第205話 切り捨てる覚悟
ポタ……ポタ……。
歩く度に、手の甲から垂れた雫が、廊下に染みを作る。
高級そうな絨毯も、綺麗な大理石の床も、すでに見慣れてしまった。
もしかしたら、私の中の金銭感覚が歪んでしまったのかもしれない。
そのような高級そうな物を血で汚しても、一切罪悪感は湧いてこなかった。
「……若菜……」
痛みで朦朧とする意識の中で、私は愛しの幼馴染の名を呼ぶ。
回復魔法を使えば良いのかもしれないけど、痛みのせいで意識も記憶も混濁し、上手く詠唱が思い出せない。
覚束ない足取りで、私はアルトームの御神体がある部屋に向かった。
「はーちゃん! 大丈夫!?」
その部屋の近くに行くと、若菜が血相を変えて駆け寄って来た。
彼女の顔を見た瞬間、安堵からか力が抜け、私はその場にへたり込んだ。
薙刀が渇いた音を立てながら、近くに転がる。
「だ、大丈夫……じゃないかも……」
「もう……」
私の言葉に、若菜は困ったような笑みで言う。
それから私の怪我した手の甲を取り、ソッと胸に抱く。
「林の生命よ。我に従い、この者の痛みを取り払い給え。ペインヒーリング」
若菜がそう言った瞬間、手の甲の傷が一気に癒える。
痛みも引き、ようやく意識がハッキリしてきた。
私は手を何度か握ったり開いたりして、傷が治ったのを確認する。
「ありがとう、若菜」
「フフッ、気にしないで」
「あの……葉月」
若菜にお礼を言った時、沙織が声を掛けてきた。
それに視線を向け、「何?」と聞き返す。
すると、彼女は口を開いた。
「一応、トネールさん……加藤さん? から、事情は聞きました」
「そ、そうなんだ……」
「……今回の作戦の決行……私は賛成できません」
眼鏡の位置を正しながら言う沙織に、私は「え?」と聞き返す。
すると、彼女はレンズ越しに、冷たい眼差しで私を見た。
「え? ではなく……これは葉月の気持ちや加藤さんのことを考慮した上での判断です」
「ど、どういう意味?」
「アルトームの御神体を破壊すれば、確かに私達は魔力を取り込まれず、少なくとも死ぬことは無いでしょう。加藤さんには魔法の知識がありますから、日本への転移魔法陣を描くことも出来るでしょうし」
そう言いながら、確認するように若菜を見る。
若菜は少し驚いた表情をしたが、少しして、静かに頷いた。
すると沙織は静かに目を伏せ、もう一度私を見た。
「ですが、この作戦が全て成功して、私達が日本に帰れたとして……加藤さんはどうなるのです?」
「どう、って……それは……」
「葉月が来るまでに加藤さんに確認しましたが、世界を跨ぐほどの転移魔法は強力であるため、術者本人が転移をするのは難しいらしいです。つまり……加藤さんはこの世界に置いて行くしかない」
「えっ……」
沙織の言葉に、私は若菜を見た。
若菜は静かに目を伏せ、ドレスをキュッと握り締めていた。
「……若菜……」
「アルトームの寿命が来れば……この世界に何が起こるか分かりません。下手したら、滅ぶかもしれない。そうなった場合、加藤さんは……下手したら……」
沙織の言葉に、私は静かに口を噤む。
しかし、少しして一つの案を思い付き、私は口を開いた。
「じ、じゃあ、アルトームの御神体を破壊せずにこの世界から転移するのは? そうすれば、私達は生き残るし……若菜とは離れ離れになるけど、でも、少なくとも生きることは……」
「転移魔法はかなり大掛かりな魔法であるため、準備にもそれなりの時間がいるみたいです。その間に敵と戦わされ、アルトームに魔力を取り込まれる可能性だってゼロではありません」
「でも……」
「アルトームは神ですよ? 私達の行動に勘付いて、敵を近づけてくる可能性は高いです」
「ッ……」
沙織の言葉に、私は押し黙る。
私達が生き残るためには……若菜を犠牲にしなくちゃいけない……?
いや、若菜だけじゃない。
この世界の住人を……全員……。
分かっていたことだけど、こうして明確に突き付けられると、少し怯む。
何も言えずにいると、若菜が口を開いた。
「私は、覚悟は出来てるよ。私だって一度御神体を壊そうとしたことはあるし……一度死んでるから、怖くないよ」
「わ、かな……でも……」
「私はそれよりも、はーちゃんに生きていてほしいの。だから、はーちゃん……悩まないで」
若菜の言葉に、私は俯く。
悩むなと言われても、はいそうですかと無視できるわけがない。
思い悩んでいた時、若菜が私の肩に触れた。
「お願い……はーちゃん。生きて」
「……若菜……」
私は言葉を続けられない。
しかし、フラムさんを倒した今、もう後戻りをすることは許されない。
……若菜を切り捨てなければならないのか……? この手で……。
「……分かった……」
小さく、私は声を振り絞った。
その声が、自分の胸を締め付けたように感じた。
私の言葉に、若菜が「はーちゃん」と小さく微笑んだ。
すると、沙織は無言で私達に背を向けた。
「それじゃあ、蜜柑とギンが待っていますし、早く向かいましょう」
小さくそう言い、歩き出す。
それに付いて行こうと思った時、フラムさんからの伝言を思い出した。
私は隣を歩いていた若菜の服を小さく摘まみ、彼女の動きを止めた。
「……はーちゃん?」
「若菜……フラムさんから、伝言が……」
私の言葉に、若菜は微かにその目を丸くした。
それから、その目元を緩め、私に体を向ける。
「……何?」
「……三年間、ありがとう……って」
私の言葉に、若菜は「そっか」と言って、その目を細めた。
その目には、僅かに、涙が滲んでいた。
若菜はソッと指で涙を拭い、微笑んだ。
「伝言、ありがとう。……行こっか」
そう言って、彼女は私に手を差し出す。
彼女の言葉に、私は「うん」と頷き、その手を取った。
そして二人で……アルトームの御神体がある部屋に、踏み込んだ。




