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お狐さま、働かない。  作者: きー子
千年因果録
52/94

五十二話/追走

 テオは高所に上って身をかがめ、二人の行動を監視する。

 案の定というべきか、彼らの行く先は迷宮街に違いないようだった。


 ――――いささか危険かもしれませんが……。


 少しずつ遠ざかっていく彼らの影。このまま見失ってしまっては元も子もない。

 テオは建物の天井から飛び降りる。外では目立つお仕着せ服を隠すように羽織った灰色の外套が翻る。


 そして、テオはあくまでも距離を開けたまま追跡を継続。

 彼らの行動に変化は見られない。おそらく、まだ、勘付かれてはいないはず。


 ――いよいよ異変が起きたのは、彼らがティノーブルの敷地に足を踏み入れてからだった。


 テオが彼らの足跡を辿るように追っていればいやでも気づく。

 先刻、ユエラへ報告を行うために探し当てた守護霊〈グラーム〉――その姿が忽然と消失しているのだ。


 一般程度の魔術師には発見すらできないように隠蔽が施され、各地に配置されている守護悪霊。それをわざわざ引き上げさせる理由はユエラに無い。数が足りないなら一つを二つに分かてばそれで事足りるのだから。


 消された。そう判断するべきだろう。

 リグが勘付いたとは思えない。彼女は武芸百般に通じる練達の武芸者だが、霊の類は歯牙にもかけない人物だ。

 となれば、誰がやったのかは明白だ。

 正体の知れない謎の少年。彼こそは腕利きの魔術師に相違ない。


 可能性としては、臨時で傭兵として雇い入れた探索者か。しかし、数年来ティノーブルで暮らしているテオも見たことがない人物だ。他国からやってきた教団の信者だろうか。

 それこそありえない、とテオは胸中で否定する。よそからやってきた新参者がリグと肩を並べていようなど。否、その人物が強大な力を有しているのならば。


 ――――例えばそう、ユエラ・テウメッサのように。


 思考を巡らせながら、呼吸をするように追跡は続く。

 街中を行き交う人がいつもより多く、人波にまぎれるには事欠かない。しかしあまり遠く離れれば見失ってしまう可能性もある。


 そうこうするうちに二人は狭い路地へと入りこむ。テオはわずかに躊躇する。閑所では見つかる可能性が高まり、手痛い反撃を受けることにもなりかねない。

 テオは咄嗟に近い建物の壁を駆け上がり、へりに足をかけて強引によじ登る。――頭上からの監視のためである。


 テオは身を低くして彼らの影を追うように並走する。と、その時、囁き合うような声がかすかに聞こえた。


「どうだい?」

「――慎重に痕跡を隠していると見受ける。極めて巧妙な追跡手だ」

「へぇ。君ほどの武芸者がそう言うのか。心当たりのひとつやふたつは無いのかい?」

「ある。一人だけだが」

「なら、そいつの可能性もあるってわけだ。僕に教えてくれたまえよ、どういうやつか」


 彼らの会話を聞きながら疑問に思う。二人の立場は対等のように思えたが、よく注意を払えば少年のほうが尊大に振舞っていると知れる。しかしリグがそのことを咎める様子もない。

 つまり、テオにとっては驚くべきことに、少年のほうが上位者であるのだ。


 それこそ馬鹿な、と思う。イブリス教団普遍主義派において、リグより高位の人物など総主教の他にあり得ないではないか。だが、あの少年はどこからどう見ても総主教ではない。明らかな別人だ。


「――――私の弟子だ。私の弟子の中では最も見込みがあるものだった」

「へぇ。逃げられたのかい?」

「そうだ」

「実力は?」

「彼女は私を超える可能性があった――――暗殺技術においてのみは、だが」

「他では負けないってえわけだ。……女ね。名前は?」


 彼らは歩みを進めながら言葉を交わす。その間、リグが口にする言葉は思いもよらないもの。

 見込みがあると評された覚えは確かにある。だが、最もと言えるほどの評価を受けた覚えは全く無かったから。


「テオ。元奴隷の、教団きっての暗殺者だった」

「大陸人か。どうせ君らの教義に着いていけなくって逃げられたんじゃないかい?」

「――――、」


 少年はせせら笑うように言って歩を緩める。リグは何も言わなかった。

 その言動から両者の上下関係は明らかだ。そして、少年はイブリス教団の信者ではない。臨時で雇い入れた外様の傭兵か――あるいは。


 ――――これ以上は危険ですね。


 テオは見切りをつけ、姿勢を低くしたまま向きを返す。追跡手の存在を気取られているだけでも危険は潜在的にある。早く彼女の行動範囲から逃れるべきだ。


 と、建物の天蓋を飛び渡った瞬間だった。


 とん、と。

 風もなく、音もなく、彼女はテオと同じ高みに立っていた。

 助走もなく、いかにして乗り上げたのか。考えるまでもない――地を蹴るのみで彼女はここまで飛んだのだ。


「――久しいな」


 懐かしい師の言葉に。

 テオは脇目も振らず全速力で逃走を開始した。


 ◆


 いつもは狭いとすら思える街が、今だけはこんなにも広い。

 風のように追い縋るリグの気配を察知し、テオはさらに加速する。


 おそい、おそい、おそすぎる。こんなのでは、あっという間に追いつかれてしまう。

 刃が風を切る音色。

 テオは咄嗟に身をひねり、短剣の投擲を回避。

 裂かれた頬が血の線を引き、それでもテオは速度を緩めない。


 ――だが、回避行動のために減速したのが致命傷となった。


「ずいぶんな反応だな」


 リグの腕がテオの首筋に迫る。

 テオは彼女の手首を掌で払い、すぐさま足刀を抜き放った。


 足先があえなく空を切る。コンパクトに弧を描く足先を掴まれずに済んだことをよしとする。

 リグは一歩飛び退く。間合いを開いたまま、同じ建物の屋上で二人は相対する。


「最低限の礼儀は払うべきだ。そう躾けたはずだが、テオ」

「あなたに従う理由は私にはありません」


 テオは端的に言い捨てる。

 明白な拒絶の意思表示。

 リグはそれに応じて懐から短剣を抜き放った。


「結構。おまえがその気なら私も容赦なく応じよう」

「容赦なんて端からするつもりも無いでしょう」


 テオと同じく、彼女も淡々として無表情。

 否、テオ以上の無感情とでも言うべきか。

 風一つ、波一つない海のような静けさ。静謐をたたえる水流めいた自然さで、リグは足を滑りだした。


「――――、」

「……くッ!」


 無拍子で突き出される短剣。

 テオも懐から短剣を抜き放ち、迫る剣身を下から掬い上げる。

 けたたましく響きわたる金属音。


 一撃を流れるようにいなしながら、テオは手に走る衝撃に愕然とする。

 掌に痺れが残るほどの威力。それは身体能力や筋力の差では説明がつかない――惹きつける魔素量の差という圧倒的な隔絶が、テオとリグの間には存在していた。


「この程度か」


 リグは跳ね上げられた剣身をぴたりと宙で止め、距離を開けたテオに食って掛かる。

 ひゅん、と鮮やかな円弧を描く短剣の刃先。

 テオはそれを短剣の半ばで受け、ほとんど弾き飛ばされるように後ずさる。魔素を帯びた一撃の威力に圧倒され、反撃の糸口が見つからない。


「先に言っておくが、殺すつもりはない」


 リグはテオとの距離を詰めながら淡々と言う。

 それはテオを安心させる言葉では断じてない。むしろテオの胸中をかき乱すものでしかない。


「何が目的か。誰の差金で動いているか。全て吐いてもらう。何かも、余すところなく、全てをだ」

「……そう、でしょうね」


 リグの言葉はテオの予想を何ら裏切らなかった。

 だが、彼女の詰問を受けて耐え切れる自信は全くない。テオはいつでもそうだった。思い出すだけで身の毛もよだつような拷問の数々。


 テオは改めて相対し、確信する。

 彼我の差は、単なる精神的な問題ではあり得ない。

 純然たる力量の違いによって、テオは必然的に敗北するだろう。


「大人しく全てを吐くならば苦しめはすまい――――痛みを感じぬうちに死ぬが良い」


 リグは淡々とそう言い捨て、屋根を蹴った。

 瞬間、彼女の姿がテオの視界から消失する。

 消えた、としか言いようもない急加速――瞬時に最高速度へと達する足運び。にも関わらず音もなく、風もなく、気配だけが至近に迫る。


「――――ッ!!」


 一撃、二撃、三撃、四撃。

 次から次へ繰り出される連撃をテオはすんでのところで躱し、いなし、弾き返す。

 だがそれも時間の問題だ。リグの猛攻は一閃ごとに拭いがたい衝撃を残し、テオの動きを鈍らせる。


 五合。甲高い金属音が響き渡り、テオの手首から先の感覚が消失する。

 意識的に短剣の柄を握りこむが、いつ掌を離れてもおかしくはなかった。


「――――、」


 とん、とかすかな音色が耳に届く。

 それは彼女がテオの懐に踏みこんだ足音。

 十中八九、リグはテオを殺すまい。テオの頭の中にある情報を余すところなく吐かせるために、生きたまま意識を刈り取るつもりだろう。


 それだけが唯一、テオの付け入る隙とも言うべき瞬間だった。


「――――穫った」


 ずん、と。


 リグの握る柄尻がテオの喉仏をまともに打ち据える――少女を呼吸困難に陥らせ、続けざまの一撃で意識を刈り取る算段だ。

 もう一方の手で振り落とされる手刀がテオの頭蓋をとんと打ち、


 ――――ユエラ様、どうか、あなたの所有物わたしを傷物にすることをお許し下さい――――


 瞬間、テオは脇腹に自らの短剣をえぐり込んだ。


「――――ッ!」

「かッ……ふッ……!」


 強制的に落ちかけた意識が劇的な痛みに引きずり起こされる。

 抜けてしまわないように深く突き立てた一閃。刃先はお仕着せ服を突き抜けて薄褐色の腹を刺し、しとどに血色を滴らせる。


 痛い、痛い、痛い、でも――――これで、逃げられる。

 テオは喉を激痛に引きつらせながら、それでも必死にきびすを返して走る。


 リグほどの達人であろうとも、一撃を打ち込んだ直後には隙ができる。それは人体構造上の必然だ。伸ばした手は、引き戻さなければまた伸ばすことはできない。


「――――無駄だ。どこまで逃げようとも」


 リグの声が後ろから聞こえる。

 当然、追ってくるだろう。彼女はどこまで追ってくるか。街中であることを厭うとも思えない。迷宮街ティノーブルにおいて流血沙汰は日常茶飯事だ。

 周囲に迷惑が及ぶならばまだしも、迅速に片が付く荒事は九割方見逃される。ティノーブルの治安を維持するのはあくまで自治勢力に過ぎず――つまり、自治以上の力を発揮し得ないからだ。


「ッ……は、はッ……!」


 体躯、速力、身体能力、そして行使する魔素量。全てにおいてリグが上回るこの状況、テオが逃げきれる可能性は絶無である。おまけに少女は手負いなのだ。数分間は無呼吸でも走り回れるが、そのうち深刻な呼吸困難に陥るはずだ。


 だが、構わない。

 テオには逃げ切れるという確信があったから。


 駆け走り、屋根から屋根を飛びつたい、人目の多い大通りへ疾駆する。

 先に駆け出したリードをなんとか維持し続ける。


「私が手を引くと思ったのならそれは淡い期待だ。私は貴様を逃がさない。私を追跡したという咎無くとも、私は貴様を逃がさない」


 そうだろう。彼女はテオを逃すまい。

 そんなことはテオ自身が分かりきっている。だから、テオは建物の縁を蹴り飛ばし、人混みの行き交う大通りに飛び降りた。


「無駄だと言ったろう」


 テオは着地とともに、脇腹へ突き立った刃を抜く。「お、おい、あんた……!」「怪我してるじゃねえか!」周囲の人々がにわかにざわめく。


「離れてください。巻きこまれますよ」


 テオは息を喘がせながら回らない舌で声をつむぐ。正確に警告できたかあまり自信がない。

 そして彼女は空を仰ぎ見る。リグはなおもテオを見据え、空に身を翻らせた。人前に躍り出ることも全く厭わぬように。


「疾く済ませよう。人が集まってくる前に」


 リグはまるで鳥が降り立つような鮮やかさで石畳に着地。テオを眼前に捉えたままゆっくりと歩を進める。


「無駄な足掻きをしてくれたものだが」

「いいえ」

「――――?」


 テオは端的に首を横に振る。リグはにわかに眉をしかめる。

 瞬間。


 リグの周囲――全方位三百六十度を取り囲むように無数の短剣が視覚化した。


「ッ!?」


 リグは事ここにいたり、初めて驚愕をあらわにする。

 それと同時に、彼女は人混みの中からひょこりと現れ、テオの前に立ちはだかった。


「すまぬ。遅ぅなったな」

「申し訳ありません。ユエラ様の所有物ものを傷つけてしまいました」

「構わぬ。おまえは私のものだ。おまえが傷ついたのならそれは私の責任だ。私がおまえに命じたことゆえな」


 ユエラ・テウメッサ。

 彼女は二尾のしっぽをぶわと膨れ上がらせ、灰毛の狐耳をピンとそばだてながらリグを睨めつける。


 そう。テオには確信があった。

 守護霊〈グラーム〉の消滅という異常事態が発生したのだ。ユエラがそのまま安寧としているわけがない。必ずや原因究明のために現場へ駆け付けるはず。

 ならばテオは〈グラーム〉が元いた地点に駆け戻れば良かった――ユエラはそこに必ずやいるのだから。


 リグはユエラの姿を一目見て当惑する。

 まれに見るであろう狐人テウメッサ。それを眼にしたがゆえの困惑か、あるいは。


「貴様は――――」

「おう、やってくれおったのう、おぬし。おぬしが何ものかは知らんが――ちょいと仕置きをくれてやる」


 何はともあれ問答無用、と言わんばかり。

 ユエラがぱちんと指先を爪弾くやいなや、無数の短剣が一斉にリグへと殺到した。


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