八話/従者の本望
一日ぶっ通しでフィセルに修行を付けた翌日のこと。
「……っくし!」
「大丈夫ですか、ユエラ様。お身体でも。やはりあの安宿ではいけません」
「いや、それは関係ないと思うがな……」
ユエラは迷宮街をほっつき回りながら可愛らしいくしゃみ一つ。白い鼻梁をくしくし擦りつつ、おまえが抱きまくらになってくれおるからなと言う。
今日の同行者はテオだけ。フィセルは宿でゆっくり休息を取っている。幻影の試練に挑み続けるのは相
当堪えたらしい。疲れたのはユエラも同じだからむしろ渡りに船である。
当然のような抱きまくら扱いに首筋を赤くしながらテオは言う。
「……身に余る光栄ですが、私の身一つで補い切れるものではありません。やはり、きちんとしたお召し物を揃えましょう」
「構わんが、洗いやすいものにしておくのだぞ。おまえの指があかぎれでもしたら困る」
テオが洗濯をするのは確定事項である。その上で肌触りが悪くなるのも困る。テオは自分の所有物なのだ。それが勝手に傷つくのは許されない。
そういうわけで、二人は手頃な仕立屋を探していた。探索者向けではなく、行商人が仕入れに通うような店。その方が質が良いだろうと踏んでのこと。
「ああ、そうだ、テオ。昨日はどうなったのだ。拠点に顔を出してきたのだろう?」
歩きながらユエラはふと尋ねる。予定では〈闇の緋星〉へ報告に戻るという話であったか。
昨日は宿に帰るなりさっさと寝てしまい、事の顛末を聞けずじまいだったのだ。
「……はい。そのことなのですが」
「うむ。勿体ぶらずに言うが良い」
「潰れていました」
「こやんっ!?」
思わず変な声が出る。これは狐人における最上級の驚きの表現である。
ユエラの耳と尻尾が派手に逆立ち、黒衣の裾がわずかにめくれ上がった。
「ユエラ様、その御声はちょっと……」
「……やかましい。私だって驚くことくらいある。あと鼻を拭け」
「はい」
ぼたぼたと垂れる鼻血を無表情のままハンカチで拭うテオ。極めて瀟洒な所作だった。薄褐色の肌のおかげで血の色もあまり目立たない。
「それで、どういうことだ。……潰れただと?」
「はい。副教祖を除いては跡形もなく。場所が割れていたのでしょう。何者かの攻撃を受けた形跡がありました。皆殺しですね」
「……左様か」
どれだけ大仰な名前だろうと、所詮はカルト宗教の弱小な分派。社会的害悪と看做されれば、体制側は排除をためらわないだろう。あるいは同類の勢力圏争いか。正直、ユエラにはどうでもいいことだ。
問題はなぜ今か、ということ。ユエラがこの地に降り立ってまだ三日。二日目から事件続きとは、偶然で片付けるには少々無理がある。
「副教祖、か。どのようなやつかわかるか?」
「……あまり詳しくは。思想的な指導者は教祖でしたから、彼女はあくまで実務的な側面を担っていたようです」
淡々と言うテオを観察しながら、ふむ、とユエラは頷く。
教団分派の壊滅とやらより、むしろ気がかりなのはテオの様子だった。言うなれば彼女自身の古巣を潰されたというのに、あまりに感情の動きが無さすぎる。
「そやつがどこにおるかわかるか」
「……私が本部に向かったとき、ちょうど彼女がいました。彼女は私に、『ここにはもう何もないよ、好きなところへ行けばいい』――――と言って去りました。……その後は、私にもわかりません。後を追ったのですが、人混みで撒かれてしまいました」
痛いところを聞かれたようにうつむきながら話すテオ。
正直なのは美徳だが、罪深くもあるなとユエラは思う――無理やり話させているような罪悪感が勝ちすぎる。
「よしわかった」
「……いかがなされるおつもりですか? おそらく現場は公教会が接収しているかと思いますが……」
「いや、服を買いに行こう」
そう言うと、テオは思いっきり転けそうなほど前につんのめった。ユエラは咄嗟に振り返り、腕をいっぱいに広げて彼女の華奢な身体を受け止める。
「何を驚く」
「いえ、単に拍子抜けしたのです」
「復讐の機会が欲しいなら真面目にやらんでもないが」
そういうわけでもなかろう、とユエラは言う。テオは黙して答えない。
なぜわかったのかと言わんばかりの無言の肯定。
わからないほうがどうかしている。テオが理由もなく無感情でいるとは思えなかった。ただそれだけの話である。
「どうでもいい輩がどうでもいいところで死んだなんぞ私にとってはどうでもいい話だ。そんなことよりテオ、おまえには私を着飾る栄誉をくれてやる。あまり張り切って目立たせすぎるなよ、国が傾いても知らんからな」
くく、と喉を鳴らして笑いかけるユエラ。
テオは一瞬立ち止まったあと――――こくとちいさく頷き、口元にかすかな微笑をほころばせた。
「はい。承らせて頂きます」
「よし」
戯れのような言葉を交わしたところで、南側の通りに折よく品の良い仕立屋が見える。
あそこでよいかと頷き合い、店の前に着いた二人はふと足を止めた。――軒先の立て看板に奇妙な張り紙がされていたのである。
貼り付けられた羊皮紙は公教会の証文入り。文面は次のようなものだった。
『先日未明、ティノーブル近辺において極めて巨大な魔力反応が観測された。比肩するものなきそれは竜をも上回ろうかというもので、まだ正体が確認されていない。さしあたって、迷宮攻略者はこれに積極的な協力を求む。これの正体を突き止めたものには金貨三枚。これを討伐したものには金貨十枚。これを生きて捕獲したものには金貨二十枚の褒章を与えるものとする――重々警戒しつつ事に当たられたし。公教会ティノーブル支部長キリエ・カルディナ枢機卿』
「ユエラ様」
「……う、うむ」
「何かしましたか」
「な、なにも……」
「なにも手を出さずに国を傾けた御方だとは存じておりましたが」
「よし、私は先に行っておるぞ!」
「……いよいよ見違えてもらいますからね、ユエラ様」
人相書きがあるわけでもないから変装の意味も無かろうが。
その後、テオはとっくりと時間をかけてユエラを着せ替え人形にする業務に従事した。一体どこで服飾の素養を得たのやら、ユエラは心底不思議に思ったという。
◆
「……ちと裾が短すぎやせんか、テオ?」
「ご心配なさらず、ユエラ様。こちらのソックスも合わせれば脚を冷やす心配はございません」
「そういう問題じゃあないんだがなあ……」
黒い薄手のワンピース・ドレス。あわせて黒地のニーハイソックス。
ユエラはぶつぶつ言いながらも、テオのお勧めを受け取って素直に試着室のほうへ歩いていく。
仕立屋――〈かそけき妖精の糸の森〉。奇妙な二人組の来店に店員らは警戒をあらわにしたが、持ち合わせの金貨を見せれば彼らはころっと態度を変えた。
現在はテオが持ち前のセンスを駆使し、ユエラを美しく着飾ることに全力を尽くしている。元がいいから悪くなりようがないのだが、子どもっぽくならないようには気を使った。
テオが幼いころから叩きこまれた暗殺者としての技術。その中には様々な職業、立場の人物になりかわるための変装技術も含まれている。
「……お客様は宜しいのですか? よろしければ、お荷物のほうお持ちいたしますが」
「お構いなく。これは私の仕事でもありますので」
テオは店員の丁重な申し出を固辞し、ユエラが着替え終わるのを待つ。
もぞもぞと揺れる個室のカーテン。それを眺めるともなく眺めながらテオは思う。
――――なぜ、ユエラ様は疑いもしないのだろう。ユエラ様の秘密を知っている人間が本当にすぐそばにいるのに。いつ私がユエラ様のそばを離れ、お金のためにユエラ様の情報を売らないとも知れないのに。
ユエラの性格は人間離れしているところがある。けれど、基本的にはとても人間臭い。面倒臭がりで、偉そうで、そのくせ好奇心は旺盛で、傲慢で、そして時に優しい。
そんなユエラが、なぜテオを傍においておくのか。テオ自身、控えめに言っても自分が扱いやすい駒とは思いがたい。
テオの幼いころの記憶はあやふやだ。十年近く前、教団に買われたことは覚えているが、それ以前の記憶は皆無に近い。
その後、テオは暗殺者の師から技術の粋を骨の髄にまで叩きこまれた。総主教からはイブリス教団普遍主義の教義を脳の髄にまで擦り込まれた。
テオは教団によって苦しめられ、しかし教団によって生き長らえた。教団がなければ苦しむことは無かったろう。――テオが生き延びることも無かっただろう。
そして、テオは我が身を狂信に捧げた。
――――この世の天地に災いあれ。来たれ人々に害為す魔王様。生きとし生けるもの全てに滅びの鉄槌を。
憎きものの滅びを望むがゆえに、憎きものから与えられた教義を心から信じこむ自己矛盾。もはや破綻するのは遠くない。テオ自身そう自覚したからこそ、生け贄という話は渡りに船だった。
「……は」
なのに今、テオはのんきにもユエラの衣装などを選定している。〈始原の悪女〉〈災厄の神狐〉〈テウメシアの狐〉とまで呼ばれた魔性の女が着る服を。
〈闇の緋星〉は消えて無くなった。〈闇の緋星〉はイブリス教団の分裂期、三年ほど前に生まれた分派だった。テオにはさしたる思い入れもない。教団本部への憎悪から繋がった縁に過ぎなかった。
――あとは、彼女の傍にいれさえすれば、もう。
そんな都合の良い望みを抱いて許されるのか。テオ自身にはわからなかった。
「うむ、よし」
と、その時。ユエラはカーテンの隙間からひょこりと顔を出し、ステップを踏みながら踊るように姿を見せた。
ノースリーブの黒いワンピース・ドレス。黒に包まれた白い肌はまぶしいほど見映えがして、ほっそりとした腋のくぼみがあられもない。平たい胸はつつましやかながらタイトな生地にくびりだされ、ささやかな女性性を自己主張。幼い腰つきは細いリボンに締め付けられ、きゅっとちいさなお尻を強調するように引き締まる。
踵から膝まで黒に覆われた脚など儚いほど華奢に見え、テオは一瞬言葉を失った――さながら湖の岸辺で舞い踊る妖精のよう。
「…………なんだ、なんとか言え。はしゃいで出てきた私が阿呆みたいだろう」
「……い……いえ、真に美しくあられますユエラ様、け、結婚してください」
「そこまで言うなら娶ってやっても良いが」
「っ――――も、申し訳もありません。はからずしも過分なお言葉が口をつき」
テオは恐縮して頭を下げる。思わず自らの立場を忘れるほどの可憐さだったのだ。
それでも彼女はまだ冷静なほうだった。店員などは客に賛辞を送ることも忘れ、真剣にユエラに見入ってしまっていたのだから。
だがユエラはそれでかえって機嫌を良くしたように、鼻歌を歌いつつスカートの裾を摘んで一回転。
気に入ってくれたのなら実に重畳なことだった。テオはそっとユエラのそばに歩みより、言う。
「……本当によく似合っておられます。私が思いもしないほどに」
「くく、褒めても何も出んぞ。だが、おまえは褒めて遣わそう」
ユエラはゆっくり手を伸ばし、ぽんぽんとテオの頭を叩く。
やろうと思えばその瞬間、彼女はテオの記憶を覗き込めたはず。しかし彼女はそうしなかった。今のユエラからは、欠片ほどの魔力も感じられなかった。
「……ユエラ様」
「うむ?」
「なぜ、私を信じてくださるのですか。私が、あなたを、」
―――売るかもしれないと、考えないのですか。
思いもしない言葉がテオの口をついて出る。ほとんど衝動的に。止めようもなく。
「おまえはなぜ私の手を避けなかった? なぜ私の手に身を預けた?」
「……っ」
「……意地の悪い言葉だったな。しかし、まあ、はっきりとは言えんよ。なんとなくだ、勘というやつだな。年の功といってもいい」
くく、とユエラは微笑する。「そんな顔をするな」と言ってハンカチを差し出す。
「ほれ、鼻を拭け」
「……は、い。申し訳も、ありませ、ん」
テオは素直に眼と鼻を拭いた。布地にじわりと湿り気が広がる。赤い色は一滴たりとも無かった。
「では、もう一セットほど揃えておきましょう」
「……持ち運びのことも考えておれよ? 私は持たんからな」
「もちろんです。全てお任せください」
「……しゃあないのう」
店員にキープしてもらっている服はすでに数セットにも及ぶ。満更でもないようなユエラに、テオは早速新しいコーディネートをあてがった。
――――本当は全て幻影なのかもしれない。徹頭徹尾、一から百まで子どもの形をした悪女に騙されているのかもしれない。そうではない保証なんてどこにもない。
でも、構わないと思った。騙されていてもいいと思った。彼女になら、弄ばれた挙句に破滅させられても構わないと思った。
この御方が、私の、本望だ。