六話/幻術×擬験
一夜明け、ユエラとフィセルは街の外に出た。街道沿いからできるだけ離れ、見晴らしの良い開けた場所を探す。
テオは今後の身の振り方を〈闇の緋星〉に報告させるため、一日だけ暇を与えることにした。後から面倒事を持ちこまれないためにも、前もっての根回しは大事である。
「……良かったのか、ユエラ。テオから目を離して」
「なぜそう思う?」
「あの娘、まず間違いなく洗脳済みだろう。影響は深刻じゃないが、刷り込みはそう簡単に解けやしない。ましてや、あの、イブリス教団だ」
魔王崇拝。それは終末思想の一種だろう。テオが口にする言葉の端々にも垣間見えるように、イブリス教団は人類の破滅を是としている。
「私はあやつをどうこうしようとは思っておらんのでな。しかし、テオの忠心は本物。その恩には報いるべきであろうよ」
「……報い?」
フィセルは迷宮街にほど近い丘を登りながら、いぶかしむように眉を釣り上げる。
「つまらん教条に身を捧げるより、他に面白いことはいくらでもあるということだ。私のそばにいればそれが自然とわかろうよ」
「……つくづく得体が知れないね、あんたは」
幼い外見でありながら語る言葉は時に老練。従者を引き連れた姿はどこの令嬢かとも思われたが、その割にはずいぶん世間擦れしている節がある。さりとてただの旅芸人と見るには、彼女の力はあまりに過剰であった。
フィセルの案内に率いられ、ユエラは丘の上で足を止める。街道からは大きく離れ、背には深い森がそびえている。
「ここはどうだい? ヴェルトの丘って言ってね、人がここらを通ることはほとんど無い。ちょっとくらい暴れても問題はないだろうさ」
「……うむ、良し。そう遠くもないからな。及第点だ」
足元は生い茂る草の原。見晴らしはすこぶる良く、丘の向こうに迷宮街の全景を見渡せる。障害物――邪魔な岩や木々の類もなく、修行にはうってつけであろう。
ユエラはうむうむと頷きながら、改めてフィセルに向き直った。
「では、フィセルよ、近う寄れ」
「……何を、する気だ?」
フィセルは一瞬ためらいつつも、素直にユエラのもとに歩み寄る。ユエラを信頼できるかというと微妙だろうが、すでに覚悟は決まっているようだった。
ユエラはちいさな掌に莫大な魔力を帯びさせ、率直に告げる。
「おまえの記憶を読む。迷宮に関わる記憶だ。おまえの記憶から、おまえが脅威に感じている魔物を再現する。おまえはそれを撃ち破れるようにがんばる。良いな?」
「お、思ったより堅実だね?」
「当たり前だろう。他に力をつける方法などあるものか」
「……あんたもそうだったのかい?」
「いや、私は生まれながらの天才だから努力など全くいらんな」
ユエラは支離滅裂なことを言いながら、フィセルに膝をつくよううながす。彼女は釈然としない顔でしぶしぶ身をかがめ、ユエラの掌に頭を差し出した。
ひたり。
ちいさな白い手がフィセルの髪に軽く触れ、瞬間、ユエラは力を行使する。
――――幻魔術・鏡花水月――――
「……っ」
フィセルは声にならない声で低く呻く。が、痛みを与えることはない。
それは対象の記憶を根こそぎ掌握できるような術ではない。心という水面に石を投げこみ、その波紋を観察するようなもの。ユエラはフィセルの記憶から、彼女が脅威視する魔物の情報をあまさず汲み上げる。
読み取りは十秒もかからずに済む。後は幻覚として再現してやれば良いだけだ。
「準備は良いかえ?」
ユエラが問う。フィセルは一度頭を振ったあと、ゆっくりと立ち上がって頷いた。腰に帯びた長剣の柄に手をかけ、ユエラから数歩の距離を置く。
「……いつでも良い。頼む」
「……ならば、行くぞ」
ユエラが読み取った記憶によれば、フィセルが単身到達した最深層は地下五十八層。歴代探索者による最深記録は地下八十二層のようだから、これはかなりの記録と言える。
そしてフィセルが最も苦手とする魔物。それは地下五十五層以降から出現するようになる粘液状の群体生物。
通称を〈大ぶよぶよ〉と言う、……らしい。
―――幻魔術・夢幻泡影――――
瞬間、二人の間に出現する大ぶよぶよ。それは小ぶよぶよという小型の魔物が大量に合体した姿である。黄土色の粘液塊が薄気味悪くうごめいており、その幅は200su以上もある。身の丈も決して小さくはなく、100suは下らない。
「……驚いたね。瓜二つだ」
「おまえの記憶を再現したのだから当然であろう」
「私の頭の中ではここまで精巧には描けないよ」
フィセルはそう言う間にも大ぶよぶよは全身を引きずってにじり寄る。粘液の這った後が焼けるように溶け、しゅうしゅうと白い煙を上げた。
「……ほんとに幻術なんだろうね……?」
「極めて精緻な幻像だが、幻影には違いないよ。ほれ気張るが良い」
ユエラが雑に発破をかける。フィセルは瞑目し、長剣の刃が胸の前を横切るような構えを取る。
その時だった。
大ぶよぶよが突如ゴムのように跳ね、フィセルに向かって飛び出した。
「――――ッ」
虚をつくような動き。しかし、決して早いとはいえない。
フィセルは難なく横に避け、大ぶよぶよの表面をかすめるように斬った。
ぶにん。
長剣の刃は弾力に富む表面をへこませ、弾ませ、地面へ跳ね返すに終わる。
「……ふむ」
ユエラはその様子を見ながら顎に手を当てる。
今の一太刀は端的によく練り上げられた一閃だった。迅速な切り返しと最小限の踏み込みからなる剣光の瞬き。魔力を帯びた刃には十分な威力が乗せられており、並大抵の魔物なら容易く斬り捨てただろう。
しかし大ぶよぶよに限ってはそうではない。この魔物の最たる特徴は、常軌を逸した弾性と靭性にある。この二点にのみ魔力を注ぎこんでいるからこそ、大ぶよぶよはフィセルの剣にすら耐えるのだ。
もっとも、弱点はある。大ぶよぶよの分厚い液状体の奥に潜む核――魔石である。
「……しかし、これは……なるほどのぅ」
大ぶよぶよは魔石を壊せば倒せる。そこまではいい。
問題は、剣や鈍器ではどう足掻いても魔石には届かないということである。
「フィセル、そやつを倒せたことは?」
「全くの零じゃない――けど、ほぼまぐれ当りのようなもんだね」
フィセルは飛びかかってくる大ぶよぶよを何度も跳ね返して退ける。しかし決定的なダメージを与えるには至らない。
なるほどとユエラは得心する。フィセルには魔石から生じる魔力の流れが見えていないのだ。おそらくだが、自身の剣術が魔力を帯びていることもはっきりとは自覚していないだろう。
魔術師とは異なり、武術の達人や熟練の職人などにはそういうことが往々にしてある。
魔術を行使できるかどうかは〈魔術の器〉の有無によって分かたれる。それさえ除けば二者の差異はただ一点――魔素を能動的に操作するか、あるいは魔素を受動的に惹きつけるかの違いである。
「集中してみよ。魔石を中心に生まれる魔力の流れを見るが良い。おまえになら見えるはずだ」
と、ユエラは自信たっぷりに断言する。
なんとなれば、フィセルはユエラの幻魔術を察知できたのだ。優れた感覚を持っていることは疑いようがない。後はきちんと訓練を詰めば、必ず見えるようになるはずである。
「……わかった」
フィセルはちいさく頷き、剣を構え直す。剣呑な碧の眼差しが大ぶよぶよを凝視する。
と、不意に薄く開かれた眼差しが瞑目した。眼で見るのではなく、全感覚で捉えようという自然な反応が起こったのだ。
やはり、とユエラは確信する。彼女には類まれなる天賦の才がある。先ほどまでとは全く気配が違っていた。
魔力の流れを見極めさえすれば後は単純。流れにフィセル自身の魔力をぶつけて相殺するのみである。大ぶよぶよ特有の弾性と靭性は失われ、剣先は容易く魔石に達することだろう。
「おそらく、魔力の流れをまぐれで断ち切ることがあったのだろう。だが、偶然ばかりではどうにもならぬぞ。きちんと見極め、そして断ち切れ。これは他の魔物相手であろうとも役に立つはずだ。百度繰り返し一度も誤らぬようにせよ」
ユエラは淡々と告げる。フィセルはこくりとちいさく首だけで頷く。
大ぶよぶよがじりじりと彼女に迫る。這うような速さで距離を狭めながら、やがて魔物は跳ねるように飛び出し――――
「あっぶッ!? ぁ、あつ、あっつ、焼け、顔焼ける、死んじゃ、死ぬ、これ本当に死ぬッ!?」
瞬間、ユエラは盛大にずっこけた。
フィセルは瞑目したまま、顔からまともに大ぶよぶよを引っ被っていた。溶解作用からなる激痛と熱で前のめりに倒れ、地面の上をごろごろと悶え転がる。
「……ちと、見誤ったか……?」
ユエラはよろよろと立ち上がりながら、フィセルの醜態にちいさくため息を吐いた。
◆
「……無様なところを見せた。もう一度頼む」
「そろそろ、私からもおまえに頼まねばならんな――しっかりやりや」
ユエラのからかうような声に大人しく頷くフィセル。
なにせこれで三回目だ。もし実戦ならすでに二回も顔を焼かれていることになる。
幻術だから傷跡は一切残らず、命に別状をもたらすこともない。だが、感じる痛みだけは限りなく現実に近かった。
「無論」
「……では、行くぞ」
ユエラの合図とともにフィセルの視界内に出現する魔物。かくも忌まわしき大ぶよぶよ。
フィセルは片目だけを瞑り――瞳を眇め、魔物の体内を凝視する。
魔石を中心にして生じる細い管。その流れは幾重にも枝分かれした川のようにも見える。集中を切らせばすぐに見えなくなるような儚い線だが、それは確かに存在した。幻術の中にあっても、それは確かにフィセルの眼が捉えたものだった。
にじり寄る大ぶよぶよの動きに応じ、フィセルは流れる水のような静謐をたたえ抜剣する。粘液塊が不意に飛び出すのを見ても、彼女は片時足りとも揺るがなかった。
ひゅん。
大ぶよぶよの表面――魔力の流れをなぞるように、峻烈な剣風が吹きすさぶ。
フィセルは歩むような静けさを引き連れ、魔物の後方に抜けながら剣先をぴたりと宙で止めた。
刹那。
魔石に蜘蛛の巣めいた亀裂が走り、ぱきぱきと破滅の音が響き渡る。小ぶよぶよの集合は瞬く間に崩壊し、あとに残った粘液塊はどろどろの水液となって四散した。
フィセルは残心して振り返り、敵の消滅を確認したあと息を吐く。
「……うむ」
その時、ぱちぱちと拍手の音が聞こえた――ユエラがちいさな掌を叩く音だ。
彼女は満足気に口端を吊り上げながら微笑んでいる。年齢に分不相応なほど悪そうな笑み。
「おまえ、筋が良いな。こうも早う魔力の流れを見切るとは思わんかった」
「……今ので完全に見切ったとは思わない。そして、完璧に限りなく近づけなけりゃ、私一人で迷宮を踏破するべくもないだろうさ」
フィセルはひゅんと刃を振るい、剣身に絡みついた粘液を払う。彼女の身に染みついた癖のような所作。その粘液もまた幻術の産物に過ぎないが。
「だが、あんたの指導がなければ私はもっともっと長い間足踏みしたままだったろう。感謝する、ユエラ」
フィセルは幼気な少女の眼前、大仰なほど恭しく礼を払う。
そのまま長剣を鞘に収めようとすると、ユエラはふと掌を突き出して制止した。
「まて、まて。まだ剣を仕舞うにはちと早い」
「……む。すまない」
「今までのはほんの準備運動よ。私が稽古をつけてやるんだ、完璧に限りなく近づけてやろうじゃないか」
「……私にしたら、願ったり叶ったりだ。ありがたい限りだとも」
意外と教育熱心なのか。そう思いながらフィセルは剣を構え直し、ユエラを見る。
心なしか、彼女の表情が嗜虐に歪んでいるような気がする――まるで虫を弄ぶ無邪気な子どものよう。
もしや、とフィセルは直感する。背筋がわずかな寒気に打ち震える。
今のユエラは仕事としてでなく、戯れの一環でフィセルに付き合っているのではあるまいか。
その想像を証明するかのように、ユエラの発する莫大な魔力が〈ヴェルトの丘〉で渦を巻いた。
瞬間、フィセルの五感が丸ごと塗りつぶされる。視界からユエラの姿が消え、景観は丘から地下迷宮に一変する。
「さぁ来るぞ、フィセル。気張って迎え撃つのだぞ?」
「……ど、どこにいった、ユエラ!?」
「案ずるな。私はずっと、おまえの目の前にいてやるとも」
さながら天の声めいて、くつくつと笑う声がどこからか響く。
ユエラの言葉とは裏腹、彼女の姿はどこにも無い。フィセルの眼に映るのは薄暗く狭い地下通路。曲がり角から覗く仄明かり。そして、そして――――
「……うわ」
曲がり角の向こう側から群れをなして押し寄せる大ぶよぶよ。その数はゆうに十を超えている。しかも前後同時である。
絶体絶命、というならこれほどうってつけの状況はない。ユエラの幻術に過ぎないとしても、それでも心が折れてしまいそうな光景だ。
「安心しろ、死にはせんさ。その分、痛みを長く味わうはめになるかもしれんがな」
「……やってやろうじゃないかい」
フィセルは覚悟を決め、津波のように寄せかかる大ぶよぶよに相対する。魔力の流れを見極める速度、正確さ、全てが問われる試練である。これを無事に乗り越えたとき、フィセルの実力は飛躍的に向上するだろう。
――――それにしても、これほどとは思わなかったね。
ユエラが展開する幻魔術の規模に内心震撼しながら、フィセルは改めて確信する。やはり彼女を追った自分の判断は間違いではなかった、と。
◆
「――――あ、あ、あつっ、あっつッ!! とけ、とけるっ、腕、私の腕が……ッ!! 腕ぇぇぇッ!!」
「……素手でようやりよる。実戦でやるでないぞ、魔物一体に腕一本じゃ割に合わんからな」
ユエラはフィセルの奮闘から片時も目を離さず、彼女を見守りながらくつくつと喉を鳴らす。何度か仕切り直しも挟み、繰り返し擬似迷宮への挑戦を強いる。それでも心を折らずに立ち上がるフィセルを見て、ユエラはこの上なく楽しそうに微笑んだ。
――――膨大な魔力の放出を誰かに観測されないとも知れない。そんな考えも念頭から吹き飛ぶほど、愉快げに。