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お狐さま、働かない。  作者: きー子
千年因果録
87/94

八十七話/竜殺し・序

 ――竜の吐息が空より落ちる。


 迎え撃つは重ね合わせの二枚障壁。

 クラリスのそれは鮮やかな円弧を描く弓なりの障壁であるのに対し、アルフィーナのそれは正六角形の薄片を無数に重ね合わせたようなものだった。


「ッ、駄目です、止められなッ……!」

「――――問題ありません」


 蒼い炎の嵐を浴びせられ、アルフィーナの障壁は無残に砕け散る。が、破壊された端からそれはすぐに再構成を開始する。

 時間経過につれてクラリスの障壁も限界を迎えるが、アルフィーナのそれは砕け散ったクラリスの障壁をも取り込んでいく。


 嵐のような猛火が過ぎ去ったあと、三人は一人も欠けることなく無事だった。

 

「Gu――――lulululu....」


 魔王イブリスは地上に金色の虹彩を向け、唸る。

 その目に理性の色はない。外敵を排除するという本能のみが彼女の巨躯を動かしている。


「……止められるかい?」

「やってみます。クラリスさん、引き続き守りを頼みます」

「私だけではとても止められないですよ……!?」

「ご心配なく。私も展開を継続しますので――――いぬけ」


 ――――精霊術・紅閃――――


 アルフィーナの右腕を基点に放たれる一条の火矢。

 それは中空に広がる六花の障壁をすり抜けて弧を描き、吸いこまれるようにイブリスの竜翼を狙い撃つ。


 ぼしゅ、という音がして焔が翼膜に着弾する。細い煙がもうもうと噴き上がる。


「……効いちゃいないようだけど」

「ご心配なく」


 アルフィーナがぽつりとちいさく呟いた瞬間だった。


 ――――ドッ!! と吹き荒れる爆風、轟音。

 着弾点を中心に同心円状の爆発が広がり、巨大な翼をぐちゃぐちゃに破壊する。


「Gu――――luaaaaaaaaa!?」


 竜の鎌首が天を仰ぐ。街中に届くような咆哮をほとばしらせる。

 中空で巨躯がのたうつ。竜の顎が無作為に炎を噴出する。

 だが、それらの炎は真空の空間に呑まれて消えるのみ。


「……効きすぎじゃないかい?」

「……どうやら再生を開始しているようです。致命傷には及びません」

「あれで、か。……どうやって殺せば良い?」

「頭を落とす。あるいは――核となる魔石があるはずです。おそらくは」

「わかった」


 フィセルはそういって空を見仰ぐ。

 アルフィーナも彼女の意を汲み取り、静かに唱えた。


「てんのたかみへ」


 ――――精霊術・天之御柱――――


 瞬間、遥か空に届く光の柱が地上から伸びる。

 柱の周囲には半透明の階梯が散りばめられ、フィセルが空に至らしめる足場の役割を果たす。


「これで届かせます。しかし、お気づきかと思われますが、これは大変な危険を伴います。できればあれを空から引きずり落としたいところですが」

「……そいつは難しいんだろう?」

「はい」


 アルフィーナは率直に頷く。

 クラリスの案じるような目付きがフィセルに向けられる。


「あれの鱗に私の刃が立つって保証はない。だから、私が接近して囮になる。あんたが砲台に徹してほしい。良いかい?」

「了解です」


 アルフィーナがまた頷くのを見て取り、フィセルは迷わず歩み出す。


「――待ってッ!」


 その時、クラリスが焦燥に満ちた声を上げる。

 フィセルは顔だけで彼女に向き直る。階梯の一段目に脚をかけながら。


「どうしたのさ」

「『祈りを。汝の旅行きの無事を、幸いを』」


 ――――神魔術・福音書外典六章第一節――――


 クラリスは両手の指を絡め、祈りを捧ぐ。彼女の周囲を無数の神聖文字が取り巻き、飛び回る。

 藍色の長やかなる髪が風になびき、白いヴェールをはためかせる。


 白色(はくしょく)の魔力光がフィセルの全身を包みこむように旋回し、そしてぴたりと静止した。


 瞬間、フィセルはにわかに身体が軽くなるのを感じる。身体の内から力が湧いてくる。本格的に動き出していないにも関わらず全身が(こな)れている。


「……いいね。こいつは助かる。ありがたい」

「フィセル。……どうか、ご無事で」

「おうさ」


 クラリスはきゅっと瞑目し、祈るように呟く。

 対するフィセルはあまりにも気軽に背を向けて、そして再び歩み出した。

 みるみるうちに彼女の背が遠ざかる。空の高みに向けて駆け上がる。


「障壁を展開する魔力は残されていますね」

「はい。――それを除いては出し尽くした、とも言いますけど」

「賢明な判断です」


 遥か年下の少女に賞賛されたクラリスは少し苦笑する。

 しかし実際問題、あの竜を前にしては治癒魔術など何の役にも立たない。一撃でもまともに受ければ即座に死に至るだろう。


 ――そしてフィセルは、そんな敵を相手に、一人で立ち回ることを自ら選択したのだ。

 その破滅的な考えを、しかし、どうして止められようか。


「では――続けて行きましょう」


 アルフィーナは上空の大魔竜に照準する。

 先ほどの一撃は有効だった。が、その傷はすでに半ば治りかけていた。

 恐るべき生命力、そして魔力量。異常な巨躯に相応しいほどの魔力を、魔王イブリスはその身に秘めているに相違ない。


 アルフィーナの暗い瞳がイブリスを捉え、そして静かに詠唱する。


「――――つらぬけ」


 ◆


 フィセルの身体が空に近づく。

 空に近づくほど、黒き魔竜の存在感は増していく。


 中央広場全体に影を落とすほどの巨躯は伊達ではない。

 あるいはそれは、迷宮街ティノーブルの一角を轢き潰せるほどですらある。

 空を飛んでいることはまだしも救いか。さりとて、この竜が空に君臨する限り――地上の人々に安寧は訪れまい。


「G――――lu....?」


 地を見下ろし、またも炎を撒き散らさんとするイブリス。

 彼女は突然に接近するちいさな影――フィセルの姿を見逃さなかった。


 より正確に言うならば、天に突き立つ光の柱に注意を惹かれた結果であろうが。


「あんたの敵はそっちじゃない――こっちだよ、でかぶつ」


 光の柱を取り巻く階梯は一定の場所にない。

 不思議とフィセルが望む先に足場が現れ、彼女を静かに導いていく。


 フィセルにとっては全力で駆け続けているのだが――

 イブリスにとってはぐるりと首を回せば済むだけのこと。


 金色の虹彩がフィセルを射抜いた瞬間、イブリスはまた顎を開かせた。


「……来なよ。絶対にやられてやんねえから――――さッ……!!」


 瞬間。

 巨大な竜の顎がフィセルへ肉迫し、上下の乱杭歯を噛み合わせる。

 フィセルはすんでのところで別の足場へ飛び退り、凶悪な牙から身を逃した。


「ッ……火を吐く必要も無しってかい?」


 がちん、と噛み合わされる鋭利な牙。

 その一本だけでもフィセルの身の丈に匹敵するのだ――掠るだけでも骨と肉をえぐられ、確実な死がフィセルを襲うだろう。


 フィセルは左手で腰の短剣を抜き、魔竜の眼球目掛け投げ放った。

 切っ先は狙い過たず飛び、魔素をまとう剣影が金色の角膜に突き立つ。


「Gu――――luuuu....!!!!」


 刃が水晶体を抉る。

 しかしその効き目は微小であった。

 イブリスは低く呻くとともに瞬きする。降りた瞼が刃をへし折り、短剣を眼窩から排出する。

 次の瞬間、再生が始まり、眼球内に入りこんだ刃は呆気なく内側から押し出された。


「Gu....luuuaaaaa....!!!!」


 イブリスは唸りながら鎌首をもたげ、なおも鋭くフィセルを睨めつける。

 ダメージはほとんど残らなかった。が、魔王の怒りを買うことには成功したようだった。


「……良いんだか、悪いんだか……」


 ともあれ、彼女の目論見は上手く行った。

 フィセルは竜の吐息を予期して足場を蹴る。また別の足場へ飛び渡る。

 可能な限り顎の前方から逃れれば、炎を恐れることはない――そう思っていたのだが。


「――――ッ!!!!」


 轟、と風が唸りを上げる。空気の塊が壁のように迫る。

 一瞬後、半透明の足場に着地したフィセルを攫うように竜の大爪が宙を薙ぐ。

 巻き起こる強風に煽られながらもフィセルは爪の軌跡から逃れる。爪の通り抜けたあと、足場がガラスのように呆気なく砕け散る。


「アルフィーナッ! これ、この柱は保つのかい!?」

『御心配なく。柱に実体はありませんので』


 破れかぶれに叫ぶフィセル。そこにアルフィーナの声がどこからか飛びこんでくる。

 何らかの魔術に寄るものだろう。足場が消えることはない、というのはひとまず朗報だ。


『届きます』


 さらにアルフィーナの声が続き、同時に爆音が爆ぜた。

 地上から放たれた光の矢が無数。次から次に漆黒の翼膜を撃ち貫き、イブリスの飛行姿勢がわずかに崩れる。


「Gu――aaaaaaaaaa!!!!」


 空中で魔王イブリスは身をよじる。その最中も遮二無二に爪を振られるが、フィセルはそれを一つ一つ避けていった。

 一秒ごとに寿命が縮まるような感覚。吹き荒ぶ強風だけでも十分に危なっかしいというのに。


「こいつが堕ちた時の準備はあるんだろうね……!?」

『その心配には及ばないです。むしろ落とせるかどうかを心配するべきですの』


 地上から矢継ぎ早に放たれる魔術の雨。

 光と炎が黒竜の巨躯を貫き、抉り、気勢を削ぐ。

 だがそれは致命傷には程遠い。途方もないイブリスの生命力に比べれば、焼け石に水といっても良い。


 一発一発は確かに効いている。だが、アルフィーナの魔力や集中力も無限とは言えまい。


『フィセルさん』

「なんだい」

『埒を開けます。大魔術を撃ち込む時間がほしいのです』

「わかった――稼げば良いんだね?」

『まさに』


 そうと聞けば是非もない。

 フィセルは再び短剣を抜き払い、顔面を狙い投射する。


 瞬間。イブリスは大きく竜翼をはばたかせ、空を掻き乱す乱気流を巻き起こした。

 短剣は突風に妨げられ、あえなく勢いを失い地に落ちる。


「ッ――二度目は無い、ってわけだ」


 フィセルまでも風に煽られる最中、一瞬、イブリスは地上を睥睨する。

 それは再び目標を地上に求める様子に他ならなかった。


 ――ちょっと、無茶するかい。


 フィセルは右手の長剣を構え、イブリスに接近するべく半透明の足場を飛び渡る。

 まるで人間と蝿のような体格差。なればこそ、イブリスの注意もフィセルのほうに向けられた。


 びゅん、と風を切る前触れの音。

 フィセルは咄嗟に長剣を足場に突き立て、刃渡りで尺を稼ぎながら身体を跳ね上げる――彼女の痩身が空に舞う。


 彼女が飛び去った後を、巨竜の爪牙が通り過ぎていく。

 フィセルはそのまま自由落下。慣性に従って飛翔し、イブリスの前脚へ着地する。

 そのままでは振り落とされるが自明。フィセルは黒鱗の足場を蹴りながら駆け、ほとんど登るように肩へと至らしめる。


「Gu....luaaaa....!!!!」


 苛立ったように低く呻くイブリス。

 竜の大顎が開かれ、燃え盛る青い炎が口腔内部に覗く。今にも炎の津波が撒き散らされる時を待つ。


「――――そこだ」


 フィセルは一瞬も足を止めることなく加速。

 長剣の刃が銀の軌跡を描く。フィセルは翔ぶが如く駆け、地を蹴り、刃とともに身を翻す。

 そして、大顎が火山口のごとく猛火をぶちまける刹那。


 フィセルは魔竜の大口をも飛び越えて、イブリスの鼻頭へ接地。

 そのままさらに身を翻し、落下速度を勢いに乗せ、剣先を鱗の下にするりと滑らせた。


 ――――アズライト礼刀法・飛燕(ひえん)――――



「....Ga....lua....?」


 何が起きたか理解しかねるように静止する一瞬。

 フィセルは刃をさらに奥までねじ込み、頑強な鱗の下に潜む筋骨へ一筋の血線を走らせた。

 続けざまに鱗の下から刃が抜き放たれ、残心とともにこびりついた血を払う。


「Ga...Gu....GaaaaaAAAA!?!?」


 咆哮。あるいは絶叫。

 空中ではげしくのたうつイブリスに引きずられ、フィセルは必死に鼻頭へしがみつくことを余儀なくされる。


「ッ――くそ、暴れんじゃないよッ……!!」


 フィセルは悪態を吐く。イブリスの狂態は尋常なものではなかった。

 フィセルはやむを得ず脇差しを抜き、また深々と黒鱗を刺し貫く。――振り回されないための取っ掛かりを作るために。


「Ga――――AAAAA!!!!」


 またも絶叫。

 火に油を注いだような勢いで巨竜が狂乱する。

 フィセルは脇差しの柄をしっかと掴み、必死で振り落とされまいとする。


「ッ、アルフィーナ、まだなのかい!?」

『――――充填完了です。助かります』

「それより早くッ!!」


 これ以上の好機はないだろう。

 後は大魔術とやらに巻き込まれないようにしなければならない。

 フィセルは咄嗟に地上へ目を向け――そして、無数の白い燐光が黒竜を取り巻く様を見た。


『はなて』


 ――――精霊術・燐光乱舞――――


 球体の燐光が放つ光の矢。

 それは次々と黒竜の鱗を貫き身を抉る。


 球体の数はおよそ五十近くにも及ぼうか。

 それぞれの球体は自在に空中を飛び回り、刻一刻と位置を変えながらも光の矢を放つ。

 光の矢は縦横無尽に曲がりくねり、イブリスがどこにいようとも逃すことはない。

 一秒にして百の光条が黒竜を穿ち、それが連綿と絶え間なく続く。


「Ga――Guluaaaaaaa!!!!!!」


 間近に咆哮を聞きながら、フィセルは耳が潰れそうな思いをする。

 そして気づく。無数の光条がイブリスを貫きながら、ただの一発たりともフィセルには被弾していないことに。


 ――――私を避けてくれてる、ってことかい。


 なるほど、と得心する。

 アルフィーナほどの術師が時間をかけて放っただけはある。


 フィセルは命からがら脇差しを支えに身を起こし、地を蹴り、空中の足場へ舞い戻る。

 囮の役目はしかと果たした。後は、アルフィーナの力がどれだけイブリスに通用するか――


 ――その瞬間だった。


「Guluuuuaaaaaaaa!!!!」


 イブリスは狂ったように暴れ、巨躯が空中をのたうち回る。

 その四肢はまるで無作為に大気を掻き乱し――その爪先は、偶発的に、フィセルの頭上から襲いかかった。


 ――――あ、やばい。


 フィセルは反射的に剣を掲げかけ、すぐに打ち切る。

 まともに受ければ、跡形もなく押し潰されるのみ。

 だが、フィセルは着地直後なのだ。また次の足場へ飛び渡る猶予もない。


 フィセルは無我夢中に足を踏み出し――全身が支えを失ったのを感覚する。


「死――――」


 やばい、死ぬ。

 そう思いながらフィセルは咄嗟に、指先だけを足場の隅に引っ掛ける。

 イブリスの巨大な掌が、足場を叩き潰したのはまさにその瞬間だった。


「Gu――lululu....!!」


 竜の呻き。アルフィーナによる攻撃はまだ続いている。

 しかしながら、イブリスの注意はフィセルに向いたまま。

 囮の面目躍如といえばその通りだが――唯一の取っ掛かりさえ失ったフィセルは、自由落下に身を任せるほかにない。


 フィセルは重力に引かれてただ落ちる。

 墜落の心配はない。下方にはすでに半透明の足場が出現している。

 だが――そこに着地するまでの瞬間、彼女はあまりに無防備だった。


 いかなる身体能力も空中では宝の持ち腐れ。

 着地するまでのほんの数秒。

 イブリスは無数の光条に晒されながらも、フィセルの隙を見逃さなかった。


 金色の虹彩がフィセルを見据え、黒き爪が振りかぶられる。


 ――――悪運尽きた、ってところかい?


 皮肉げに笑みを浮かべるフィセル。

 次の瞬間、大気を引き裂きながら巨大な竜の爪が迫り――


「『降り注げ』ッ!!!!」


 ――――精霊術・極大雷光呪――――


 天高く轟く稲光。

 黒き雷雲が火花を発した刹那、空より落ちる熱線にも似た稲妻が漆黒の巨竜を貫いた。


「Ga――――Guluaaaaa....!?!?」


 轟音、そして閃光。

 雷電に射抜かれたイブリスは巨躯を痺れさせ、宙空で振りかぶった爪を停止させる。

 結果。フィセルは竜の凶爪から逃れ、足場に着地することに成功した。


「アルフィーナ。やってくれたのかい?」

『いえ。非常に癪ですが、違います』

「……なんだって?」


 これほどの威力の魔術を扱える人間が、他にいるというのか。

 雷光に撃たれ、ぶすぶすと煙を上げる漆黒の巨竜。

 しかし言われてみれば、確かに――フィセルは今の術式に見覚えがあった。


 アルフィーナは自らの力不足を呪うように、そしてフィセルの幸いを言祝ぐように抑制的に告げた。


『――お兄さまですわ』

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