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第一章 二つの遺言状⑪

 一同の目が集まる。 

 声の主はフィオリーナ王女だった。


 大人のものより裾を短く作られた黒のローブ、顔の上半分ほどを隠す短めの黒のヴェールという痛々しい喪の姿の少女は、簡素なレースの縁かがりだけの真白なハンカチを握りしめ、ぶるぶると震えながら円卓の前に立っていた。

「やめて下さい!もうやめて下さい!ここは虚ろの玉座を嘆く、王を悼む為の場ではなかったのですか?」

 ヴェール越しにも滂沱と涙を流す王女の顔が認められ、はっと胸が衝かれる。

「誰が次の王だとか……やめて下さい!おとうさま……父を、悼んで下さい!」

 大人たちの顔に刹那、生身の人間の一番柔らかい部分がむき出しになる。

 仲のよい兄を失くした弟、二人の息子に先立たれた母、孫息子にすら置いて行かれた哀れな祖父の顔に戻った。

 公爵はその場に硬直したように立ち尽くし、王太后と老リュクサレイノは気が抜けたように座り込んだ。


 しばらくの静寂の後、レライアーノ公爵は姿勢を正した。

「おっしゃる通りです、フィオリーナ王女殿下」

 静かな声でそう言うと、彼は深々と頭を下げた。

「思いがけない事態に混乱したといえ、一番大切なことを失念しておりました。そうです、ここは虚ろの玉座を嘆く、亡き王の遺徳を偲ぶ場でありました。申し訳ありませんでした」

 かなりの間、彼は頭を下げていた。王女が涙にあえぎながら、もう結構ですから頭を上げて下さいと言っても、なかなか彼は頭を上げなかった。

 上げないのではなく上げられなかったのだとわかったのは、ようやく頭を上げた彼の顔が涙まみれだったのが見えた瞬間だった。唇をかみしめて席に戻り、震える手で顔を隠すようにして彼は嗚咽を呑んだ。

「リュクサレイノの曾祖父(ひいおじい)さま。曾祖父さまも謝って下さい」

 王女の声に、哀れな老人は茫然と顔を上げる。

「アイオール叔父さま……レライアーノ公爵への暴言、この場に相応しいとはとても思えません」

「おっしゃる通りです、フィオリーナ王女殿下。この爺が間違っておりました」

 老リュクサレイノは言うと深い息をついて立ち上がり、レライアーノ公爵の方へ向くと深く頭を下げた。

「年甲斐もなく激昂してしまい、私自身が驚くほどの、大変失礼なことを口走ってしまいました。この愚かな爺の白髪頭に免じ、なにとぞご寛恕いただけないでしょうか、レライアーノ公爵閣下」

「頭を上げて下さい、リュクサレイノ卿」

 涙を呑みながらレライアーノ公爵は言う。

「そもそもは私が悪かったのですから。卿のお言葉のあれこれは、フィオリーナ王女殿下の今後を慮り、気遣っていらっしゃるからこそのもの。わかっております、どうぞお気になさらないで下さい」

 レライアーノ公爵の言葉を受けて老リュクサレイノは、もう一度詫びの言葉を繰り返した後、殊勝気に目を伏せたまま席に着いた。

「宰相リュクサレイノ侯爵」

 少し疲れたような静かな声は王太后のものだった。成り行きに気を呑まれ、言葉もなく立ち尽くしていた宰相は、はっとしたように姉である王太后に視線を向けた。

「セイイール陛下が心穏やかにレクライエーンの御前に立てるよう、皆で祈って差し上げ……『虚ろの玉座の嘆き』を終わらせませんか?」

 宰相はうなずき、軽く咳払いをして言った。

「えー、それでは。この場の皆さんでセイイール陛下へ祈りを捧げ、『虚ろの玉座の嘆き』を締めくくることといたします」



 途轍もない『虚ろの玉座の嘆き』がようやく終わった。

 半ば以上茫然としながら、エミルナールは公爵に従い、夏宮を後にする。

(どういう……ことなのだろう?)

 陛下の真意が読めない。

 遺言状が二つあったことそのものは、その時は驚いたがまだわかる。

 上手い手を考えられたな、と、しばらくしてエミルナールは思ったのだ。

 フィオリーナ王女を次の王にという、日付の古い方の遺言状を老リュクサレイノたちに見せた後に封をして渡し、公爵を次の王にという内容の日付の新しい遺言状を、誰にも見せるなと因果を含めて王妃へ託せば。

 公開直前まで、新しい遺言状を誰にも知られることなく守れる。

 しかし、肝心の日付を入れなければ遺言の内容は無効になってしまう。

 ご聡明なかの方がそれを知らないとは考えにくいし、この手を使うならきちんと法律を調べ直さない筈などない。

 こんな中途半端な遺言、いたずらに混乱を招くだけで王の真意が皆に伝わらないではないか。

(……それでなくても公爵は不利なのに)

 『王の御遺志』という最強の武器があったとしても、勝てるかどうかわからない戦いだ。

 誰よりも王がそれをご存知だからこそ、死の直前に細心の注意を払って、今後を託すという強いご意志を公爵へ伝えられた筈だ。

 なのに。


 冴え切った夜気に、エミルナールは物思いから覚める。

 闇の向こうから公爵家の馬車が来た。

 乗り込む直前、公爵はこちらを見て、エミルナールとタイスンへ軽くほほ笑みかけた。

「今日は朝早くから大変だったろう。許す、二人とも私と一緒に、馬車に乗って帰りなさい」

「ありがとうございます。お心遣いに感謝致します」

 打てば響くようにタイスンが答えた。

 慌ててエミルナールも、お心遣いに感謝致しますと答えた。

 おそるおそる馬車の階に足をかけ、おそるおそる御者側、出入り口近くの下座席にエミルナールは着く。椅子の座り心地の良さがかえって居心地悪い。

 公爵家の馬車に乗せてもらうのは初めてだ。

 それも、従者用でなく主人用の馬車に乗せてもらえるとは思ってもいなかったので、ちょっと緊張する。

 先に座ってぼんやりと窓越しの闇を見ていた公爵が、不意にこちらへ視線を向けた。

「コーリン。今日はよくやってくれた。自分の意見や憶測を一切はさまず、定められている法律についてのみ過不足なく語ってくれたね。これは意外と、出来るようで出来ないことだよ。私はいい秘書官を持った、礼を言う」

「あ、いえ。もったいないお言葉です、お役に立てて光栄です……」

 着任以来、まともに褒められたりねぎらわれたりがほとんどなかったので、こうして真っ直ぐ褒められるとどうも……嬉しくなくはないが、居心地が悪かった。

「公爵。自覚してるか、顔色が悪い。屋敷に帰ったらすぐ休め」

 エミルナールの隣で主人並みにどっかり座っているタイスンが突然、ややぶっきらぼうにそう言った。

 なるほど、馬車の中が暗いだけでなく、公爵の顔色は良くないし瞳も虚ろだ。

 馬に乗って強引に王都へ帰ってきた日のことを、エミルナールはふと思い出した。

 公爵は眉間を指で押しながらため息をついた。

「ああ。そうだな、かなり疲れた。私は出来るだけ早く休むようにするが……家族は今すぐにでも動いてもらった方が良さそうだな」

 エミルナールとタイスンに緊張が走る。


 今後、場合によれば血なまぐさいことが起こる可能性が少なくない。

 公爵の最大の弱みが、夫人とお子様方なのはあきらかだ。

 ましてや夫人は身重、狙われると誰よりも大変な事態になり得る。事態が本格化する前に、家族は安全な場所へ逃がすと公爵は早くから決めていた。

「ここ二、三日のうちにと思っていたが。出来るだけ早く、今夜にでも出立させよう。老リュクサレイノを挑発するつもりだったのは確かだが、怒らせ過ぎてしまったきらいがあるしな」

「あのじーさんの頭の中は、百年ばかり昔の常識で固まっちまってるんだよ」

 吐き捨てるようにタイスンが言う。

「魔女の息子だのレクライエーンの申し子だの。公の場でそんな馬鹿馬鹿しいことを口走ると自分の値打ちを落とすってこと、わかんないのかねえ、あのボケ爺様は。まあ、アチラさんが値打ちを落としてくれた方が、結果的にはコチラ側には有り難いけどよ」

 公爵は疲れたように苦笑する。

「それは……どうだろうな。今回に関しては痛み分け、というところだろうよ。もちろん、理性では老リュクサレイノの態度に眉をひそめる者がほとんどだろうが、内心同調する気分になる者も少なくない。それがラクレイドの宮廷だ。異質なものは反射的に拒絶する。私は……どうあがいても、異質な王族だからな」

 公爵の最後の言葉には深い虚しさがこもっていた。エミルナールの知らない彼の修羅が刹那、垣間見えた気がした。

 公爵は続ける。

「今までそれを逆手に取ってきたが、陛下がいらっしゃればこその戦略だった。事態がこうなるのなら、別の戦略を取るべきだったと思わなくもないな」

 タイスンが鼻を鳴らす。

「よく言うぜ、戦略だけのフーテンかよ」

「まあ、かなり楽しんでいたのは事実だよ」

 長い付き合いの主従にのみある、苦みのあるなれ合った笑声が低く響く。


「あの……閣下」

 エミルナールはおずおずと声をかけた。

 なんだ、と問う公爵へ、思い切ってずっとあった疑問をぶつけた。

「閣下は陛下のご遺言状がこういう形であることを……あらかじめ、ご存知でいらっしゃったのでしょうか?」

 公爵は軽く天を仰ぎ、眉を寄せる。

「まさか。こんなねじれたご遺言が残されていたなんて、想定していなかったね。私を王にというご遺言をどうやって飲み込ませるかという想定なら、いくつか考えなくもなかったけど。まあ……真っ直ぐなご遺言でない可能性はあるかなと、身構えてはいたよ。頑ななたぬきどもが相手なんだ、陛下だって今までご苦労をなさってきた。いくら王のご遺言であっても、爺様連中が簡単に納得しないことくらい、嫌というほどご存知でいらっしゃったはずだし」

 それにしては落ち着き払った態度だったと、今更ながらエミルナールは驚いた。肝の太いことだ。

「考えてみれば。『王の御遺志』は究極の大義だ。逆らいにくい。でも、だからこそこの大義にひしがれた側の者は、強烈な不満を飲み込まなくてはならない。将来に騒乱の種をまくようなものだ、陛下はそれを避けたかったのではないかと後で思ったよ。あえて、無効になるご遺言を二つ残すことで、まずは皆に二つの道があることを強烈に示した……と」

 何を思ったか、急にくすくすと公爵は笑い始めた。

「そう言えば。陛下は昔から、相手の虚を衝く妙手を得意とされていた。こちらが慎重に積み上げてきた鉄壁の陣を、ただの一手でくずされて何度ほぞを噛んだことか。かの方の最後の一手は、かの方らしい妙手だったという訳だ」

 いつの間にか公爵に表情は、泣き笑いのようになっていた。

「かの方のおっしゃるには。私は時々、ぎょっとするほど意地の悪い、卑怯ぎりぎりの際どい手を使うらしい、あまり自覚はないのだかな。かの方の最後の一手がかの方らしい妙手だったのだから、私は私らしく際どい手でこの競技将棋を勝ち抜こう、改めてそう思ったよ」


 しばらくは轍を食む車輪の音だけが響いた。


 それぞれ物思いに沈んで黙っていたが、不意に公爵がふき出したので、エミルナールとタイスンは顔を上げた。

「しかし。フィオリーナ姫には驚かされたな。あの一言で大人たちは皆、それぞれの鉄面皮を粉々に砕かれた。おまけに、最終的にはあの老リュクサレイノから謝罪の言葉を引き出したのだから大した手腕だ。さすがはデュ・ラク・ラクレイノたるお方、いっそ女王フィオリーナの将軍になりたいと本気で思ったよ。かの方が今現在十六歳でいらしたら、私は死ぬまで『閣下』でいられたのにな。上手くいかないものだ」

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私が公爵だったら、外敵の危機を認めない鬱陶しい老臣は、暗殺します(ぁw
死の間際になんと見事な将棋。 そしてなんと深い信頼! この将棋、勝たぬわけにはいきませんねぇ。 しかも、勝ち方が難しい。
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