人生の処方箋
『どんなに人と違えども、決して卑屈になるべからず』
――詠み人知らず――
少年は走っていた。
ただ走っているだけではなかった、少年は逃げていた。
夕日を受けてわずかに赤く染める白い髪。浮浪者のようなぼろぼろの服に裸足。そして、なにより特徴的なのは燃え猛る炎をそのまま封じ込めたようなオレンジ色の瞳をもっていることだ。そんな少年の走る姿は異様であり、人々の好奇心をそそらせていた。
息を弾ませながら、橋の真ん中あたりまで来たところで、後ろを振り返る。
黒スーツを着ている男たちが少年の目に映る。
「ああもう。しつこいやつらだな」
少年は前に向き直った。しかし、その視界は黒く閉ざされていた。それを認識すると同時に鼻に鈍い痛みが走った。
「うぎゃ」
「ぎゃああああ」
少年は尻餅をついた。一瞬視界がぐらついたが、それもすぐに治まった。
「変なやつ……」
思わず少年は呟いていた。
目の前には、今では誰が着るのかわからない、薄汚れた、灰色の袴と藍色の着物を着た男が、ぴょんぴょんと飛び跳ねている。その度に下駄が乾いた音を立てている。
上を見上げると、何枚もの紙がひらひらと舞っている。その一枚が少年の前に落ちてきた。それを手に取る。お札だった。
やわらかい風が少年の頬を撫でる。それと同時にお札が風に乗った。
「行くな。行かないでくれええええ!」
男は叫びながら橋の手すりから身を乗り出して、お札を掴もうと必死だが、お札はひらひらと川に一枚、二枚と、静かにその身を浮かべ流れていく。
「わ、私の金が……」
橋から身を乗り出している男を横目に、少年は、手に持っていたお札を擦り切れたポケットに押し込んで、その場から去ろうとした。
「返してくれ! 私の金を」
今にも殴りかかってきそうな表情で、少年に迫り寄る。
少年は少し戸惑った。このまま、この男の相手をするわけにもいかない。後ろからやつらが追いかけてくる。
腰を低くして、少年はすぐに走れる体勢を作った。しかし、その時には既に遅かった。
「このどけ! このガキに用があるのは俺たちなんだ」
少年を追っていた二人組みの一人が着物を着た男を蹴り飛ばした。男は橋の端まで吹っ飛んで、ぐったりとしている。それと同時に逃げようとした少年をもう一人の男が羽交い絞めにした。
「まったく。手間をかけさせやがって。なあ、睡蓮。お前いつまで俺たちから逃げるんだ?」
男は蹴り飛ばした男のことなど気にもせず、睡蓮と呼ばれた少年ににじり寄った。
「あんたらの見世物になるくらいなら、オレはここで舌を噛み切ってやる」
睡蓮はキッと男たちを睨むが、男たちは薄ら笑いを浮かべながら睡蓮を見つめている。
「どうせお前は舌を噛み切っても死ぬような体じゃないだろう。なあ」
男は内ポケットからナイフを取り出すと、ためらいもなく、睡蓮の右腕を斬りつけた。
「ぎゃぁああああ!」
睡蓮の右腕からは滝のように、鮮血が流れ落ち足元に血の海を作る。
しかし、それもほんのわずかなことでしかなかった。次第に睡蓮の出血は水道の蛇口を閉めて、水がしぼむように出血が止まっていった。それだけではない。かなり深く斬りつけられたはずの傷もきれいに消え去っていたのだ。
「ちッ。化け物め」
「だが、どうせこれだけのことをしてもすぐに血が止まるんだ。舌を噛み切っても死ぬはずないさ」
「そうだな。なあ睡蓮。俺たちも手荒いことはやめたいんだ。大人しくしてくれよ」
べそをかきながら、荒れ狂った呼吸を必死に抑えつけようとしている睡蓮に男は蹴りをいれた。
「ッ……オレは……もう、あんたらの言いなりにはならない。父ちゃんと……母ちゃんを……こ、殺したやつら……なんかに」
「へッ。お前の親は自ら望んで死んだんだ。『私たちは殺されても構わないから、睡蓮だけは見逃してください』ってな。バカな親だよ」
「こ、この野郎……」
睡蓮は今にも目の前の男に殴りかかろうとしているが、羽交い絞めにされている彼はただ、もがくことしかできなかった。
「無駄なことはやめるんだな。大人しく戻ってもらおう」
「嫌だ!」
その直後、睡蓮の瞳の中の炎が燃え猛ったかのように、オレンジの瞳が揺れた。
「ぎゃああああああああ!」
突然、目の前の男が肩を押さえてうずくまった。その手の間から血が流れ出している。そして、いつ握られた分からない、柄から刀身まで血のように真っ赤なナイフが睡蓮の右手の中にあった。
「おい! こいつを眠らせろ。アレを使い始めたぞ!」
うずくまった男が羽交い絞めしている男に向かって叫んだ。
「ちくしょう」
羽交い絞めしている男は、睡蓮を一瞬解放した後に、今度は睡蓮の右腕を脇に抱えて、肩の付け根を左手で押さえつけて、足を軽く払うと、自分の体重を利用して、地面に押し倒した。
「うわあああああ!」
今度は睡蓮の叫び声が響いた。
「ったく。よく抵抗するな。このガキは」
うずくまっていた男が、睡蓮からナイフを取り上げて、それをまじまじと見つめた。
「このナイフ……本当に良くできているよ。上山博士から聞かされてはいたが、まさか本当に自分の血液を自由に物質化できるなんてことができるなんて、信じられなかったよ。まさに、化け物だな睡蓮」
男は睡蓮が作った血の海に目をやるが、既にそれは消えており、どこにあるか分からなかった。
「オレは化け物なんかじゃない! 人間だ!」
「なら、こんなことできる人間がどこにいる。お前の瞳も同じだ。そんな瞳をしたやつ、世界のどこを探しても見つからないさ」
「それでもオレは人間だ!」
睡蓮のオレンジ色の瞳は男を捕らえて、離さなかった。
「やれやれ、なにやら、物騒ですな」
この場にはひどく場違いで、間延びした声がする。みんながその声の方を向く。そこには先ほど蹴り飛ばされた男が頭を掻きながら近づいてきた。
「なんだ、手前はどっかに行きやがれ」
「穏やかじゃないね。実は私もこの坊やに用があるんだ。どんな事情があるのかは知らないが、とりあえず、ここは手を引いてくれないかな」
「うるせえ! 手前がどっかに行きやがれ」
男は睡蓮を刺したナイフを構えて、男に突進する。
「やれやれ、分からず屋だなあ」
男が呆れたため息をついたかと思うと、次の瞬間には男が宙に飛んでいた。数秒後にはどぼんと男が川に落ちた音が響いた。
睡蓮には何が起こったのか分からなかった。
それは、睡蓮を押さえつけている男にも、同じことが言えたようで、睡蓮から離れると同時に、情けない叫び声をあげながら来た道を駆け戻っていった。
「全く、なんなんだあいつらは……。そんなことより、坊や。さっきの金。君の右ポケットに入っているのはわかっているから、返してもらえないかな」
先ほどの調子の変わらない、間の伸びた声だが、睡蓮は立ち上がって、素直にポケットからお札をだして、彼の手の中に押し込んだ。
「別に助けてくれとは言ってないぞ」
「ああ、坊やを助けたとは思ってないさ。坊やが私にぶつかったせいで、私の生活費の大半はあの川の中に消えていったんだ。この責任はとってもらわないと」
男はにやりと目を細めて笑った。睡蓮は一歩後ずさりした。背中には橋の手すりの感触がする。
「なに、何も坊やを食べようとは思わないよ。けど、お腹も空いたし、どこかに食べに行こう。君には色々聞きたいこともあるしね」
男はついて来いと仕草をしてから、何事もなかったように歩いていく。睡蓮はこのまま逃げようかと考えたが、その考えを取り消して、男のあとに黙ってついて行った。
※
「さて、まずは自己紹介かな。名前は?」
男は睡蓮を蕎麦屋に連れ込むと勝手に二人分の蕎麦を注文すると、聞いてきた。
「オレは睡蓮。あんたは」
「私か。私は……」
「あいっ。ざる蕎麦二つお待ち!」
「はい、どうもー」
男は二つの蕎麦を受け取ると、すぐに割り箸を割って、食べ始めた。睡蓮もその様子を見ながら、割り箸を割った。
パキッ
男はその音に反応したのか、口に蕎麦をほおばりながら、睡蓮を睨みつけた。
「ふぉい」
「なに」
睡蓮も負けじと睨み返す。男はごくりと喉を上下させた。
「この蕎麦は私のだ。目の前にあるからって、坊やのじゃないぞ。私が食べるものだ」
「奢ってくれるんじゃないのか」
「何を言う。私の金は君がほとんど川に落としてしまったではないか。食べたければ自分の金で食べればいい」
盛大に蕎麦をすする音が店を支配する。睡蓮は割り箸を強く握り締めると、真っ二つに割れた。それをテーブルに放って席を立った。
「すぐに食べ終わるから、ちょっと待って」
男に強く袖を引っ張られて、睡蓮は椅子に戻された。
男は二つ目の蕎麦にとりかかりながらぽつりと呟いた。
「どんなに人と違えども、決して卑屈になるべからず」
「なんだよそれ」
「なんでも……ない。それより……睡蓮だったっけ。な……んで、あの男たちに……追われて……いたんだい」
「あんた、食べながら話すの行儀悪いよ」
「意外と……礼儀にはうるさいようだな」
男はそう言いながらも最後の一口を腹の中に収めて、爪楊枝を取った。
「それで、なんで追われていたんだ」
睡蓮はなにも言わずに自分の茜色の瞳を指差した。
「やっぱり。そんな瞳している人間、珍しいもんね。でもそれだけ?」
「違う」
睡蓮はそう言うとポケットから中指くらいの大きさのカッターの刃のようなものをとりだした。
「これがどうかしたの。って! なにやってんの!」
その刃をなんのためらいもなく、睡蓮は右手の親指の腹を深めに傷つけた。
血が溢れ出て、テーブルの上に血が溜まっていく。しかし、先ほどと同じように血はすぐに止まって、傷も消えていた。
「これは……驚いた。どうしてこんなことが?」
「オレが二歳の時に、母ちゃんが間違って包丁を落としたんだ。その時オレがその下にいて、首を切って、今でも傷は消えていないけど、血はすぐに止まったって言うことを父ちゃんから聞いた。その証拠に、ほら」
睡蓮は左に首をかしげてみせると、そこには傷跡がある。
「でもそれだけじゃない。むしろやつらが狙っているのはこっちだ」
睡蓮のオレンジ色の瞳が揺れたかと思うと、テーブルの上に溜まっていたところには、小さくて、真紅の球体があった。
「オレは、自分の血液を自由に物質化できるんだ。これも首を切った時に、血が流れて、溜まったはずのところに汽車のおもちゃが転がっていたって、聞かされている」
男はそれを手にとって、まじまじと見つめている。
「それはまた……それで、睡蓮を追っていた男たちは何者なんだ?」
「施設の人間だ。オレが施設から脱走したから、追ってきたんだ」
「施設ってのはなんだい」
「よくは分からないけれど、オレが二年前に連れ込まれたところ」
「連れ込まれた? 親にか」
「違う! やつらにだ。父ちゃんと母ちゃんはその時に……」
睡蓮は下を向いて何もしゃべらなくなった。
「ごめん……出ようか。おじさん勘定ここに置いておくから」
男は睡蓮の手を引っ張って、店を出て行った。
外は既に真ん丸の月が空高く浮かんでいて、切り裂くような冷たい風が二人を襲う。
「オレ……その施設で色々なことをされたんだ。なんでこんなに速く血が止まるのか、傷が残らないのかって調べるために何度も……何度も身体を切られたり、この……瞳も何か関係があるのかって調べられたり……変な薬を飲まされたり……」
ぽつりぽつりと語る睡蓮を男はそっと頭をなでた。
「睡蓮、もうしゃべらなくていい」
どれくらいの時が経ったのか分からない。男は睡蓮の頭を優しく撫でていた。そのことに睡蓮も抵抗しなかった。
「なあ。今日はどこか泊まるあてはあるのかい」
睡蓮は首を横に振った。
「ならうちに来るといい」
男は睡蓮の手を引いて、また歩き出した。
※
「さあ着いたぞ」
「ここが、あんたの家?」
「ああ。どうした何か文句あるのか」
男が、睡蓮の手を引いて導いた先は二人が出会った橋よりも上流の町外れに架かっている橋の下だった。
そこには、寝袋らしきぼろきれと、少し大きめの手提げと、壁にはプラカードのようなものが立てかけられている。
「あんた、ホームレスだったのか」
「違う。私は……」
男はプラカードらしきものを取って、月明かりの下に立った。カードに書かれている文字が月明かりに照らされる。
「何でもやります。便利屋の咲夜……なにこれ?」
「私の仕事だ」
「看板を持って立つことが?」
「違う! 私が便利屋だ。断じて、看板持ちではない」
「じゃあ、咲夜ってのは」
「私の名前だ。良い名だろう」
「はあ……」
咲夜はプラカードを立てかけなおした。
「まあ、今日はここで寝るがいい。私もしばらくこの町で仕事をしようと思っていたところだ。睡蓮がこれからどうするか決めるまで、ここにいても構わないしな。ほら、これ貸してやるよ」
咲夜はぼろきれを睡蓮に投げた。
「ありがとう」
「なに、一泊千円で勘弁しよう」
「ふざけんな!」
睡蓮はぼろきれを咲夜に投げ返した。
「冗談だ。本気にするな」
咲夜は再び睡蓮にぼろきれを投げ返した。
「今夜くらいなら、やつらに見つかることもないさ」
咲夜は自分のぼろきれに包まって、地面に寝転がった。
睡蓮も咲夜に倣って、地面に寝転がった。
「おやすみ睡蓮」
その間伸びした声に誘われるように睡蓮は眠りについた。
※
睡蓮は夢をみた。
両親と楽しくピクニックに行ったこと。
誕生日に両親が祝ってくれたこと。
とにかく、みんなで笑い合っていたこと。
幸せだと感じている場面から突然、一転した。
黒スーツの男が家に押しかけてきたこと。
両親から引き離されたこと。
両親が殺された瞬間。
それから、施設に運ばれたこと。
その施設で受けた数々の屈辱。
睡蓮の人生が走馬灯のように駆け巡る。
その走馬灯がある場面でゆっくりと再生される。
「睡蓮逃げてくれ。俺に構うな!」
「で、でもそれじゃああんたが……」
「構うな! 俺はなんとかする」
「でも……」
「睡蓮! 頼む。逃げてくれ」
「手塚さん!」
「いいか。必ず逃げるんだぞ。君をひどい目に合わせて本当にすまなく思う。だから、必ず逃げてくれ」
「手塚さん! 手塚さんも必ず逃げて」
「わかっている。必ず逃げる。だから睡蓮も必ず逃げてくれ」
「手塚さん!」
黄ばんだ白衣をいつも着て、タバコをいつもくわえていた、手塚さん。
オレの食事の時間になると、いつもやって来て、面白い話をしてくれた手塚さん。
あの施設で唯一、オレの味方だった人。
いつか必ず、ここから出すと約束してくれた人。
逃げたら、一緒に暮らそうと約束してくれた人。
そして、約束通り、逃がしてくれた人。
途中までは一緒に逃げていたのに……
手塚さんはちゃんと逃げ切れたのだろうか……
睡蓮は喉の乾きから、目を覚ました。
喉はからからに渇いていた。
「目が覚めたか」
睡蓮が身体を起こすと、目の前には咲夜がいた。
「うなされたが大丈夫か」
「ああ。なんでもない」
「しかし、よく寝ていたな。もう夕方なんだが」
「夕方?」
「今日もここに泊まるか。あっと、これ新聞。大したことは載っていないけど」
咲夜は丸めた新聞を睡蓮に投げた。
「ありがとう。そういえば水ってない? 喉渇いちゃったんだけど……」
「なら少し待ってくれ。私もこれから何か飲み物を買ってこようと思ってたから、行ってくるよ。それから、着替えは出しておいたから、良かったら着るといい」
咲夜はくるりと背を向けたと思うとすぐに首だけ睡蓮の方に向けた。
「そうだ。喉が渇いているからって、川の水は飲まない方が良いぞ。腹を壊す」
それだけ言うと咲夜は土手を登って行った。
睡蓮は新聞を手に持ったままその場に胡坐をかいた。すると、隣に服が綺麗に折りたたまれていた。
「これか……」
睡蓮はそれを手にとって、広げてみる。
「汚い……」
睡蓮が広げたものは黒く薄汚れた、クリーム色の着物と紺袴だった。
睡蓮は自分の着ているものと持っているものを見比べた。睡蓮の着ているものは、長い間洗わずに着続けていて、かなり、黄ばんでいたし、穴が開いていたり、生地が裂けたりしていた。
しばらく考えてから、睡蓮は辺りを見回してから、服を脱ぎ始めて、着物に袖を通した。少し、袖が余ったが気にしなかった。
着替え終わると、睡蓮は新聞を開いた。。むさぼるように、新聞を読む睡蓮の目にある小さな記事が目に入った。
「酔っ払いが川で溺死……手塚 悠里ってまさか……」
睡蓮はその記事をゆっくりと読む。
もう一度読む。
そしてもう一度読む。
記事の隅に小さな顔写真が載せられている。そこには、よく見知っている人の顔だった。
睡蓮は新聞を握り締めた。
「嘘だ!」
睡蓮は新聞を壁に叩きつけた。
「どうした睡蓮」
間の伸びた声。咲夜が水のたっぷり入っているボトルを両手に持っている。
「なんでも……ない」
「なんでもないんじゃないのか」
睡蓮は咲夜の脇を通り抜けようとしたのを細長い腕で阻止した。
「少なくともあんたには関係ないことだ」
「そうかな。私は君にお金をなくされた。それだけじゃない、君を助けて、一晩この場所に泊めてあげた。これでも、関係がないと言い切れるのかな」
咲夜は持っていたボトルを地面に置いて、睡蓮の前に立った。
「それでも……オレは行かなきゃいけないんだ」
「どこにだい」
「施設」
「睡蓮は施設から逃げてきたのではないのか。ならなぜ戻るようなことをする」
「戻らなきゃいけないんだ!」
「なぜだ」
「新聞に、新聞に手塚さんが……手塚さんが死んだって……でも実際は違う! 手塚さんは下戸なんだ。なのに酔っ払って、河で溺れて死ぬなんてあるはずないのに……だから、殺されたんだ! 父さんや母さんの時のように、オレが逃げるのを助けたから。オレに関わったから、手塚さんは……」
「よ、よくわからないが、手塚さんは睡蓮が逃げるのを手伝ったから殺されたと思うのかい」
「ああ。だから、行かなきゃいけないんだ。あの場所に」
「行ってどうするんだ。その手塚さんは睡蓮に逃げ延びてほしいと願って、君が逃げるのを手伝ったのではないのか」
「そうだけれど……でも許せない! こんなこと許せない!」
「睡蓮! 落ち着くんだ。ここで、施設に行ってなにができる」
「ぶっ壊す……いや、あんなやつらぶっ殺してやる! オレを……オレを散々な目に合わせて、手塚さんにまで手を出したんだ。あんなやつらオレがぶっ殺してやる!」
「落ち着け睡蓮! 一人でなにができる。憎しみで何ができる。今は逃げるんだ。君が施設に行って、また捕まったら、手塚さんの死はどうなるんだ。ただの無駄死にになるんだぞ」
「うるさい!」
「睡蓮、逃げよう。私も一緒に行く」
咲夜は看板を背中に背負った。
「ほら、これ持って逃げよう」
咲夜は睡蓮に水の入ったボトルと、手提げを持たせた。
「幸い、もう夕暮れの時間だ。場所さえ選べば、闇に紛れて逃げれる」
咲夜はいそいそと土手に向かう。その後ろでどさりという物音がした。
咲夜は反射的に振り返る。それと同時に何かが自分を通り過ぎたのを感じた。
「睡蓮! 待て!」
咲夜が前に向き直った時には既に、手ぶらの睡蓮は土手を登りきっていて、川の下流に向かって走っていた。
「睡蓮! 止まるんだ!」
咲夜の声が睡蓮を引き止めることはなかった。
※
その頃。睡蓮を収容していた施設の長。上山博士は苛立っていた。
上山は葉巻に火をつけて、部屋にいる黒スーツの男を見た。
「まだ、やつは見つからないのか」
「申し訳ありません。ただ今、全力で捜索中であります。今しばらくお待ちを」
「くどい! 貴様たちはそのセリフを昨日から何回繰り返しているのだ!」
「申し訳ありません!」
「謝れば済む問題ではない。手塚が睡蓮のことを不憫に思っていたことは知っていたが、まさか逃亡に手を貸すとはな……おい。手塚の処理は終わっているのだろうな」
「はい。手塚の方は昨夜の間に終わっております。夕刊で小さく記事になりましたが、酔っ払って、川に落ちて溺れたことになっております」
「ふん……馬鹿なやつめ」
上山は大きく煙を吐き出した。
「所長。ただ今、下からの報告で睡蓮が現れたとの情報がありました」
扉からノックもせずに入ってきた男を上山は叱ろうとしたが、すぐに止めた。
「そうか、こちらから探さずとも向こうからやってきたか。直ちに保護して、私のところまで連れて来い。どうした? 顔色が随分悪いようだが」
「そ、それが、向こうは武器を所持しており、保護に時間がかかっておりまして……もう、演習場につながる通路まで、入り込んでおりまして……」
「なにをやっている。演習場といったら、ここまで、すぐではないか。ここで暴れられたら、今までの研究資料などがすべて駄目になる。すぐに機動隊を投入しろ。睡蓮の捜索に機動隊を使っているが、今ここに残っている、機動隊は何人いるんだ」
「四人であります」
「四人か。まあ、それだけいればあいつを捕まえるには十分だな。よし、私もすぐに行く。演習場に機動隊を待機させておけ。私もすぐに行く」
上山は男を追い返すと、葉巻の火を消して、机の引き出しを開けた。そこには一丁の拳銃が入っていた。上山はそれをスーツの下にあるホルスターに固定した。
※
そのような出来事より少し前のこと。睡蓮は一見しただけでは体育館のように見える、施設の前に立っていた。目の前には睡蓮の倍の幅はありそうな守衛が立っている。
「通せ」
「部外者は立ち入り禁止だ。大体坊やみたいな子が来る場所でもない。もう夜なんだ、帰りたまえ」
警棒を片手に、守衛はため息をついた。
「睡蓮が帰ってきた。と、上に伝えろ」
「なぜやらなくてはいけない。帰りたまえ」
「いいからやれ!」
「偉そうな口を利きやがって。早くここから消えろ!」
守衛は警棒を振り上げた。
睡蓮は一歩後ろに下がると、懐から中指大の刃物を取り出し、自分の手首を傷つけた。
「お、おい何をやってるんだ!」
目の前で血を流している、少年を見て守衛は焦った。
「は、早く救急車を……あ、あれ?」
目の前にいる少年は血を流しているはずなのに、今は血が全く流れていない、それどころか、流れた血の跡すら残っていない。その代わり、睡蓮の手には一振りの刀が手に握られていた。
守衛がそれを確認した時にはすでに、遅かった。
睡蓮は刀の切っ先を地面と平行にして、男の身体を貫いていたのだ。
そのまま、倒れる守衛を見ながら、睡蓮は刀を引き抜いた。
「聞こえるか。睡蓮が帰ってきた。と、上に伝えろ」
睡蓮は守衛の腰に備え付けられた、トランシーバーを取り上げて、それだけ言うと、そのトランシーバーを放り投げて、門を開いて、施設の中に入っていった。
施設に入ってからの睡蓮の行動は早かった。
睡蓮の持っている刀で立ちふさがる、白衣の男を斬りつけていくのだ。
「や、やめろおお」
「全員、非難だ!」
「化け物だ。化け物が来た!」
「た、助けてくれええ!」
睡蓮の通ってきた道には悲鳴とも叫び声ともつかない声が狭い通路に埋め尽くされている。
そんなことには気にも止めずに、睡蓮は通路の突き当たりにある、両開きのドアの前に立った。扉の上には演習場とかかれたプレートが掲げられている。
睡蓮は一歩前に踏み出して、中に入っていった。
※
演習場は大きなホールのようなところで、そこには片手に上半身を隠すくらいの透明な盾と、警棒を持った、男が四人くらいいる。
「所長はどこだ」
睡蓮は男たちに向かって叫んだ。
「ここさ」
白スーツの上山は男たちの後ろにある扉から現れた。
「あんた……」
「わざわざ、戻ってきてくれるとは思わなかったよ。まったく。手塚もやっかいなことをしてくれたよ」
「手塚さんは……」
「死んだようだな」
「違う! あんたが。あんたが殺したんだ! 父さんや母さんのときのように!」
「私は、殺しておらんよ。誰一人として殺していない」
「でも、あんたが命令したんだろ!」
「そうだとしたら、君はどうするのかね」
睡蓮は深く息を吸い込んだ。
「殺す」
「殺す? 私をかね」
「ああ。あんただけじゃない。この場所を、ここにいる人間全てを殺す!」
「ただが、十四ほどの子どもになにができる」
「あんたは、知ってるだろう。これが何からできているか」
睡蓮は持っている刀を前に突き出した。
「勿論だとも。血だろう。なぜ、君にはそのようなことができるのか。是非ともその事を知りたいのだがね」
「オレはそんなこと知りたくない。知らなくて構わない! そんなことよりもオレはこの力で、あんたを殺す」
睡蓮は刀を構えて突っ込んでいく。
「やれるものならやってみればいいさ。機動隊! 発砲を許可する。やつを生け捕りにするんだ!」
上山は目の前の男たちに指示を出す。
機動隊の四人はそれぞれ、お互いの距離をとりつつ、銃を腰のホルスターから抜き放った。
睡蓮はポケットから例の刃物を取り出して、手首を傷つけた。
機動隊が、銃を構えると同時に、睡蓮の瞳が揺れた。
「うわあああああ」
睡蓮は叫んだ。
手首から流れる血は自分の身を十分に隠しきってくれる真紅の盾となり、飛んでくる銃弾をはじき返す。
「これが、やつの力か。素晴らしい!」
上山は嬉々とした表情をしながら突進してくる睡蓮を見つめていた。
「うおおおおお」
睡蓮と、上山の前で盾を構えている男とが激突した。
すかさず、睡蓮は持っていた刀で相手の横腹を貫いた。
刀から手を離して、体当たりで、相手を倒すと、そのまま、盾だけを構えて、上山に向かって突進する。
「このやろぉおお」
「無駄だ!」
上山は内ポケットに手を入れたかと思うと、拳銃が現れた。
それを確認するや否や睡蓮は盾に身を隠した。それと同時に人差し指を傷つけて、手の中に納まるくらいの刀子を生成した。
それを上山に向かって投げつける。同時に拳銃の音が響いた。
「ぎゃあ!」
上山が叫ぶ。
睡蓮が盾を投げ捨てて、左の二の腕を押さえている、上山に飛び掛る。
上山はそれを後ろに一歩下がる。しかし、睡蓮は上山のスーツの裾を掴んだ。それを力の限り引っ張る。前傾姿勢になった上山の首に睡蓮はかじり付いて、床に押し倒して、馬乗りになった。
「こいつ、離せ!」
睡蓮は上山の首を絞める。とたんに上山の表情は苦しげなものとなる。
「お、お前が、お前がいたから父ちゃんや母ちゃんや手塚さんが……」
「離せ……睡蓮」
「父ちゃんや母ちゃんや手塚さんの仇ッ!」
睡蓮は歯を食いしばって、全身の力を振り絞って、上山の首を絞めた。
しかし、それと同時に睡蓮は後ろに強く引っ張られるのを感じるのと同時に宙を飛んだ。
睡蓮は背中から、床に叩きつけられた。肺にある空気が逃げ出して、激しく咳き込む。
自分がいたところを見ると、機動隊の一人が上山を抱き起こしており、更に、もう一人が睡蓮を睨みつけている。おそらく、この男たちが引き離したのだろう。
そこまで考えたところで、こめかみに冷たい、ゴリッとした。ものが押し当てられている。
「おっと、動くな」
こめかみに強く押し付けられて、睡蓮はそちらを向くのをやめた。視界の隅っこに黒い筒のようなものが見えた。
「手間をかけさせやがって……」
上山が目を吊り上げて、左の二の腕を押さえながら、睡蓮に近づいてくる。
上山が睡蓮の目の前に立った。左手には血を滴らせている拳銃が握られている。
「ふん。機動隊を一人倒したまではよかったがな。一人でできることなんてこんなものだ」
上山は右手に拳銃を持ち替えて、睡蓮の額に押し付けた。
「手錠を」
左手で手錠を受け取ると睡蓮の両腕を後ろで拘束した。
「さて、これからどうしようかな」
睡蓮は下唇をかみながら、恨めしそうに上山を睨んで両腕の拘束を解こうとしている。
「動くな!」
上山は睡蓮の腹を蹴った。そして、睡蓮が身を少し屈めたところで、足を高く上げて、思いっきり、睡蓮の頭を踏みつけた。
「やれやれ、随分、物騒ですね」
どこかで聞いたことのある、間伸びした声が演習場に響いた。
「誰だ!」
上山は睡蓮を踏みつけるのを止め、声のする方を向いた。残りの機動隊員は振り向きながら、拳銃を構えた。
「あんた……」
そこには咲夜が橋の上で出会った時のように立っていた。
「なんだ、睡蓮の知り合いか」
「まあ、少しありましてね」
咲夜は穏やかに微笑んでいる。
「その子、睡蓮を返してはもらえませんかね」
「それは、できないな。睡蓮は大事な研究資料だ」
「それでも返してほしいのですけどね」
「なぜだ」
「今の睡蓮は心配ですからね。何をしでかすのかわかったものじゃない」
「まるで、保護者のような口ぶりだな」
「そうですね。それで、睡蓮は返してはもらえませんかね」
「ふん、お前にそんなことをする義理はない」
「なら、力ずくで返していただこう」
「そんなことはさせない! 機動隊」
三人の機動隊は咲夜に拳銃の狙いを定めようとする。
咲夜は不規則に、ジグザグに、走って、狙いをつけれないようにして、睡蓮との距離を縮めていく。
「なにを、やってる。あいつは殺しても構わん」
機動隊を叱責しながら、上山は咲夜にめがけて、引き金を引くが、咲夜に当たることはなかった。
機動隊も引き金を引くが、どの弾も咲夜にあたることはなかった。
「すばしっこいやつめ……しかし!」
上山は睡蓮のこめかみに拳銃を当てた。
「睡蓮!」
「動くな! 男。こいつを殺されたくないなら、動くな」
止まった咲夜をすぐに拳銃の狙いを定める。
「よし、そいつを撃ち殺せ」
「やめろ!」
睡蓮がもがきながら叫ぶ
「睡蓮。大丈夫さ」
両手を袖口にいれている、咲夜はいつもの調子で微笑みながら、睡蓮に言う。
男たちが、咲夜ににじり寄って、拳銃を構える。
「やめろ。止めるんだ。あんた……咲夜逃げろ! 逃げて」
「撃つんだ」
上山は男たちに言い放った。
「逃げろおおおお」
睡蓮の叫び声と拳銃の重い音が空気を震わせた。
「なに!」
上山は自分の目を疑った。いや、上山だけではない。男たちも、睡蓮もこの場にいる全ての人間が自分の目を疑った。
「嘘だろ……」
睡蓮からそんな言葉がこぼれ出た。
咲夜は生きていた。真紅の盾に身を隠して、銃弾から避けていた。
睡蓮が作った真紅の盾は、咲夜から離れたところにある。むしろ睡蓮の方が近くにいる。
「なんで、あんたが……その盾を。オレが作ったのはそっちにあるのに……」
「く、くそ。撃て! なにをぼやぼやしている。撃つんだ」
そう命じられて、男たちは呆然とした状態から引き戻されて、再び、咲夜に拳銃を向けた。
「無駄ですよ」
咲夜は盾から身を現した。手には真紅のナイフが握られている。
男たちとの距離を一足飛びで縮めると、男の腹を突き刺した。
更に、男の腹からナイフを抜くと、今度はそれを咲夜から一番離れている男に向かって、勢いよく投げ飛ばした。放たれたナイフは男の腹に命中した。
残った男は咲夜に拳銃の照準を合わせていた。そして、引き金を引く。しかし、放たれた弾はあらかじめそのことを予期していた咲夜を捕らえることはなく、逆に咲夜の鋭い手刀が男の首筋を捕らえていた。
「な、なにをやっているんだ!」
上山は倒れて、うめき声をあげている機動隊を罵った。
「さて、睡蓮を返してもらいましょう」
咲夜は袖から、睡蓮が持っている刃物と同じくらいのものを取り出すと、何の躊躇いもなく、自分の手首を傷つける。すると、流れ出ていく血が少しずつ一振りの刀を形成していく。
「それは……睡蓮と同じ能力。他にもいたのか……」
「返してもらいましょう」
形成され終わった真紅の刀の先を、上山の喉もとに向けた。
「そう、簡単に渡せるものか!」
上山は睡蓮に押し当てていた拳銃を咲夜に向けた。しかし、その直後に刀は上山の喉を貫いていた。
上山はこの世を去った。
※
「何で助けに来たんだ」
睡蓮は先を歩いている、咲夜に問いかけていた。
昨日に引き続き、月は二人の足元を照らし出していた。
「心配だったからさ」
睡蓮は返事をしなかった。
しばらく、二人は何も言葉を発さずに歩いた。
「あんたは……オレと同じなのか?」
睡蓮は呟いた。
「ああ。君と同じ、自分の血を自由に物質化できる能力を持って生まれてきた。瞳も……ほら」
咲夜は指で眼球をつまむ様な動作をした後、睡蓮に顔を見せた。そこには睡蓮と同じ、燃え猛る炎をそのまま封じ込めたようなオレンジ色の瞳があった。
「普段は黒のカラーコンタクトで隠しているんだ」
「あんたは、オレと同じ……」
「睡蓮。これからどうするんだ」
風が二人の間を走り、彼の髪を揺らす。
「オレは……」
「……なにも決まっていないならば私と一緒に旅をしないか」
「旅?」
「ああ、色々な世界を渡り歩く旅。私ももう何年も続けているがなかなか楽しいぞ」
「何のためにそんなことをしているんだ」
「そうだな……自分について考えたいからかな。自分は一体なぜ、こんな能力があるのか。なぜ、瞳の色が他人と違うのか。自分は何ができるのかって、考えたいからかな」
「自分について考える……」
「そうだ。それで、私が考えたのがあの便利屋だ。色々な人と触れ合ったり、自分のこの能力を生かすこともできることがあったりもするし……どうだろう一緒に来ないか」
「オレは……」
「どんなに人と違えども、決して卑屈になるべからず」
咲夜は歌うようにそれを唱えた。
「この前、呟いていたやつ……」
「そう。私も睡蓮も瞳の色が他の人とは違う。他人が絶対にもってないような不思議な能力もある。だから、私たちは多くの人と異なっている。でも、多くの人と違うからって、マイナスなイメージを持たなくていい。むしろ、この他人との違いを逆に利用してやるんだ。そう、私がこの言葉を聞いたときにそう思ってね。その利用の仕方を勉強するために旅にでていると考えてもいいのかもしれない」
「他人との違いを、逆に利用する……」
「そうだ。どうだろう、睡蓮。一緒に旅をしてみないか」
「そうだな……オレも探してみたい。他人との違いを、逆に利用する方法」
咲夜は笑って、睡蓮を見た。睡蓮も笑い返した。
「これから何処に行こうか」
「睡蓮の好きなところにしていいぞ。ただ、蕎麦があるところがいいな」
「これから、寒くなっていくし、南の方に行ってみたいな」
「南か……悪くないだろうな。じゃあ、早速行こうか」
咲夜はそう言うと、二人は歩き出した。
月は優しく二人の足元を照らしていた。
終




