ピンヒールを履いて何㎝
突然、強い力で手を引かれた。よそ事を考えていた雪継の意識は、はっと現実世界に引き戻される。前に視線をやれば、自分より頭一つ分以上低い位置に、小さな茶色の頭があるのが目に入る。癖のあるポニーテールが、彼女の足取りに合わせて右に左に揺れている。握りしめられた手首からは、雪継のより少し高めの体温が伝わってきていた。
なぜ、こんなことになっているのかはわからない。けれど、どうやら怒っているらしいということが、その歩き方から伝わってくる。怒った時、いつもより歩幅が大きくなって、靴音をわざと大きく鳴らすのは小さな頃からの彼女の癖だった。普段なら雪継が1歩進めば、彼女は3歩でついてくる。それが今は、彼女の1歩が雪継の1歩になっている。足音だって、低いサンダルのヒール部分を、わざと打ち付けるようにして歩いている。
(これはどうやら、相当怒っているらしい)
けれど、考えても考えてもその理由はわからなかった。
手を引かれるがまま、子どものように彼女の後をついて歩く。そうした状態が5分ほど続いたころ、不意に彼女が足を止めた。少し遅れて、雪継は彼女の隣に並ぶ。これでようやく顔が見られると思ったが、彼女が俯いているせいで髪の影になってよく見えない。仕方がない。そう思って雪継は、長い体を折りたたむようにして、無理やり彼女の顔を覗き込む。彼女は、口を真一文字に結んで、自分の足元を睨みつけていた。予想もしていなかった表情に、雪継は一瞬動きを止める。
「……行くよ」
そんな雪継を置いて、彼女はさっさと店の中へ入っていく。そこでようやく雪継は、自分が今立ち止まっていた店の名前を確認した。
「エバーシューズ」と書かれた看板がかかっている店は、その名の通り靴屋だった。
自動ドアが二人に反応して音もなく開く。中へ入ると、ひやりとした空気と「いらっしゃいませ」という女性の高い声に出迎えられた。
店の中には、色とりどりの色彩をもち、さまざまなデザインで形作られた靴たちが、所狭しと並べられていた。値段別に飾られているのだろうか。店の手前の方は、若者でも手に取りやすい価格帯の物が置かれ、奥に行くにしたがって高価な物へと移り変わっていく。彼女は、まず手前から順に、一つひとつ何かを確かめるようにじっと見て行く。その目はやけに真剣で、雪継が声をかけるのも躊躇うほどだった。
靴を真剣に見分している彼女を見ながら、雪継は首を傾げる。今日は、出かける一週間前から二人でデートの予定を立てていた。しかし、そのプランの中に靴屋に寄るという予定はなかったように思う。
(急に行きたくなったのかな?)
いや、彼女はそんな思い付きで行動するような子ではない。それに、今日のデートのプランだって二人で悩みに悩んで、行きたいところを泣く泣く削ったほどなのだ。この後だって、映画を見に行って夕飯を一緒に食べ、夜景を見るといった予定が詰まっている。一緒に出かけることが、「デート」という名目に変わってからまだ2回目。それだけにお互い今回のデートに込めた思いは強かった。普段なかなか会えない分、思いっきり楽しもうと思っていたのだ。
大学3年生である雪継と、高校2年生の花央とでは、時間は合うようで合わない。3年生になって週に三回しか大学に行かなくていいようになったとは言え、平日は花央は普通に学校がある。アルバイトをしている雪継は、平日の放課後はシフトが入ってしまっている。なら、土日があるじゃないかと言われればその通りなのだが、残念ながら土日は、花央が所属しているブラスバンド部の練習が入ってしまっている。なので、二人の予定が合うのは滅多にないことなのだ。付き合い出してから半年が経つというのに、まだ2回しかデートをしたことがないというのも、それが理由だった。
「雪継さん、どれがいいと思います?」
黙って靴を見ていた花央が、雪継の方を振り返って尋ねてくる。突然聞かれて驚きながらも、雪継はすばやく店内に置かれている靴に目を走らせる。
最初に目についたのは、白いバックストラップのついたピンヒールだった。甲の部分に小ぶりなレースでできたリボンがついていて可愛らしい。花央が今日着ている水色の細縞のワンピースにもよく合うだろう。けれど、いかんせんヒールが高いのが気になった。まだ高校生ということもあって、花央がハイヒールを履いているのを雪継は見たことがない。今日のサンダルだって、指2本分ほどのローヒールのサンダルだ。おそらく高いヒールのものを履くのは慣れていないのだろう。気になった白いピンヒールは、目測でも5㎝以上は高さがあることがわかる。その上、ヒール部分は見ているこっちが心配になってしまうほど細くて頼りなげだ。
(……これは、ないな)
次に目についたのは、すぐ目の前にあるジーンズ生地のサンダルだった。これは、ヒールが彼女が今履いている物とそう変わらない。布製なので、雨が降ってしまえば濡れて染みこんでくることが考えられるが、きちんと防水スプレーをすれば大丈夫かもしれない。
「これ、かな?」
すぐ前の棚にあるジーンズ生地のサンダルを指差す。花央は振り返るとそれを手に取ってしげしげと眺めてみる。けれど。気に入らなかったのかその顔は浮かない。
「試しに、履いてみますか?」
花央と雪継を遠巻きに見ていた店員が、花央が靴を手にしたのをきっかけに近寄ってくる。けれど、その問いかけに花央はふるふると首を横に振った。そして持っていた靴を元の場所へと戻す。
「ほかは?」
くるりと雪継の方に向き直って、花央は尋ねる。雪継はしばらく考えた末、濃い深緑色のパンプスを指さした。これは底がフラットになっていて、今履いているサンダルよりももっとヒールが低い。
指差す先を一瞥した花央は、違うと言ってかぶりを振る。
「こちらなどいかがですか?」
少し席を外していた店員が、一足の靴を手に戻ってくる。その手には、茶色のパンプスを持ってきた。甲の部分に革でできたリボンが付いているそれは、高そうだが、ヒールもほどほどの高さで申し分ない。何より、落ち着いた雰囲気が、花央によく合っていた。
(これは気に入るか……?)
期待を込めて、雪継は花央の顔を見る。けれど、花央は眉根を寄せるだけで何も言わなかった。その様子からどうやらお気に召さなかったらしいことを店員も雪継も悟る。
どうしたものか……。頭を抱えたい気分になっていると、花央は不意に歩き出した。どこへ向かうのだろうと思って見ていると、花央はある棚の前まで行って立ち止まった。その棚を見て、雪継ははっとする。それは、一番はじめに雪継が花央に似合うと思った白いピンヒールが飾られている棚だった。
(もしや……)
黙って見ていると、予想通り花央は、この店の中で最も花央の今の服装に合うであろうそのピンヒールを手に取った。上から下から、右から左から、じっくりと靴を眺めている。そうして一しきり見終わった後、花央はよし!と言って一度頷いた。
「すみません、これいただけますか?」
「え!あ、はい!もちろんです!」
「すぐ履きたいので、今履いてるのを包んでもらっていいですか?」
「はい。ありがとうございます!」
声をかけられた店員は、急いで花央のもとへと走り寄っていく。その後姿を見ながら雪継は、あちゃーと額を押さえたい気持ちになった。よりにもよってあれを選んでしまうとは。正直、想定外だった。
(あんな高い踵の靴履いて……花央歩けるのか?そもそもピンヒールなんて履いたことあるのか?)
レジへと案内されている花央の背中を見ながら思う。たしかに、あの靴はよく似合うだろう。白というのも彼女の真っ直ぐさや清潔さを表していて花央らしいと思う。何より、今日の夏らしい服装に白色の靴を合わせれば、より清涼感が増して見ている分にも涼やかな気分になるだろう。しかし、しかし、だ。似合うのと履けるかどうかは違う。これから映画も見て、ご飯も食べて、夜景も見に行ってとやることは目白押しなのだ。それを、慣れないあんな高いヒールを履いてこなせるとは思えない。
(一体急にどうしたんだ……)
疑問に満ちた目で、花央の背中を見る。けれどそんな雪継の視線には気がついていないようで、花央は清算を終えると、傍にあったスツールに腰かけながら嬉しそうにピンヒールに足を通している。
バックストラップを付け終え、無事に靴を履いた花央は、勢いよく立ち上がる。一瞬、立ち上がった勢いでぐらりと体が傾く。危ない!と思って駆け寄ろうと足を踏み出す前に、花央は両手でバランスを取って立ち止まった。それに、雪継はほっと胸を撫で下ろす。
「お待たせしました、雪継さん」
細いヒールをカツカツと鳴らしながら、花央は離れたところで待っていた雪継のもとへ歩いてくる。慣れていないのだろう。その足は小鹿のようにぷるぷると震えている。
「花央、履き替えた方が……」
いいんじゃないか?という言葉は、花央にぐいっと手を引かれたことによって喉の奥に吸い込まれた。
「ありがとうございましたー」
店員の声をバックに聞きながら、花央はぐいぐいと雪継の手を引いて店から出て行ってしまう。
カツカツと鳴るヒール。その足取りに合わせるように、さっきまで花央が履いていたサンダルが入った紙袋ががさがさと音を立てる。
「花央、ちょっと、待って」
何かに急き立てられるように歩く花央に向かって声をかける。けれど花央は、振り返ることなくただ前だけを向いて突き進んでいる。一瞬、立ち止まってしまおうかとも考えたが、すぐに思いなおしてやめた。これだけ急いで歩いているんだ。今雪継が止まってしまえば、勢いを殺しきれなかった花央は前につんのめってしまうだろう。足元は慣れないピンヒール。ひょっとすると転んでしまうかもしれない。それは避けたかった。
どこまで行くのだろう。もうとうに先ほどの靴屋は遠くなってしまった。一体どこに向かっているのか。そう雪継が考え始めた時、急に花央は歩くのを止めた。急なことで、立ち止まれなかった雪継は花央の背中にぶつかりそうになる。慌てて体に急ブレーキをかけた後、雪継は花央から少し後ろで立ち止まった。
「花央?どうかした……?」
前へ回り込みながら雪継は尋ねる。そして花央の顔を見てぎょっとした。花央は、そのアーモンド形の形の良い目を潤ませていた。ひょっとして……。そう思った雪継は、花央の足元へと視線を落とす。すると案の定、花央の足はほんのり赤くなっていた。おそらく靴擦れをしたのだろう。慣れない靴で無理に歩けばこうなるのも仕方がない。
「花央、もとの靴に履き替えよう」
そう言いながら雪継は、花央のもっている紙袋へ手を伸ばす。けれど、あと少しで持ち手に手が届くといったところで、その手は空を切った。いや!そう言いながら、花央が体ごと後ろへ引いたからだ。
「花央?」
どうしたんだ?という気持ちをこめて、雪継は花央に声をかける。すると花央は、バッと顔を上げて雪継を見た。色素の薄い茶色の目に見据えられて、雪継は思わず息を飲む。その目からは、透明な滴が次から次へと溢れるようにしてこぼれてきていた。
「いやです!何で?私が子どもだからですか?だからダメなんですか?」
「花央」
何言ってるんだ?と続けようとした言葉は、花央の涙で濡れた声によって遮られた。
「私だって、もう16歳です。もうハイヒールだって履けるし、結婚だってできる。あの女の人に負けてるところなんてないんですから!」
あの女の人。それを聞いて雪継は、先ほど喫茶店で出会った人のことを思い出した。
昼ご飯代わりに何か軽く食べようと思って二人で入った喫茶店で、彼女とはたまたま出くわした。同じ経済学部でゼミも一緒の女性。もともと茶髪よりではある花央より、いくらか明るい髪色をした彼女は、綺麗に髪を巻いて、白いワンピースを着ていた。そうだ、たしか足元は真っ赤なピンヒールだった。
『えー、水野くん妹さんいたの?』
にこやかに笑みを浮かべながら寄ってきた女性は、向かい合うようにして座っていた花央を一瞥すると言った。21歳と16歳。兄妹だと思われるのも無理はない。そう思った雪継は、笑いながらその言葉を訂正した。
『ううん。この子、僕の彼女なんだ』
そのときの彼女は、たしか信じられないものでも見るように花央と雪継を見ていた。見比べるようにして二人を見た後、彼女は女性らしい高い声で笑った。
『またまたー!そんな冗談言っちゃって。どう見ても兄妹にしか見えないよ?』
『いや、嘘じゃなくて……』
『はいはい。じゃあ、そういうことにしといてあげるから。じゃあ、また学校でねー』
雪継の言葉を冗談だと思った彼女は、ひらひらと手を振りながら店の出口の方へと歩いて行ってしまう。わざわざ追いかけて訂正するのも何だよな、と思ってその場はそれでおさめたのだが……どうやら花央は今まで気にしていたらしい。
改めて雪継は花央を見る。泣いてしまったことが恥ずかしいのか、花央は雪継からは見えないように顔を俯かせていた。涙を拭っているのだろう。その両手は忙しなく目元を擦っている。
高いヒールの靴を履いているおかげで、いつもよりも花央の頭の位置が高い。雪継は少し逡巡した後、その頭に優しく手を置いた。瞬間、花央はその手を振り払い、勢いよく顔を上げる。擦ったせいで赤くなった目元。そのすぐ上の目は、キッと雪継のことを睨みつけていた。
「子ども扱いしないでください!」
「ええー、子ども扱いじゃないんだけど」
困って頬を掻きながら言うと、花央は口を尖らせたまま「じゃあ何扱いなのよ」とむくれた声で聞いてきた。それを聞いて雪継は、空中に視線をさまよわせてしばし考える。そののち、恥ずかし気に笑いながら言った。
「恋人扱い、かな?」
雪継の言葉を聞いた瞬間、一気に花央の顔が真っ赤に染まる。驚きのあまり言葉も出てこないのか、酸素を求める魚のようにはくはくと口を開け閉めしている。
「ば!……ばかじゃないんですか」
「うーん、これでもばかではないつもりなんだけど」
困ったな、と言いながら雪継はまた頬をぽりぽりと掻く。その姿を見ながら花央は、困ったのはこっちだと心の中で思った。この男は、たまにとんでもないことをとんでもなく真面目に言ってくる。きっと、今のこれだって、そのうちの一つで深い意味なんてない。そう言い利かしながらも、顔がどんどん赤くなっていくのを止めることはできなかった。
「……あのさ、花央」
声がして、花央は恥ずかしさのあまり、俯かせていた顔を上げる。すると、すぐ目の前に雪継の顔があった。膝を折ってくれているのだろう。黒目がちな雪継の目が至近距離にある。そのことに、花央の胸はどきりと跳ねた。
「別に僕は、花央が大人だろうが子どもだろうが関係ないよ。花央が花央だから……その、好きになったんだよ」
照れているのか、最後は消え入りそうな声で言われた。けれど、その言葉はしっかり花央の耳には届いた。
「うそ!だって、ずっと私が告白してたのに、相手にしてくれなかったじゃないですか」
花央と雪継は、母親同士が仲が良くて小さな頃からずっと一緒に育った。いつでも優しくて、花央がからかわれているとすぐにかばって慰めてくれて、何でも知っている物知りで頼もしいお兄ちゃん。実の兄に向けるような感情が、いつしか異性に向けるものに変わるのは、そう遅くはなかった。それからは、ことあるごとに雪継にアピールした。それなのに雪継は、「まだ小さいから」と言って取り合わなかったのだ。ようやく本気にしてくれたのが、16歳になった去年。だというのに、大人でも子どもでもというのはおかしい。
そう思って問い詰めると、雪継はその骨ばった大きな手で口を覆い隠した。それは、雪継が照れた時にする昔からの癖だった。
「いや、さ。僕も立場とか色々あったんだよ。そんな、まだ年端もいかない子をたぶらかすようなことできないし……」
何より、母さんたちの目もあったしね。そう続けた雪継に、花央は柔らかそうな頬をぷくりと膨らませる。
「私はいつだって本気だったんですけど」
「うん、わかってるよ」
すうっと目を細めながら、雪継は言う。その笑顔は、とても愛おしそうに花央を見ていて、収まりかけていた熱が、また顔に集まってくるのを感じた。
「だから、16歳まで……結婚できる歳になるまで待とうって決めてたんだ。それまで、花央が好きでいてくれたらそのときは、ちゃんと伝えようって」
雪継の手が、花央の頬へと伸ばされる。ひんやりとした冷たい手があたって、花央は思わず肩をとび上がらせた。その様子を見ていた雪継は、やんわりと微笑む。
「だからさ、そんなに急いで大人になろうとしないでよ。……ただでさえ心配なのにさ」
ぼそりと息に紛れるようにして言われた言葉。けれど、聞き逃したりしてしまうような花央の耳ではなかった。
「私が大人になって、素敵になっちゃったら不安になっちゃいます?」
にやりとからかうような笑みを浮かべながら花央は言う。それを聞いて雪継は、参ったなと言いながら開いている方の手で頬を掻いた。花央は、答えをせかすように、頬に添えられたままの雪継の手に、自分の手を重ねる。
「……心配すぎて目を離せないかも」
「じゃあ、一生目を離さないでくださいね」
花央は、頬に触れていた雪継の手を取って、ぎゅっと握りしめる。温かな体温が、冷たい手を温めていく。互いの熱が、互いの体へ移っていくのを感じながら、雪継と花央は顔を見合わせて、そして嬉しそうに笑った。