五十五話/相違う思惑
目が覚めた時、テオはベッドの上にいた。
彼女は思わず面食らう。次に記憶を振り返る。意識が落ちる前の最後の記憶。ユエラにおぶわれたことをぼんやりと覚えている。
白いうなじのかすかな甘い匂い、そして草木と土の匂いを思わせるかすかな獣臭――――
いえ、そうではなく。
テオは首を振って煩悩を払い、周りを見渡す。
「……お。目が覚めたかえ」
果たして、彼女は窓際に座りながら書物を紐解いていた。
ユエラ・テウメッサ。朝日に照らされて目映い可憐な面差し。彼女はゆっくりと腰を上げ、テオの枕元に歩み寄る。
「ユエラ様――――ッ、つぅ……」
「あまり急に動くでない。傷に響くぞ?」
あろうことか、自らの主にご足労をかけてしまった。
その無念さが先走るあまり、テオは自らの負傷をすっかりと忘れていた。
現在のテオは飾り気もへったくれもない寝巻き姿。
か細い喉首と腹には幾重にも包帯が巻かれている。消毒や傷の処置は十全であり、包帯も何度か交換した跡がある。ありがたいことこの上ないのだが、それがテオのやるせなさをかえって助長した。
「まだ痛むであろう。なんなれば、痛みは感じぬようにもできるが」
「いえ、問題ありません。これ以上の御世話をかけるわけには参りません。これはユエラ様にご足労をかけてしまった私への罰であり、大人しく甘んじるべき痛みなのです」
「おまえが痛がっておっても私は気持ちよぅならんぞ。私が痛がっておったらどうかえ? おまえはどう思う?」
「ユエラ様に傷をつけるものは万死に値します。斬首が妥当かと」
「おまえはぶっ飛びすぎだが、まあ、そういうことだのぅ」
ユエラは呆れたように笑い飛ばす。テオにとっては全く本気のつもりだったが、そうは受け止められなかったようだ。
無理もないか。今のテオでは十全にユエラを護衛することは難しいだろう。いや、例え完治しても、彼女が――リグが相手に回ったとすれば。
「ともあれ、大事は無さそうでなにより。アリアンナの薬も少しは効いたらしいのう」
「……彼女が調合したのですか」
「うむ。自然治癒力を向上させるやつをな」
「なにやらすさまじく不安なのですが……」
「心配ない。ちゃんと私が監督しておるよ」
テオは改めて身を起こし、短剣を突き立てられた傷口にそっと触れる。
傷跡はまだくっきりと残っているが、血はほとんど止まっている。包帯で押さえつけられているだけでなく、すでに傷口も塞がりつつあるようだ。
――初めて見かけた時は、どこにでもいるような少女にしか見えなかったが。あれからおよそ三ヶ月、アリアンナは一歩ずつ魔術師として成長し続けている。
「ユエラ様」
「うむ?」
「師は……リグはどうなさいましたか」
「逃げおったよ。……しかし、ずいぶんデカい魚を釣ってきたものよな。あれは潰さねばならん、私の敵だ」
「――――お褒め頂き光栄な限りです、が……」
テオはそこでふと引っかかりを感じる。
ユエラは言うなれば、この世界における超越者の一人だ。敵対者さえも彼女にとっては利用可能な駒でしかない。
そんな彼女が、『潰さねばならん』とまで断じたのだ。これはそうあることではない。
「ユエラ様。――やはり、魔王とは、ユエラ様をしても脅威と見なしうるのですか」
「ん? んん、魔王はどうじゃろうな。知らんからわからん」
「ええ……」
これにはテオも思わず脱力する。知りようがないというのは事実その通りだが。
「そういえば言っておらなんだか」とユエラは思い出したように話し始める。
それはテオが追跡していた少年の正体。
「あやつは私を千年前に現世から追放しおった魔術師だ。名はクレラント」
「……クレラント、と言いますと――」
「うむ。魔王を封印した〈賢者〉とやらも同じ名前らしいな?」
同一人物である、という証拠はない。
しかしユエラを一目見てテウメシアと看破するなど、彼女と面識があったことだけは確かだ。
そしてその〈賢者〉が、よりにもよって魔王を復活させようとしている。自らが従えるための手駒――使い魔として。
「正直、わけがわかりません……」
「私にも理解できん。しかしまぁ、千年も生きておれば頭がいかれてもおかしくはなかろうよ」
「そんなことはありません。ユエラ様はとてもかしこくかわいくお美しいです」
「半分以上頭と関係ないぞ」
ユエラはにわかに苦笑する。その表情は、自らの正気に懐疑的であるようにも見えた。
「……つまり、クレラントこそはユエラ様の敵であると?」
「そもそもだが、奴の目的はおそらく私だ。……どうして今になって来おったかはわからんがのぅ」
そもそも〈賢者〉がいまだに生きているというだけでも驚愕に値するのだ。後ろで誰かが糸を引いているのか、それとも彼自身の意思か。
いずれにせよ、彼はユエラ・テウメッサの敵だ。ユエラが全力を上げて潰さねばならない、唯一対等な敵だ。
「かしこまりました」
「なにがだ」
「リグは私がやります。ユエラ様の手をわずらわせるわけには参りません。クレラントに集中するためにも、そのほうが理に適います」
「……ほぅ?」
ユエラは挑戦的に目端を釣り上げる。「おまえにそれができるのかえ?」と言わんばかり。
「無論、今のままでは敵いませんでしょう。ですが、ユエラ様。どうか私に御指導下されれば、ユエラ様のお力添えあらば、彼奴を必ずや下してみせます」
「……なかなか大きく出おるではないか」
「師の不徳は弟子の不徳がいたすところ。そして不徳とはすなわち、ユエラ様に刃向かうことに他なりません。始末は弟子の手で付けます」
「言うておくが、あれとの差は……ちょっとやそっとで埋まるようなものではないぞ?」
テオはこくりとちいさく頷く。
残された時間は一週間もあるか無いか。たったそれだけの期間で彼我の実力差を詰めるのは不可能に近い。
だが、ユエラは無理とは言わなかった。
ならば決して無理ではない。テオは自らの誤謬を自覚的に信じこむ――盲信する。
「……どうしても、という眼だのう」
「どうしてもです」
「無闇な苦行をさせるのは好かんのだがなぁ……」
ユエラはくしゃくしゃと灰髪を掻き乱しながらうそぶく。
そして思わしげに、ベッドの上のテオへ向き直った。
「おまえの記憶から奴の動きを、技を再構成して投影する。おまえは十年間あやつに師事しておったのだろう?」
「はい」
「ならば、おまえの記憶には十年分の蓄積がある。そこから仮想敵――リグの幻影を作り上げる。最低限、それに勝て。でなければ、おまえに任せることはできぬ」
それはユエラなりの譲歩であろう。従者の心情をおもんばかる提案。
テオの記憶の中にあるリグは、当然ながらリグそのものではない。十年分の蓄積とはいえど、彼女が本気を出した回数など両手の指で事足りるだろう。
ゆえに最低限。テオの記憶にあるリグの幻影に勝てなければ、本人に打ち勝つことなど夢のまた夢。それこそ、危なっかしくて任せられないということ。
主人の心遣いを感じながらもテオは歯噛みする。自らの不甲斐なさに、力不足に。
「――かしこまりました。一週間、いえ、三日でやり遂げてみせましょう」
「三日も待ってくれるかは分からんがな。……遅くてそんなところだろう。やってみせよ、やると言ってみせたからにはのぅ」
テオは決断的に頷く。記憶を読まれることへの忌避感は一切ない。むしろいまだに明け渡していなかったことに違和感があるくらいだった。
ユエラが差し伸ばす掌を待つ――が、彼女は触れる代わりにあっさりと告げた。
「取りあえず、今日一日は安静に休んでもらうからのう」
「いきなり三分の一を浪費ですか!?」
「当然であろう。その傷が開いたらどうする気だ」
「い、いえ、さすがに二日では――」
「良いから大人しくしておれ」
ユエラはそう言うと、おもむろにベッド上へ乗り上がる。ワンピーススカートに覆われたちいさなお尻がテオの足の間にのしっとのしかかった。
「そういえば褒美をやっておらなんだな。ほれ、私のしっぽでも好きにするがよい」
「――――ああっ、なんたる甘美な誘惑……! これに逆らうというのはあまりに……このふわふわな……手触り……暖かさ……そして……得も言われず獣性を目覚めさせる……獣臭っ……!」
「……これ、においを嗅ぐでない。鼻息が荒いぞ。恥ずかしかろうが……」
目の前でぱたぱたと揺れる二尾のしっぽが鼻先をくすぐる。テオはそのまま顔を近づけ、頬ずりし、鼻先をうずめ――
この後めちゃくちゃもふもふした。
◆
「――――なぜ退いた?」
イブリス教団普遍主義派拠点、最上階。
リグは総主教室に入るなり彼に勢い良く詰めかけた。
彼――老いさらばえた小柄な男はリグを一瞥し、さっと自らの顔を撫でる。
瞬間、彼は総主教の姿から本来――〈賢者〉クレラント――の姿を取り戻した。
もっとも、この姿も彼にとっては仮初のものでしかないが。
「おいおい、ちゃんと言ったじゃないか。まだテウメシア――ユエラは倒せない。そう簡単には倒せない。そのための準備がいるんだよねぇ。ま、その準備を邪魔されたってわけだけどさ」
「――具体的に言え。何が必要かを」
クレラントに大した理由があったわけではない。日を改めて仕切り直したかっただけのこと。時間はいくらでもあるのだから、今さら焦っても仕方がない。
「まず、君らの教義はテウメシアも信仰対象にあるんだったねぇ」
「嗚呼」
「でも見ての通り。彼女は人の言いなりになったり、お願いごとを聞いてくれたりするようなたちじゃない。とんでもない贈り物をしてくれることもあれば、とんでもない災厄を撒き散らかすこともある。なにもかもが気分次第、実に気まぐれな女狐さ――そして彼女は、自分の住処を荒らす相手を絶対に認めない。それが魔王だったとしてもねぇ」
クレラントはむしろ愉しげに笑う。厄介な敵について話しているにも関わらず。
「彼女は貴様の敵ではないのか?」
「敵? そう、敵さ。僕の敵だ。僕があの魂を世界から弾きだしてやった。あいにく、あんまり良い手段じゃなかったみたいだねぇ。千年しか保たなかったんだから」
「ならば此度はどう対処するつもりか」
リグが無表情のまま懸念を示すと、クレラントはよくぞ聞いてくれたと言わんばかりに微笑む。
「封印だよ。殺せないものは地の奥に蓋をして封じこめるしかない。空の彼方に吹き飛ばしたのが大いなる間違いの始まりだった、ってわけさ」
「イブリス卿にそうしたようにか」
「そう、その通り! よくわかったねぇ。魔王には実験台になってもらったのさ。僕が構築した封印術の実験台にね。そして少なくとも、僕が放っといたにも関わらず三百年は保った」
「――――、」
瞬間、リグは黒フードの下で少なからず驚愕を滲ませる。
魔王イブリスに施された封印。それはクレラントにとって単なる実験で、魔王は実験台に過ぎなかったというのだ。これで驚かずにいられようか。
三百年という年月さえ、彼にとっては耐久試験の期間でしか無かったのだ。
「この三百年間で術式も改良が進んだし、もし綻びがあっても定期的に修理すれば良い。つまり、結果的にはだけど、彼女は魔王の代わりに眠ってもらうことになるね」
「迷宮を維持し続けるということか」
「さぁ。迷宮の誕生は僕も関知してなくってねぇ。見過ごせる程度の封印のほころびから魔力が漏えいした影響に過ぎないよ。テウメシアの魔力は魔王を超えるだろうから、迷宮も維持されるんじゃないかな?」
クレラントはいかにも投げやりに言い放つ。興味が無いことは徹頭徹尾どうでも良いのだ。迷宮の存在は人間にとって重大事だが、彼はあまりに人間離れしていた。
リグは息を呑み、いくつもの驚愕を飲み干し、つとめて平静を繕いながら言う。
「――貴様は彼女を封印するためにイブリス卿を復活させる。我々はイブリス卿を復活させるため彼女を封印する。この点で貴様と我々の利害に違いは無いか」
「ああ。強いて言えば、僕にとっては魔王なんかどうでもいい。彼女には見込みが無いからね。だから、用済みになったあとは君たちが好きにすればいいよ」
「そうか」
リグには引っかかる点が多々ある。しかしクレラントこそは魔王イブリスを封印した張本人だ。彼がそう言うなら深く突っこみはしなかった。
「簡単には行かないとまで言ったのだ。しかるべき手順はあるのだろうな」
「もちろん。別に細々とした手順があるわけではないけどね。ちゃんと順序は踏む必要がある」
そう言ってクレラントは話し始める。
とはいえ、特別な手順などは全くない。
彼女を倒す手段は単純明快。まずは巨大な火力を叩き込み、彼女の外殻を剥がすことだ。
化けの皮を剥ぐ、というわけではないが、それに近しい物がある。言うなれば、あの少女としての姿とはテウメシアの外装でしかない。それをまずは削ぎ落とすのだ。
彼女の本体――すなわち、化け狐としての姿を現したあともやることは同じ。大魔法などによる質量攻撃をひたすら打ちこみ、彼女が力尽きるのを待てばいい。無力化を済ませたところで拘束し、封印術式を行使する。
クレラントに言わせてみれば、たったこれだけのことである。
「――ずいぶん簡単なことのように言うが」
「うん」
「それこそ困難なのではあるまいか?」
「そう! その通り。よくわかったねぇ」
「――馬鹿にしているのか貴様」
リグはじろりと目端を釣り上げるが、クレラントは全く堪えた様子がない。
「それなんだよね。まず大前提として、人間じゃテウメシアには絶対に勝てない」
「――――貴様は人間では無いとでも?」
「肉体的には人間を逸脱しているね。でなきゃ千年も生きちゃいないよ。……リグ、君の武術は人間を超えているけど、肉体的には人間の範疇だ。だから、君は絶対にやりあっちゃいけないよ。絶対に勝てないからね」
クレラントは断固として宣言する。
厳密には人間でも役に立つ場合はある。長距離からの火力支援を行う場合である。この時に限ってはテウメシアの幻術から免れることができる。
しかし白兵戦では駄目だ。弓で彼女を正確に狙うのも至難の業。となれば、残る手段は魔術による長距離爆撃しかない。
「どのような理由が?」
「脳だよ。人間の頭ん中。あとは身体の感覚かな。いや、感覚も頭が感じてるんだから同じことか。そいつらは全部テウメシアの手の中さ。君も幻を見せられたろう」
「あれは――――ただの幻ではなかったのか」
「普通の幻術ってのはさ、空間にそれっぽく投影してるんだ。鏡に映った像と同じだね。でもあいつのは違う。――僕らの頭の中に直接ねじ込んでやがるのさ」
クレラントはとんとん、と自らの脳天を突っつきながら示す。
これにはリグも言葉がない。
「達人は腹の中だって鍛え上げられるらしいね? でも、頭の中は流石にどうにもならないだろ。だから、もう一度言わせてもらおう――人間はテウメシアには絶対に勝てない」
それはあるいは、倒せるのは自分だけだ、と言わんばかりの宣言だった。
「ならば、我々を味方に付けた意味などなかろうに」
「それがそうでもない。テウメシアは人間をそばに置いてた。だろ?」
「――――嗚呼」
テオは単独でクレラントとリグを追跡していた。が、颯爽と助けに来たところを見るに、彼女がユエラ専属の部下であることは間違いない。
〈闇の緋星〉が消え去って以来、所在が知れていなかったテオ。まさか彼女がユエラ・テウメッサの傍に仕えていたとは。
「あいつは人間に好かれる。いや、好かれざるをえないと言ってもいいかな。人間が好きなのかもしれないな。理解できないけど。ともかく、そいつらはテウメシアを助けようとする。――分かるかい?」
「言わんとする所は」
リグは面差しを伏せ、頷く。
つまり、本命であるテウメシア自身はクレラントが討つ。そこに邪魔が入らないよう、教団の人間に支援してもらいたい、ということ。
「まぁ、ちょっと拍子抜けしたけどね」
「なに?」
「軍隊の一個や二個くらい掌握してるんじゃないかと思ったからさ。こんなチマチマした街に留まってるなんて思わなかったよ。無理に協力仰ぐことも無かったかもね」
「――――、」
それはリグから見れば過大評価にも見えよう。
だが、その言葉はクレラントの本心そのものだった。
実際に彼女は千年以上前、一国を余すところなく掌握し、全世界を巻きこむ大陸戦争を巻き起こしたのだから。
「――勝ち目はあるのだろうな?」
「さぁー、五分五分だね。僕も真面目にやってきたけど、あいつも強くなってるかもしんないからさ。だから魔王なんてのまでわざわざ引きずり出そうとしてるわけよ」
無礼極まりない物言いだが、リグはもはや気にかけなかった。
結果として魔王の復活と安泰に繋がるのならば気にするまい、と言わんばかりである。
「――使えそうな戦力をこちらでまとめ、後で提出する。好きに使え」
「おー、いいね。そいつはいい。頼むよ。駒はいくらあっても良い」
リグは礼もせずに背を向け、入ってきた扉を出ていく。
彼女もたいがい大したものだとクレラントは思う。得体の知れない男が総主教に成り代わったというのに、さして気にもしていない。
「いかれた教団と、魔王と、僕か。……んんん」
――――ちょーっと力不足かな、と。クレラントは天井を見上げながら思いを巡らせる。どこからか調達できそうな戦力について。




