最終話 君に会いたい
出し物をやっている階は、基本的に人が多い。
しかし渡り廊下を渡って生徒会室がある階に行くと、途端に人がいなくなった。
目測で数えられる程度の人を視界に収めつつ、僕は沙織の肩から手を離し、彼女の手を握って歩く。
生徒会室の扉を開くと、そこには……静寂が流れていた。
誰もいない生徒会室。文化祭の喧騒が聴こえてくる校舎の中で、この部屋だけが、隔絶されているように感じた。
ひとまず僕は沙織を促して中に入り、扉を閉める。
それから辺りを見渡して、口を開いた。
「それで……えっと……スペアの眼鏡ってどこにあるの?」
「……生徒会長席の、一番下の引き出しの中です。多分、開けたら分かります」
沙織の言葉に、僕はすぐに生徒会長席に向かい、言われた引き出しを開けた。
引き出しを開けると、中にはワインレッド色の眼鏡ケースが入っていた。
ソッとそれを机に置き、慎重に開くと、中には銀縁の眼鏡が入っている。
僕はそれを摘まんで持ち上げ、沙織を見た。
「……ありましたか?」
すると、沙織が机に手をつき、少し身を乗り出しながら聞いてくる。
彼女の言葉に、僕は「あぁ、うん」と言いながら引き出しを閉め、眼鏡ケースを置く。
銀縁眼鏡を開いていると、沙織が机を迂回して僕の元までやって来て、目を細めながら僕の手元を見つめた。
「……全然見えないです」
「そりゃあ、眼鏡掛けてないからね……ホラ、掛けるからジッとしてて」
「はい」
僕の言葉に、沙織はそう答えて目を瞑った。
……やっぱり、何度見ても、綺麗な顔してるよなぁ……。
目を瞑ってジッとしている彼女を見ながら、僕はそんなことを考える。
……なんか、こうしていると、キスを待っているみたいだ。
突然湧き上がった煩悩に、一気に動揺してしまう。
と、とにかく、早く眼鏡を掛けさせてしまおう。
僕は慌てて眼鏡を持ち、沙織の耳に掛かるように前に出していく。
銀縁の眼鏡は、沙織の顔に綺麗にフィットした。
「……」
眼鏡が掛かったのを感じたのか、沙織はゆっくりと瞼を開いた。
それから、彼女はレンズ越しに顔を上げ、僕の顔を見上げた。
「……あっ……」
そこで、彼女の顔がカァッ……と赤くなる。
……今更赤くなられたら、こっちまで恥ずかしくなる。
彼女の気持ちは分かる。眼鏡を掛けていなかったせいで、僕の顔もほとんど見えず、距離感なんてまともに分からなかっただろうから。
でも、だからって、ようやく慣れてきた頃だったのにそんな可愛い反応されたら……我慢出来なくなるじゃないか。
「あ、えっと……本当に、ありがとうございま……」
「待って」
ゆっくりと後ろに下がって、距離を取ろうとする沙織の肩を、僕は掴んだ。
すると、彼女の動きが、その場で停止する。
静かな生徒会室で、僕達は見つめ合う。
窓から差し込む日の光を感じながら、僕は続けた。
「……キス……しない……?」
「ッ……」
僕の言葉に、沙織は目を丸くして固まった。
数秒の静寂が、やけに長く感じた。
やがて、レンズ越しに僕を見ていた瞳は白い瞼の奥に消える。
……沙織は何もしない。
目を瞑り、ジッと、僕に顔を向けていた。
……確認の言葉なんていらない。
細い腰に腕を回し、距離を詰める。
華奢な体は、抵抗しなかった。
僕の腕に身を委ね、次に起きる行為を待っているように思えた。
白い頬を撫で、顔を僕の正面に向かせる。
腰に回した腕に力を込め、距離を近づけ、目を瞑り、そして――キスをした。
唇に柔らかい何かが触れる感覚と、鼻孔をくすぐる何やら良い香りが交錯して、僕の胸をかき乱す。
初めてのキスは、甘い刺激を僕の脳に伝え……――……あれ……?
ピキッ……と、脳裏の奥の何かに、ヒビが入ったような感覚があった。
僕はゆっくりと唇を離し、間近で沙織の顔を見た。
彼女は瞼をゆっくりと開き、眼鏡のレンズ越しに僕を見つめる。
その目には、どこか悲壮な色が滲んでいた。
こうして見つめ合って、改めて思う……矛盾点。
僕と沙織は前にも……キスしたことがあるじゃないか。
一瞬の矛盾に気付いた瞬間、頭の中で、何かが弾けた。
途端に、様々な記憶が蘇る。
走馬燈のようにその光景は脳内を巡り、僕の脳髄を溶かし、ぐちゃぐちゃにかき混ぜていくような感覚があった。
液状化した記憶は混ざり合い、絡み合い……一つの線として繋がる。
「……思い……出した……」
ツー……と、僕の頬を、一筋の雫が伝った。
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人の脳味噌は、忘れるように設計されているらしい。
生命の維持に必要ないものは、どんどん忘れていくように出来ているんだって。
まぁ、理由は分かる。
見聞きしたあらゆることが忘れられなくなり、日夜洪水のように頭に溢れだしたら……考えるだけでもおぞましい。
しかし、人には誰しも、どうしても忘れたくない記憶というものはある。
初恋の記憶だとか、成功の記憶だとか……大切な友達との、大切な日々の記憶、だとか。
……その友達に、命を救ってもらった記憶、だとか。
林原葉月。
なんで彼女のことを全て忘れていたのかも分からない。
でも……彼女のことは、忘れてはいけなかった。
僕達にとって、彼女は命の恩人であり、大切な友達だから。
……いや、葉月のことだけではない。
葉月と、蜜柑との四人で、魔法少女として戦った日々のことは全て、忘れてはならない大切な記憶だ。
この世界に、死んだはずの僕と、沙織と蜜柑がいて……彼女がいない時点で、嫌でも察してしまう。
彼女が自分の身を犠牲にして、僕達を救ってくれたのだ、と。
……けど、なぜか、死んではいないと思う。
根拠なんて無いけど……そんな気がする。
今頃どこかで生きていて、案外平然として生きているんじゃないかって、思うんだ。
なんだかんだで、彼女は僕と違って、器用だから。
死ぬなんて不器用な真似、きっとしていないよ。
葉月の幼馴染の若菜ちゃんもいないし、二人でどこかで楽しく暮らしているんじゃないかな。
「お待たせしました」
早朝の学校の、とある一角。
扉に凭れてそんなことを考えていた時、沙織がこちらに駆け寄ってくるのが見えた。
彼女の言葉に、僕は扉から離れ、口を開く。
「鍵……借りられたの?」
「えぇ、なんとか。……生徒会長権限で、かなり強引に、ですけど」
そう言って悪戯っぽくはにかむ沙織に、僕は「悪い子だなぁ」と笑う。
彼女はすぐに鍵を取り出し、扉の鍵穴に差し込んだ。
カチャリ、と小気味良い音を立てて、鍵が開く。
ドアノブを回して扉を開けると、外の風が、僕の顔に吹きつけた。
ここは屋上。
普段は一般生徒の出入りは禁止されており、近付く人もいないような場所。
吹きつける風は冷たくて、制服を貫いて肌を突き刺しているような感覚があった。
寒さに身震いしていた時、左手が優しく握られる。
相手は……見なくても分かる。
「……ありがとう」
短くお礼を言って、僕は右手に持っていた花束を、ソッと屋上の地面に置いた。
包装紙によって巻かれた、八本の、桃色の薔薇。
選んだのは、沙織だ。
桃色の薔薇には、西洋の花言葉で、感謝の意味があるらしい。
そして八本という数には、「あなたの思いやり、励ましに感謝します」という意味があるんだとか。
……こんなことしても、意味なんて無いことは分かっている。
しかし、これが葉月に感謝を伝える為の、僕達に出来る唯一の方法だと思った。
彼女がどこにいるのかも分からないし、僕達のことなんて見ていないかもしれないけど。
もう……彼女に会うことは、出来ないと思うから。
こんなことくらいしか、僕達には出来ないから。
「……もうしばらく、ここにいましょうか」
静かに言う沙織に、僕は頷く。
その拍子に、目から数滴の雫が落ち、地面に染みを作った。
沙織も、僕の隣に寄り添いながら、静かに涙を流した。
僕達は、涙が涸れるその時まで、屋上に居続けた。
……葉月。
今、どこで何をしているのかは分からない。
けど、これだけは伝えさせて欲しい。
僕は君に出会えて、救われたと。
君がいなければ、異世界でも、この世界でも、僕は沙織と付き合うことなんて出来なかった。
君に出会えて、僕達は本当に幸せでした、と。
……また……君に会いたいよ……と。
翌日、屋上に置いてあった花束は無くなっていた。
どこに行ったのかは……神のみぞ知る。
というわけで、明日香と沙織編はこれにて完結とさせて頂きます。
今までお付き合いいただきありがとうございました!
この二人のカップリングは、実は葉月×若菜より先に決まっていたカップリングでした。
人物設定を作った順番が明日香→沙織→蜜柑→葉月の順番だったのと、葉月ちゃんの設定を考えている最中に葉月×若菜のカップリングを思いついたことが主な原因です。
ですのでこの二人は、個人的には、この小説の初期からずっと支えてくれた、云わば大黒柱のような存在だと思っています。
さてさて、皆さんお気づきかと思いますが、この最終話でちょうど年内最後の更新となります。
一月末から書いてきたので、約一年間になりますね。
投稿初期から読んで下さっている方々も、つい先日読んで下さった方々も、本当に一年間ありがとうございました。
次回からは、ついに最後の番外編となります。
それでは、今後もよろしくお願いします。
皆様、よいお年を!




