第十章 乱Ⅱ②
食事の後、二時間ばかり休むと言ってフレデリールは寝室へ向かう。
ここしばらく、あまり休めていないのは事実だ。
本来ならすぐにでも王宮に戻るべきだろうが、一通りの段取りは秘書官に任せてきた。たとえ二時間でも三時間でも、自分の寝室の自分の寝台でやすみたいのが本音だ。
清潔な敷布に包まれた寝台に、洗濯されてはいるが着慣れて柔らかくなった部屋着のまま、彼は横たわる。
扉へ合図があった。
予感めいたものを抱きながら、彼はどうぞと答える。
「おかえり、リール。ごたごたは片付いた?」
滑り込むように部屋へ入ってきた赤毛の男は、ささやくようにデュクラ語でそう言う。フレデリールはやるせなく笑い、デュクラ語で答えた。
「ああ。まだまだごたつくけどね」
くすくす笑いながら、赤毛の男はなれなれしいまでに近々と寄ってくる。
もはや壮年といえる年頃なのに、男には未だに、蠱惑的でわがままだった少年の頃のにおいが残っている。
(……いや。そう思うのは私だけか?)
失笑に近い諦め笑いが、しわの増えたフレデリールの頬に浮かぶ。
自分で自分の愚かさを嗤うしかない。
「ごたごたはむしろこれからだよ、愛しい人」
ささやき、赤毛の男は素早くフレデリールの唇をついばむ。
年甲斐もなくどぎまぎしてフレデリールは目を泳がせる。
彼の部屋着の襟元から覗く生々しい切り傷のかさぶたが、何故かなまめかしくて更に困惑する。
(もう、そういう関係にならない。そう決めたからこそかくまったのに……)
己れの狡さや弱さを知りながらの言い訳。再びついばんでくる唇を、今度は落ち着いてフレデリールは受け止める。
「盤上の駒がひっくり返る。ひっくり返すのはあなただよ、リール。フレデリール・デュ・リュクサレイノ侯爵。あなたこそが新しい時代の英雄だ。ラクレイドがルードラの王国に編入された暁には、第一番にルードラの戦士として称えられるのがあなただ。……誇りに思うよ、僕の初恋」
『あなたは僕の初恋なんだ』
エメラルドの瞳を涙に曇らせ、あの日、彼はそう言った。
ごく平凡な容姿・平凡な能力の自分へそんなことを言う彼の言葉が、なかなか信じられなかった。
『だってあなたは優しいじゃないか。真っ直ぐじゃないか。僕の周りに……あなたみたいな人なんていないよ』
そう言う彼を、震える腕で抱きしめた日のことは未だに鮮やかに覚えている。
デュクラでの留学時代、世話になっていた家の一番下の子供が彼だった。
綺麗な子だったが、何故かいつもフレデリールへ意地の悪いちょっかいをかけてくる、困った少年だと思っていた。
その困った少年の顔が脳裏から離れなくなり、夢にまで出てくるのに気付いた頃、フレデリールは自分を知った。
自分は女を愛せない。
友情ならまだしも、恋愛の対象にならない、と。
薄々と感じていたことが、彼と出会ってフレデリールの中で明白になった。
アンリ・ドゥ・チュラタン。
フレデリールの初恋。
あの時の彼に打算があったとは思えない。
だが今、愛されている自信で傲慢にほほ笑みかけてくるアンリには、打算しかないだろう。
知っていてもあえて乗る。
行き詰まり、硬直して腐りかけているラクレイドへ、彼がもたらすものは風穴を開けるだろう。
(……言い訳だな)
くちづけをくり返しながら頭の隅でフレデリールは思う。
ただ単に自分は、毒と知っていてもこの甘い酒が飲みたいだけなのだ。
悪酔いしかしない、ひとときの美酒を。
(父を嗤えない)
半分以上打算と知っていながら、母を抱いてしまった父を。
むしろ少しホッとする。
父に似ていない子だと散々言われてきたが、フレデリールはちゃんと父の息子であるらしい。
一番似たくないところが似てしまったようだが。
「大好きだよ、僕の初恋」
虚しい言葉と一緒に、フレデリールは美酒を呑みこむ。
習慣性のある、質の悪い毒であると知っていながら。
王宮へと戻る馬車の中で、フレデリールは傍らに置いた白葡萄酒の瓶を見た。
彼が『毒師』のふたつ名を持っていることくらい、ずいぶん前からフレデリールも知っている。




