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序章

 エミルナール・コーリンは、幼い頃から神童と呼ばれてきた。

 満三歳を過ぎた頃から姉と一緒に九九を暗唱し、五歳になる頃には七歳児と肩を並べて初等部の授業を受けるようになった。

 コーリン家は代々、クリークスの役場で出納係をはじめとした役人を務めてきた家系だが、エミルナールのずば抜けた頭脳は田舎の小役人で終わるようなものではないと、両親のみならず親戚中が期待した。

 エミルナールはその期待に応えた。

 飛び級で進学し、普通の少年が十五歳で入学する上級学校を、十五歳になる年の春に卒業した。

 その後、家庭教師についてみっちり受験勉強をし、わずか十八歳で王宮官吏の登用試験を主席の成績で合格した。

 その年の主席の合格者は王の前で直々に辞令を交付され、直々にお言葉を賜るのが慣習(ならい)である。

 エミルナールは澄み切った秋空の下、親が用意してくれた一張羅を鞄に詰め、町で用意してくれた馬車に乗り、緊張に震えながら王都へと向かった。

 神の峰の麓、麗しの王都へと。


 エミルナールは一張羅を身につけ、無礼なまでに慇懃な侍従に導かれて、眩暈がするほど巨大で壮麗な、王宮は夏宮(かきゅう)・謁見の間へ通される。

 ラクレイドの若き王、セイイール陛下は御歳まもなく二十五。

 光沢のある銀の髪、お顔の色はやや青白いほど白く、うら若き乙女のごとき繊細で美しいご容貌。

 しかし深みのある蒼い双眸の鋭さが、この若き王が見かけ通りの嫋々たる方ではないことを物語っている。胸の底の底まで貫くような眼光に、エミルナールは更に震えた。

「エミルナール・コーリン」

 静かな謁見の間に、音楽的ですらある豊かな王の声が響く。

「そなたの成績はずば抜けていた。今年のみならず、歴代でも指折りの成績であった……とか。見事である」

 王の眼光がややゆるむ。

「今渡した辞令にもある通り、そなたは今後、我が弟でもある海軍将軍・レライアーノ公爵の秘書官を務めよ」

 レライアーノ公爵、という名にエミルナールは身構える。かつて大伯母が王宮の侍医を務めていた頃、お世話をしていたという王子のことだ。

「かの者は着任からわずか五年で、大幅に海軍力を増強した。ずば抜けた者の補佐はずば抜けた者でなくては務まらない。そなたなら期待に応えてくれよう。我が弟をよろしく頼む」

「も、もったいないお言葉であります」

 思わずどもりながらエミルナールは答えた。

「エミルナール・コーリン、必ずや陛下のご期待に沿えるよう、身命を賭して努力精進致します」


 そしてエミルナールは、現在レライアーノ公爵がいらっしゃる海軍の本拠地・ラクレイド南端の港町フィスタへ向かった。

 途中いろいろな噂を小耳にはさみ、エミルナールは少しばかり不安になった。

 大伯母は子供の頃のエミルナールの家庭教師でもあったが、好んで昔語りをするような人でなく、侍医時代のこともあまり話さない。が、時折もらす侍医時代の話で『アイオールさま』と発音する大伯母の声には、母のような祖母のような優しみがあった。あの優しく聡明な大伯母が大切に思っている王子様だ、きっと素晴らしい方なのだろうとエミルナールは思って育ってきた。しかし……。

 いや、噂話を真に受けるのも愚かしい。

 多くは語らなかったが、セイイール陛下もレライアーノ公爵を心から信頼していらっしゃる雰囲気だったではないか。余計なことは考えず、『ずば抜けた者の補佐はずば抜けた者にしか務まらない』という陛下のお言葉を胸に頑張ろう。思いつつ、エミルナールはフィスタ砦の門をくぐった。

 フィスタ砦は領主の館も兼ねている。ご領主はレライアーノ公爵。

 防衛の要でもあるフィスタは長く王領だったそうだが、レライアーノ公爵が現王から爵位を賜った時、領地として分け与えられたのそうだ。

 領主の館とはいえ軍の本拠地で砦、壮麗な王宮とは違い無骨で重厚、実用一点を重要視されて建てられた建物だ。

 立ち居振る舞いに野卑なにおいが見え隠れするものの、気さくで気の良さそうな若い海兵に案内され、エミルナールはクルミ材の廊下を進む。

 廊下の先に、縹色(はなだいろ)の将校の制服をぞんざいな感じに身に着けた男がぬっと立っていた。

 太い骨に鍛え上げられた筋肉。ただ静かに立っているだけで、対峙するこちらが落ち着かなくなるような威圧感。銀色の、樫の葉を象った襟章が鈍く光っている。おそらくレライアーノ公爵の護衛官だろう。どちらかと言うと町の酒場の用心棒、という雰囲気だが。

 男は鳶色の瞳を軽くすがめ、無遠慮にエミルナールを眺める。その値踏みするような視線に、さすがにエミルナールはややむっとした。

 男は不意に目を落とし、何故か小さな息をついた。気の毒がっているような落胆したような表情が一瞬、頬をかすめた。が、すぐ彼は真顔にかえった。

「はじめまして、秘書官殿」

 男は低めの静かな声で挨拶をする。

「俺はクルサテのタイスンを祖とする者で、名をマイノール・タイスンという。只今はレライアーノ公爵の正護衛官を務めさせてもらっている。以後よろしく」

 ずいぶん端折ってはいるが、一応は名乗りの作法に則った挨拶と自己紹介だ。ああ、あの……と心でつぶやきかけ、あわてて抑え込む。エミルナールは緊張気味に、挨拶と自己紹介をする。

「ラクレイド西部・ウエンリィのクリークスに古くより住まうコーリンを祖とするサリエールの息子、エミルナール・コーリンと申します。王命により、本日よりレライアーノ公爵閣下の秘書官を務めさせていただくこととなりました。以後よろしくお願い致します」

 ふうっと男……タイスンはため息をつき、がりがりと頭をかいた。武官らしく短く刈り上げた鳶色の髪は(こわ)く、ツンツンと立ってたわしのようだ。

 しかし、いくら若造が相手とはいえ、これが初対面の人間にする態度かとエミルナールは呆気にとられた。呆気にとられたが、不思議とさほど不快な感じはしなかった。エミルナールはふと、昔飼っていた大型犬のたたずまいを思い出した。おそらくタイスンは、無造作にこういう無作法な態度をとるがまったく悪気はない、のびのび育った獣のような男なのだろうとエミルナールは感じた。

「コーリン」

 さっそく呼び捨てかと怯むエミルナールへ、タイスンは、複雑なものを湛えた意外にも真摯な瞳を向ける。

「聞いた話だとあんた、官吏登用試験を主席の成績で通ったらしいな」

 ああまたその話か、と、エミルナールはうんざりした。十代のうちに登用試験を、それも主席の成績で受かった者など、今まで片手でも余るほどしかいないらしい。それもクリークスのような片田舎の、小役人の息子などという身分の者は初めてということだ。王都からこちらへ来るまで、やっかみ半分の王宮官吏たちにやたら持ち上げられたり貶められたりされてきた。

 エミルナールはうっすらと笑い、言った。面倒だから、褒められてもけなされてもこう答えることにしている。

「あ……はあ、お陰様で。試験の時、思いがけないくらい調子が良かったものですから。この結果に、本当を言うと自分が一番驚いています。お恥ずかしい、まったくのまぐれだったんですよ」

 タイスンはきつく眉をしかめた。

「くだらない謙遜なんかするな。王宮官吏の登用試験は難関中の難関、まぐれで主席なんぞになれるか、嫌味にしか聞こえんぞ。まあ……やっかむ奴も多いだろうから、あんたがそんな態度になるのもわからなくはないがな、本当は自分でも思っていない卑屈な言葉なんかでごまかすな。あんたは間違えなく優秀だ」

 持ち上げるのでもなければ貶めるのでもない、真っ直ぐな言葉。武官とはいえ王宮官吏であるタイスンのこの言葉に、エミルナールの胸は詰まった。感動したかもしれない。

 だがな、と、タイスンの瞳が微妙にゆらぐ。

「あんたがどれほど優秀でも、レライアーノ公爵を読み解くのは官吏登用試験とは別種の難しさだ。あの男は馬鹿じゃねえし、そこそこ以上仕事も出来る。セイイール陛下の信も厚い。しかしだ、くれぐれも忠告しておくがな、あの男にありきたりの常識は求めるな。ぺらぺらとよくしゃべるが、しゃべる内容の三分の二はどうでもいい駄法螺、そのくせ三分の一はまともだから注意が必要だ。実際、聞き漏らすと大変なことになる。そこをすくい上げて円滑に仕事を進めるのが、秘書官としての腕の見せどころってやつだな」

「……はあ」

 何と答えていいのかわからず、エミルナールは目をぱちくりさせて曖昧に相槌を打つ。タイスンは続ける。

「何を考えているのかわからず混乱することもあるだろうけど、ああ見えて常にラクレイドの為を考えて行動しているのだけは確かだ。そこは信じていい。生まれだの身分だのに捉われないで、仕事の出来る部下を大事にする上官なのも確かだ。おためごかしやお追従は通用しないし、むしろ嫌われる。言いたいことは率直に言った方がいい。つまりはそういう上官だ」

 なんだかエミルナールは背筋がぞわぞわしてきた。一体どんな方なんだ、レライアーノ公爵とは。とんでもない方に仕えることになってしまったらしい。

 またそれとは別に、この護衛官がレライアーノ公爵に対してずいぶんと精神的に近しいのも、はっきり言って気持ちが悪い。『あの男』だの『馬鹿じゃねえ』だの、畏くも現王の、腹違いとはいえ弟君であらせられる公爵閣下に対して使うべき言葉ではあるまい。

 官吏たちから薄笑いまじりに聞かされた、ある怪しげな噂が胸によみがえる。

(やはり……そう、なのか?)

 だからと言ってエミルナールの関知することではないが。

 言うだけ言うとタイスンはようやくきびすを返し、その少し先にある扉へと進む。扉を叩き、ややあって開ける。

「閣下。新しい秘書官が着任しました」

 うん、と、ああ、の間くらいの、いい加減な返事が聞こえてきた。大きく息をつき、エミルナールは扉をくぐった。


 扉をくぐり、将軍執務室へ一歩入ったところでエミルナールはポカンとした。目の前の状況が、上手く理解できなかったのだ。

 扉から入って正面、分厚いガラスのはまった明かり取りの窓を背に、大きな執務机の前に座っている青年がいる。

 鮮やかな青の、高襟の軍服は指揮官のもの。肩章と襟章は最高位を示す黄金色。

 武官のタイスンと変わらないくらい短く刈り上げた髪は漆黒。

 父君であらせられる先王スタニエール陛下の面差しを、三人のお子様の中で一番引き継いでいるという噂にたがわない、いかにもラクレイド王家の血を思わせる怜悧な感じに整った面ざし。

 太い漆黒の眉の下には、黒かと見まごう濃い紫色の瞳。

(漆黒の髪に菫色の瞳。そういえばレライアーノ公爵は、海の女神のいとし子、なんて歌われていたっけ?)

 レーンから来られたご側室がかの方の母君だとか、なるほど、髪と瞳は母君譲り……って、そんなことはどうでもいい!

「おい」

 あきれたようなタイスンの声がエミルナールの気持ちを代弁してくれる。

「いい加減にしろよ。まだ紙細工遊びやってんのか?いくら今日は余裕がある日だからって、まっ昼間から堂々と遊んでんじゃねえよ。新任秘書官が目ェむいてるぞ」

 そう、将軍執務室の机は今、薄い紙やら竹ひご、はさみやナイフや糊だのという工作遊びに熱中している子供の机のようになっている。

「そう言うけどねえ、これが結構、奥が深いんだよ」

 竹ひごに紙を貼って作った鳥の羽を模した形の細工を、ひどく真剣な目で見ながら彼は答える。声そのものはセイイール陛下とよく似た、音楽的なまでに響きのいい声だ。

「羽を大きくすれば空中に浮きやすくなるんだけど、速度が出なくなる。速度のことばかり考えたら浮きにくくなってすぐ落ちる。兼ね合いが難しいんだよね」

 タイスンはため息をつく。

「あっそ。まあそうかもしれないけどだな、着任の挨拶に来たあんたの秘書官と、ちゃんと目ェくらい合わしたらどうだ?」

 ああ、と彼はやっと顔を上げ、きちんとエミルナールを見た。

 その瞬間、彼の瞳が鋭く光った。謁見の間でのセイイール陛下の眼光を思い出す。エミルナールは思わず唾を呑み込んだ。

 しかしそれはほんの一瞬だった。不意にレライアーノ公爵は、くしゃっと破顔した。笑うと一気に幼くなる感じで、エミルナールは驚いた。夏に十八になったばかりのエミルナールと同じくらいにしか見えない。

「よろしく。まあちょっとずつ慣れていっておくれ」

「あ……は……」

 大事なことを思い出し、エミルナールはその場であわてて片膝をつき、頭を下げる。

 この国では、貴人に仕えるように命じられた官吏は『就任の誓いの挨拶』という一種の儀式をするのが決まりだ。練習してきた口上を思い出しながら、エミルナールは声を張る。

「アイオール・デュ・ラクレイノ・レライアーノ公爵閣下。私エミルナール・コーリンは王命により、あなたの秘書官を務めることとなりました。以後私はあなたに従い……」

「はいはい、わかった。以後よろしく!」

 エミルナールの口上を叩き潰すように、レライアーノ公爵の声が響いた。エミルナールは非礼も忘れ、ポカンと、やたらと美しく整った公爵の顔を見た。

 レライアーノ公爵はいたずらっ子のような目でにやっと笑う。

「君が私の秘書官になったのはわかった。優秀な人材だとも聞いている。まあ頑張ってくれ。御覧の通り、私はいい加減な男だ。いくら王命でも、こんな男に忠誠を誓っているのが馬鹿らしくなるかもしれないだろう?誓いの言葉はもう少し経って、本当に誓いたくなってからでいいよ」

「あ?は?……え?」

 どう解釈していいかわからず、エミルナールは混乱した。

 エミルナールが哀れになったのか、タイスンが口を添える。

「おいおい閣下様よ。相手は真面目に形式踏んでるんだから、ちゃんと真面目に形式通り答えてやれよ」

 閣下に様をつけるな、とタイスンを窘めた後、公爵は人が悪そうに笑む。

「しかし、誓いの言葉というのはそもそも重いものだよ。違うか?」

「あのなあ。『就任の誓いの挨拶』ってのは普通、形式なんだよ」

 ふうう、とわざとらしく息をつき、レライアーノ公爵は芝居じみた感じで頭を左右に振った。

「そうなのかい?……つれないねえ。じゃあお前のあの熱い誓い、あれも形式だったと言うのかい、私のマーノ」

(わわわ、わたしのまあのお?)

 ぞわ、と背が冷えた。『私のマーノ』と言ったやや鼻にかかった公爵の声は甘えているようで、いやになまめかしい。

 公爵には王子時代からの愛人がいる。

 かの方の乳兄弟で正護衛官を務めている、『荒鷲のタイスン』というふたつ名持ちがそうだ。いつもそばに張り付いているので『お側去らずのマーノ』とも呼ばれている。

 公爵が、あれだけの美男でありながら奥方以外の女性を一切近付けないのは、本当に愛しているのはマーノだけであり、マーノの方もさながら嫉妬深い夫のように、公爵に近付こうとする者は男女にかかわらず撃退するのだ……と。

 まさか、と思っていた。暇を持て余している宮廷人たちの、他愛のない噂話なのだと。

(ほ、本当にそうだったのか?)

 いやその、いくら秘書官でも上官とその護衛官の私的な関係までどうこう言う筋合いはない。まあ、執務中に目に余るほどいちゃつかれたらちょっと……いやかなり、迷惑だけど。

 エミルナールの思いを知ってか知らずか、タイスンは思い切り顔をしかめた。

「気色の悪いことを言うんじゃねえ!何が私のマーノだ、誤解を招くような言い方すんな!俺のことをそういう呼び方で呼んでいいのは、ウチのカミさんだけだっちゅうの」

 ああ、と公爵はうなずく。

「ミルフィーナ、彼女は本当に可愛らしくて健気で、まったくお前にはもったいないような素晴らしい女性だな。さすがに私の妻には負けるけど」

 お約束が始まった、とでも言いたげな顔を一瞬した後、やや投げやりにタイスンは諾う。

「はいはい。マリアーナさまはお美しくてご聡明で、ウチのカミさんはかの方の足元にも及びませんよ。……どーせ、そうやって下らねえことをベラベラくっちゃべってなきゃ気が済まないんだろう?だったら愛しの奥方様の惚気でもほざいてろ。その方がよっぽど罪がねえや」

 掛け合い漫才をやっている公爵閣下とその護衛官をぼんやり見ながら、エミルナールは片膝をついた姿勢のまま硬直していた。

 途方に暮れているエミルナールにようやく気付き、公爵は再び破顔して言った。

「ああ、悪かったね、放っておいて。今日は着任の挨拶に来ただけだろう?もう上がってくれていいよ。宿舎の方でゆっくり休んで、英気を養ってくれ。明日からバリバリやってもらうから覚悟していておくれ」

「は、はい」

 あわてて立ち上がり、頭を下げた。それでは失礼致しますと言ってきびすを返した瞬間、

「あ、そうだ君、ちょっと訊きたいんだけど」

 と呼び止められたので、エミルナールはあわてて振り向く。

「いや、そんな畏まらなくていいよ、ちょっと確認したいだけだから。えーと、君……」

「コ、コーリン。エミルナール・コーリンと申します」

「ああ、そうそう。コーリン」

 にこっと、可愛らしいほど屈託のない顔で公爵は笑う。

「君、将棋は好きかな?」

「は?しょ……将棋、ですか?」

 何故唐突に将棋の話が出てくるのかはわからないが、そもそも好きかと聞かれても困る。常識として駒の動かし方くらいは知っているが、それだけだ。実際に指したのは十一、二歳の頃に、遊びで従兄と指したきりだし。

「そうか、残念だな。まあいいや、駒の動かし方は知ってるんだね?だったら明日の午後にでも、私の将棋の相手をしておくれ」

「……は?」

「実は私は将棋を指しながら、今後の方針や作戦を考えることをしているんだけどね。普段はひとりで手を研究しながら考えているんだけど、やっぱり相手がいないとつまらな……いや、発想が硬直してしまうからねえ。でも副官たちはいろいろ雑務に手を取られてて落ち着いて指せないし、タイスン護衛官は将棋にまったく興味がない。でも君は私の秘書官なんだから、私に関する仕事以外は君の業務じゃないだろう?だから雑務に手を取られることもないし、ゆっくり指せるじゃないか。頼むよ」

「へ?あ……は、はあ……わ、わかりました」

 どう解釈していいのかわからないことを言われたが、エミルナールはぼんやりそう答えて頭を下げ、扉を開けて執務室を後にした。

 扉を締め切る直前、こんな声が響いた。

「おい、真面目な若い子にイキナリあれはないだろう?彼は最近までガリガリと試験勉強ばっかりしていた子なんだぜ?俺ゃ、何の為につらい思いをしてまで王宮官吏になったんだって、泣きたくなったと思うぞ。せっかくの逸材が、辞表置いて故郷(くに)に帰っちまっても知らねえからな」

 ぼやくように諫める護衛官へ、ふふ、と公爵は含み笑う。そして彼は、別人のように冷ややかな声でこう言った。

「もしそうだったとしたら。所詮、それだけの男だったということさ」



 吟遊詩人は語る。

  かの方は潮騒のごとし。潮と共に吹き抜ける

  南洋の熱き風。

  かの方は潮騒のごとし。ラクレイアーンに愛されし

  海の女神のいとし子なり。

  かの方は潮騒のごとし。富と恵みをこの地へもたらす

  南洋の熱き風。

  王弟 レライアーノ公爵閣下


 そしてまた、ささやき声でこうも語られている。

  かの方は潮騒のごとし。潮と共に吹き抜ける

  南洋の熱き風。

  かの方は潮騒のごとし。ラクレイアーンの面影映す

  嵐を招く熱き風。

  漆黒と紫は

  眠りしラクレイアーンの色彩(いろ)

  王弟 レライアーノ公爵閣下

  ……レクライエーンの申し子

 と。


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― 新着の感想 ―
[良い点] はっきり言って、このテの小説はニガテなAjuが意を決して読み出したら、そのままするすると小説世界に引き込まれていました。 つまり、それだけ文章力がハンパないってことだと思います。 新聞の連…
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