。タイスンの気配が一瞬変わり、クラーレンの報告に目だけで応えていた。
「動きがあった。あんたの読みは正しい」
タイスンは主へささやく。公爵も目で諾う。素っ気ないやりとりだが、エミルナールは意味も分からないまま戦慄した。
始まったのだ、途轍もない競技将棋が。
早くも次の一手が来た。
もはや後戻りはできない。
わななく胸をなだめ、迷いを断ち切るようにエミルナールは深呼吸をした。
己れも駒なのだ。駒であることを、あの日自ら決めた。
そう、自ら決めたのだ。決めた限りはまっとうする。
もう一度深呼吸をし、エミルナールは、公爵の後に従って一歩を踏み出した。
玄関にはいつも通りに夫人が出迎えていた。
常なら少々遅くとも、母と一緒に父親を待って迎える子供たちだが、さすがに慣れない儀式で疲れたのだろう、早々と休んでいるのか姿どころか声も気配もない。
「お戻りなさいませ」
夫人の顔を見、声を聞いた途端、公爵の表情がゆるんだ。
彼はほほ笑み、妻の肩を抱いて軽くくちづけた。
「ああ。今戻った。だけどゆっくり出来そうもないんだ、マリアーナ」
ふと、公爵の目が置いてゆかれる子供のような頼りない感じで揺らいだ。
「旅行……に出ておくれ。急だけど、今すぐ。子供たちと、ミーナとルクーノも一緒に。せめて今夜くらいは大丈夫かと思っていたけど、そうとも言い切れない様子なんだよ」
夫人ははっとしたように夫を見上げ、やや青ざめながらも気丈に唇をかんでうなずく。
夫人は、子供たちとタイスンの妻子と共に国外へ逃れる話に納得をしていたし、その為の支度もほぼ済んでいた。
公爵はそっと、ようやくふくらみ始めた夫人の下腹部に触れる。
「身体を大切にして、元気な子を産んでおくれ。私も一度しか行ったことがないけれど、レライラの島は良い所だよ。私の母が名目上の領主ということになっているから、向こうの民は敬意を持って接してくれよう。前にも言ったように、引退後はここで静かに海を見て暮らしたいと思って、小さな家を手に入れておいたんだ。管理人も置いているから、当面住むには困らないだろう。この屋敷での暮らしの様に、不自由なくとはいかないだろうが、子供たちとのんびり暮らすくらいは何とかなる」
夫人はもう一度、気丈にうなずく。それでも青灰色の瞳は揺らいでいる。
不意に公爵は夫人を柔らかく抱きしめた。
「生きてくれ、マリアーナ。貴女と子供たちは私の命だ。喪われれば私の命も尽きる、そう思って元気に暮らして待っていておくれ。たとえ身体が半分になっても、私は必ず貴女と子供たちを迎えに行くから」
「ええ……ええ。お待ちしております」
夫人は言うと、うるんだ瞳ではあったが晴れやかに笑った。
「わたくしが本当の意味で生きられるようになったのは、あなたとお会いしてからですわ。だから、あなたを喪ったらわたくしの命も尽きます。あなたこそ……生きて下さいませ、閣下。いえ……」
アイオールさま。
ささやくように名を呼び、夫人は夫の首に一瞬強く抱きついた。
「コーリン」
後ろから低い声で呼びかけられ、エミルナールは我に返った。
ひやり、とした。
例の、狩りに出る獣めいたタイスンが、いつの間にかすぐそばにいたのだ。彼の軽くひそめた眉の下の、鳶色の瞳がひどく冷たい。
「呆けてんじゃねえよ、秘書官殿。公爵に命じられていた書類は全部そろってんのか?」
「は、はい」
つばを呑み込んで答えると、眉がさらにひそめられる。
「だったらさっさと持ってきな。ピンと来てないだろうがな、もはや平和な平時じゃねえ。死にたくなかったら緊張感持ちな」
言い捨てて足音もなく去る彼の背中に軽く頭を下げ、エミルナールは早足で書類を取りに戻った。
荷物と必要な書類、簡易の寝台を設えた一番大きい従者用の馬車が、しっかり休ませた馬を繋いで用意された。
やや窮屈だが、公爵の妻子、タイスンの妻子、サーティン医師が乗り込む予定だ。
クラーレンを始めとしたタイスンの部下は馬で従う。
妊婦連れ、子供連れにはきつい旅程であろうが、駅で馬を替えつつ、フィスタまで出来るだけ急いで行くように公爵は命じている。
無理に起こされ、着替えをさせられた公爵家の子供たちが、ふらつきながら玄関広間へ連れてこられた。
「ねえ。何?どうしたの?」
おそらく半分眠っているであろうシラノール公子が、やや不機嫌そうに大人たちへ問う。
「旅行だよ、シラノール。海軍のおじさま方が特別に、大きなお船に乗せて下さることになったんだよ」
父親にそう言われ、シラノールは突然目を見開く。
「お船?」
「ああ。シラノールはお船に乗りたかったのだろう?楽しんでおいで」
一瞬、シラノールの顔がぱっと明るくなったが、何か不穏な気配を察したか、すぐ表情を陰らせた。
「おとうさまは?」
公爵はしゃがんでシラノールと目の高さを同じにし、少し困ったように言った。
「おとうさまはね、お仕事の都合で行けないんだよ。だから、おとうさまからシラノールへお願いがある。シラノールはおとうさまがみんなを迎えに行くまで、おとうさまに代わっておかあさまとおねえさま、生まれてくる赤ちゃんを守ってくれないか?」
子供なりに何かを感じたのだろうか、公子の頬が少し青ざめた。
が、
「はい」
と彼は、凛々しく応えていた。
いい子だ、と、公爵は泣き笑いに近い笑顔になると、息子の頭をやや乱暴に撫でまわした。
父親と弟のやり取りをぼんやり見ていたポリアーナ公女は、思い付いたように辺りを見回し、エミルナールを見つけると寄ってきた。
「エミーノ。エミーノもお仕事が済んだら、おとうさまと一緒にわたしたちのお迎えに来てくれるの?」
エミルナールはそろえた書類の再確認をしていた手を止め、片膝をつく形でしゃがんで公女と同じ目の高さになり、笑みを作った。
「そうですね。エミーノはおとうさまの秘書官ですから、おとうさまがついて来いとおっしゃるのならどこまでもついて行きますよ」
公女はぎこちなく笑うと、不意に小さな右手を差し出した。貴婦人が己れに忠誠を誓う騎士へ願い事をする時の仕草だ。
エミルナールは驚きつつも、騎士のようにうやうやしくその手を取る。と、公女は至極真面目な顔でこう言った。
「エミーノにお願いがあるの。おとうさまから、離れないであげて」
「え?」
意味はよくわからないものの、ポリアーナのただならぬ真剣さに、エミルナールはどきっとする。
「あのね。おとうさまはね、すごい寂しがり屋なのよ。おかあさまやわたしたちとあんまり長く離れていると、きっとしょんぼりして元気がなくなっちゃうから、エミーノはマーノと一緒にいつもおとうさまのそばにいて、元気出してねって慰めてあげて欲しいの」
(ポリアーナさま……)
自分たちよりのことよりも一人離れてしまう父を案じる公女に、エミルナールは胸を打たれた。公女の紫の瞳をちゃんと見て、エミルナールは真面目に応えた。
「わかりました。エミルナール・コーリン、公女ポリアーナ・デュ・ラク・レライアーノ姫に忠誠を誓う者として、姫のご命令を遵守いたします」
うんお願い、と言うと、ポリアーナはふと、はにかんだように笑んだ。
遠ざかる馬車を見送りながら、公爵は
「マーノ」
とタイスンを呼んだ。
「リュクサレイノ側に知られてはいないか?」
タイスンが淡々と答える。
「絶対、と言い切る自信はさすがにねえけど。でも、ここ最近うろついてた怪しげなヤツらは二人ばかり、クラーレンたちがふんじばって納屋に転がしてる。場合によっちゃ永遠におねんねしてもらってもいいけどよ、まあ、泳がしておいた方がいいんじゃねえかな?アチラさんも素人じゃねえから、夜明け頃には逃げてくだろうからな」
「そのくらい時間を稼げれば、まあ追いつかれないだろう。仮に追いついて来たとしても、様子見の二、三人というところだろうし。それなりの人数で本格的に襲いでもしない限りは、クラーレンたちがいるから大丈夫だろう。あちらも今はまだ大袈裟なことはしたくなかろうしな。無事にフィスタまでたどり着ければ、当面は安心だ。フィスタは私の領地だし、海軍の者はマリアーナの親衛隊を自認している者ばかりだ」
自分を納得させるようにそう言う公爵へ、タイスンが笑みを含んだ軽い感じで応える。
「ああ。海軍将軍に着任してしばらく、あんたたちはフィスタ砦で暮らしていたもんな。ポリアーナさまが生まれたのも、そう言えばフィスタだった。母になっても若く美しい奥方様は、連中にとっちゃ女神様だったな」
懐かしいよな、とタイスンがつぶやき、ああそうだな、あの頃は大変だったけど楽しかったなと、笑みを含んで公爵も応じる。
彼等の後ろで聞くともなく二人の主従の話を聞いていたエミルナールは、何だか背筋がぞっとした。
『ふんじばって納屋に転がす』だの『永遠におねんね』だのという物騒な言葉とまったく同じ調子で、『懐かしい』だの『楽しい』だのという牧歌的な思い出話に興じる二人が、エミルナールは急に恐ろしくなった。
よく見知っていたはずのこの二人の、まったく見知らぬ側面が垣間見えた気がした。
「コーリン」
公爵が不意に振り向く。
着替える暇もなく未だ喪の装いのままの公爵の姿が灯火に浮かぶ。不思議なくらい彼の不吉なふたつ名『レクライエーンの申し子』が、似合って見えた。
「君のご家族は、クリークスにいたのだったな」
「は……い。両親や姉夫婦などが」
何故自分の家族が話題に出てくるのか訝しく思いながらも、エミルナールは答えた。公爵はふっと息をついて一瞬目を伏せた後、エミルナールの目を真っ直ぐに見ながら言った。
「クリークスはウエンリィの領主・ウエンレイノ伯爵のお膝元。知っていると思うが妻の実家はウエンレイノだから、伯爵は私の義兄に当たる。私はあの方に君の親族の保護を願い出ている。正直、義兄にあまり借りを作りたくないが、こういう場合は仕方がない。ついては君の方からも速達便でご家族に、ウエンレイノ伯爵の庇護下に入るようにと手紙を送って……」
「え?ちょ……ちょっとお待ち下さい、閣下。何故私の家族が……」
皆まで言えず、エミルナールは言葉を詰めた。
一瞬、何が起こったのかわからなかった。
気付くと、タイスンが信じられない速さでエミルナールの後ろへ回り、彼の太い左腕がエミルナールの首に巻き付いていたのだ。
「平時しか知らない、ましてや文官のあんただ、緊張感持てなんて言われてもわかんないだろうな。だけど、こういう状況なんだからしょうがねえんだよ」
タイスンの声はどこか哀しげだった。
言いながら彼の腕に少し力が加わる。それだけで格段に呼吸が苦しくなった。反射的にエミルナールはタイスンの腕を振りほどこうともがく。しかしもがけばもがくほど腕は首を絞めてくる。
「動くな、コーリン。動くほど首が締まるし、怪我をすることにもなる」
頬にひやりとした硬質なものが押し当てられ、エミルナールはすくむ。
「私は常に護身用ナイフを携帯している。知っているだろう?」
斜めから差す灯火の光に照らされた公爵の顔は静かだった。
恐ろしいまでに静かだった。
菫色の瞳は闇より深い闇の色に見えた。こちらへ差し伸べられた彼の手には、見慣れたナイフの柄があった。
頬に押し当てられているのがナイフの白刃なのは、はっきり見えなくともわかる。
「は、い」
生唾を飲み、エミルナールは答える。
将軍とはいえ現役の軍人、武器の携帯は嗜みだと、公爵は確かにいつも、特別に作らせた剣帯で右腿に護身用のナイフを帯びていた。
時々、鞘の着いた状態のナイフで、タイスンを相手に鍛錬らしいこともしていた。
素人目にも綺麗な動きで彼はナイフを操っていたが、タイスンが面倒くさそうに相手をしている雰囲気から言って、公爵の数ある趣味のひとつだろうと思ってきた。
(この人は喪服の下にまで、護身用ナイフを忍ばせていたのか?)
毛穴が逆立つ。
護衛官以外にも護衛の多くいる、それも宮殿での喪の式典でさえ、護身用ナイフを帯びていたらしい、この人は。
「コーリン。どこまで自覚しているかわからないが、君はレライアーノ公爵の懐刀、つまりはこのナイフなのだ」
公爵の闇のような目は、真っ直ぐエミルナールを見つめている。
「少なくとも今日、それがあちら側にもはっきりとわかっただろう。剣や鎧とは用途や攻撃力は違うが、懐刀も侮りがたい。接近戦で相手の喉笛をかき切るのに、これほど使いやすい武器はないからな。彼等……つまり私の敵は。私の弱体化を図りたい筈だ。私の手からこの懐刀をはたき落とそうとするだろう。その為なら卑怯なこともするし人の命も奪う。君のご家族も例外にはならない。我々はそういう相手と対峙しているのだよ」
不意に呼吸が楽になり、エミルナールはよろめいた。
タイスンが腕の戒めを解いたのだ。軽く咳き込みながら首をさする。
タイスンが解放したのと同時にナイフを引いた公爵は、だらりと腕を下げた状態で頬を引く。
「リュクサレイノを甘くみるな。今でこそ彼等は伝統にこだわる、ラクレイドの宮廷一の保守勢力だが、国の黎明期には『ラクレイド王の牙』というふたつ名で鳴らしていた一族なんだ。己れの意思を通す為なら、乱暴で最も早い手段を取るのも躊躇わないし……もっと言うなら、リュクサレイノの血筋以外、人間とは思っていない一族でもある。仮に王であったとしても、彼等の心情としては将棋の駒以外の何物でもないのだよ」
そこでふっと、公爵は笑んだ。虚しさや倦怠がにじむ、ひどく儚い笑みだった。
「脅すような形になって悪かったな、コーリン。だけど決してただの脅しじゃない。忘れるな」
首をさすりながらうなずくエミルナールを見ながら、公爵は一瞬、すまなさそうに苦笑した。そして
「マーノ」
とタイスンに声をかけた。
「無理は承知だが。お前、コーリンを鍛えてやってくれないか?」
「はあ?」
公爵の言葉に、タイスンは頓狂な声を上げた。
「コーリンを死なせる訳にはいかない。まずは受け身が取れるように、可能なら私程度の腕前の相手くらいとは戦えるように……」
「お……おいおいおい!本気かよ、閣下様。この青白き碩学様を、鍛える?それも、あんたと戦えるくらいに?無茶だ、それくらいなら頭の中まで筋肉みたいなこの俺が、むつかしい法律の条文を覚える方がまだましだぞ」
「そう言うな。それに、こう見えてコーリンはなかなか機敏だぞ。時々執務室でボールをぶつけてみたが、ここ最近は大抵躱された。第一彼は粘り強い、ものにするまで食らいついてゆく根性は並大抵じゃないぞ。きっと素晴らしい生徒になるだろう」
「いや、しかし……」
「命令だ!」
やや強くそう命じる主へ、タイスンは一瞬目を閉じ、あきらめたようにため息をついて口をひん曲げた。
「御心のままに、アイオール・デュ・ラクレイノ・レライアーノ公爵閣下」




