四十三話/敗走
エルフィリア・セレムの敗北。
アルバート・ウェルシュは膠着状態へ。
これらの報告を受け、ヨハン・ローゼンクランツはついに脱出を決意した。
ようやく得た権力の座を放棄するという選択。それは彼にしてみれば命を捨て去る選択にも等しい。
「クソッ、裏切り者どもめ……!! 私に同調しておった分際で……!!」
ヨハンは数名の私兵を率い、脱出用の隠し通路を進む。
道中、彼は何度かの襲撃に遭遇した――自らの側に与したはずの傭兵たちの手によるもの。
おそらくは勝ち馬に乗ろうとしたのだろう。敗色濃厚なヨハン司教の首を取り、ティノーブル支部長に返り咲くはずのキリエ枢機卿に媚びを売る。実に鼻がよく利く連中だった。
ヨハンはそういった手合を一人残さず撃退した。高齢を迎えてなお引き締まった肉体は決して伊達ではない。自ら肉体強化の聖句を唱えてメイスを振るい、木っ端の傭兵どもを薙ぎ払う。
彼の私兵も相応の実力を有しており、市井の傭兵に比べれば士気は遥かに高い。統率の取れた動きで傭兵を包囲し、的確に仕留めていく。
「……追っ手はまだかかっておらんな?」
「はい。ですが、アルバート殿が敗れれば……」
「分かっておる。……クソッ、何が〈勇者〉の血族かッ! あの程度の力と知れておれば、誰があのような小僧に賭けるものかッ……!!」
そう吐き捨てるものの、彼が見誤ったのはアルバートの力量ではない。ユエラ・テウメッサとその配下の力量をこそ見誤ったのだ。
彼女の配下すらアルバート以上の傑物揃いとは、誰しも――そう、誰しもが思いもしなかった。
「……まずは生きのびることを考えましょう、司教様。必ず再帰の機会はあると存じます」
「その通りです。あれはもはやこの街だけで管轄できる代物では到底ございません。他方からの協力が必要でしょう」
忠勇なる兵たちは私見を述べてヨハンを激励する。何よりも相手が悪かったのだ、というように。
「……私は見誤っていた。ユエラ・テウメッサの脅威度は、私どもの見積もりを遥かに上回るほどのものだった――そう認めざるを得ませんな。そして、我々はあれを手持ちの札だけで凌ぎ切ろうとした。それこそが最大のあやまちだった……」
ヨハン司教は足早に隠し通路を進みながら首肯する。
状況は絶望的だ。街の有力者はこぞってキリエ枢機卿に寝返り、ヨハンは司教位を剥奪されるだろう。首には賞金がかけられ、もはやティノーブルには留まれまい。
だが、まだ手はある。アズラ聖王国の他、各国に迷宮街の窮状を伝えるのだ。
ヨハンにはおよそ二十年近く迷宮街でしのぎを削った経験がある。他国でもやっていける自信は十分にあった。
魔王にも匹敵しようかという魔力を有する狐人。
多くの国は興味を持つだろう。あるいは危機感を抱くだろう。既知の情報は多かろうが、ヨハンしか知り得ていない情報も少なくはないはずだ。彼は極秘情報――監察官クラリス・ガルヴァリンの報告をほぼ全て知り尽くしているのだから。
国からの信任を得れば、いずれティノーブルに舞い戻るのも夢ではない。
思えば、二十年前もそうだった。第一次迷宮遠征。あの時、ヨハンは一介の祓魔師に過ぎなかった。彼はアズラ聖王国――本国公教会の探索者として、第一次迷宮遠征に参加した。
当時、ヨハンはあらまほしき成果を得た。〈封印の迷宮〉を聖地として崇める邪教の信徒ども。ヨハンは彼らを打ち払い、迷宮街に信仰の光をもたらす素地を築くことに貢献した。あれこそがヨハンの原点と言っても過言ではないだろう。
あの時と同じこと。それも一からのやり直しというわけではない。
ヨハンはそう考え、思ったほど絶望的な状況ではないと認識を改める。むしろ別の道が開けたとも考え得るのではないか。
まずはどの国に向かうべきか。アズラ聖王国が望ましいのだが、関所に引っかかる可能性が極めて高い。逃亡生活になる以上、時間がかかっても慎重に事を構えるべきだ。
「司教様、そろそろ出口が」
「うむ。確認を頼めますかな」
「はっ!」
兵の声に応じ、思考をめぐらせる。
先行する兵の後ろ姿を見ながら、ヨハンはついぞ気づかなかった――――
まず脱出に成功しなければ、彼の計画はただの妄想でしかないということに。
「……どうかね?」
ヨハンは確認に向かった兵にうかがう。
隠し通路は公教会の敷地外――礼拝所の裏側に繋がっているはずだ。
公教会支部とはそれなりに距離があり、人員を配置しておく意味は限りなく薄い。
兵は出口を塞いでいる上蓋をこじ開け、顔の半分だけを地上に出す。
「……はっ、周囲を確認したところ異常――――ガバッ!!」
瞬間、彼は奇声を上げるとともに全身を地上に引きずり出された。
後には何事も無かったように静寂が訪れる。
「な、なんだ? 何事か……」
「司教様、お下がりくださいッ」
突然の異常事態にいぶかるヨハン。残る四人の兵たちは彼を守るために前に出る。
程なくして、痩せた人影がぬぅっと通路内に降り立った。
――黄土色のローブに身を包んだ細身の女。顔の半分は砂色の髪に覆われ、眼の色や表情すらもうかがえない。
彼女は口元だけをニコリと三日月の形に歪め、言った。
「きみが――――きみが、ヨハン司教かな?」
◆
ユエラはテオ、フィセルからの報告を受ける。
両名いわく、支部長室はすでに――案の定というべきか――もぬけの殻。
ユエラは少し考え、ちょうど近くにいたリーネに言う。
「ここに確認済みの抜け道があるんだが、どうじゃ? 燃やすか?」
「燃やすよ」
――かくしてリーネは隠し通路の制圧へと向かった。
「私たちもお供します! もしものことがあるかもしれません……!」
アリアンナを筆頭にリーネ隊の魔術師たちはそう申し出たが、
「これは私の問題。だから、外で待機して。私が合図したら乗りこむように」
リーネはあくまでそう言って譲らなかった。
指揮官としては失格の判断だろう。自分一人で乗りこむ戦術的意味はほとんどない。敵が多数であれば窮地に陥るかもしれない。しいて言えば偵察の意味はあるが、それこそ指揮官のやることではない――総攻めで一網打尽にするほうが確実に決まっている。
それでもリーネは譲らなかった。譲るわけにはいかなかった。
津波のように湧き起こる膨大な殺意の波がリーネを駆り立てた。抜け道を塞いだ蓋が動いただけでもリーネの心は踊り狂った。リーネはすかさず手を伸ばし、顔を出した男を一万度の炎で焼き殺した。溢れんばかりの歓喜がリーネの心を満たした。このために生きてきたんだ、とすら思った。
――だが、この男はヨハンではない。
リーネは上っ面だけ冷静さを取り繕って言う。
「危ない時は狼煙を上げるよ。良く見ておいてね」
リーネ隊の面々は息を呑んで頷くほかない――これほど鬼気迫る姿を目の当たりにした後では。
次の瞬間、リーネは揚々と隠し通路に突入する。
最初に目に入ったのは四人の兵士――そして、彼らの後ろに控える一人の聖職者。
「きみが」
リーネは聖職者の男の手を盗み見る。
彼の両手はいずれも白い手袋に包まれていた。
「きみが、ヨハン司教かな?」
ニコリ、と。
リーネの口元が、この上なくにこやかな笑みに歪む。
「な……何者か、賊徒め!」
対する聖職者の男――ヨハン司教はリーネの疑問に応えず、配下に命ずる。「おまえたち、奴を打ち払え!」と。
「『来たれ灯火の炎』――」
リーネが詠ずる。瞬間、ちいさな炎が彼女の周囲を旋廻し始める。仄暗い通路が薄ぼんやりと照らされる。
四人の兵士はそれを見てにわかに慌てふためく。いくら簡易な魔術とはいえ、その詠唱速度があまりに常軌を逸していたからだ。
「し、司教様、あれは危険です。我々では止められるかどうか。今すぐ元の道をお逃げ下さいッ」
「馬鹿なことを言うのではない! とっくにあの建物は押えられているに決まっておる! 今さら戻れるものか!!」
兵士の一人が提言するが、ヨハンはそれを一蹴する。
まだ希望が潰えたわけではない。そんな焦りが男の表情に浮かぶかのようだった。
「――やっぱり、きみが、ヨハン司教か」
司教、という呼称を聞いてリーネは言う。
名前こそ呼ばれていないが、この状況下ではヨハン司教以外にはあり得まい。
砂色の髪に覆われた眼が狂的な光を帯びる。煤けた頬が微笑みをかたどる――あまりにも迅速な詠唱が青白い唇から紡がれる。
ヨハンはそれに気づかなかった。――気づけなかった。
「とにかくやるのだ!! 見たところ一人の木っ端魔術師、討たれる前に討ち果たすが鉄則ぞ!」
「はっ……!!」
かくなる上は、兵士たちも突撃する他はない。
狭い通路の中で扇状に展開した四人の兵士たち。
リーネは彼らを何の気なく見渡し、そして、ぽつりとつぶやいた。
「『花咲け火花』――――『展開け』」
――――炎魔術・扇端アルヴィアルフレア――――
同時、リーネはひゅんと青白い腕を振るう。
その動きに同期して、リーネの前方を紅蓮の炎が薙ぎ払う。それは展開した兵士たちを余すところなく巻き込み、彼らを灼熱の渦中に叩きこんだ。
「が――――ぐあ、が、ぎゃあああッ!?」
「あづ……あが、ひいぃぃぃッ!?」
先手を取るために先駆けた兵士はすでに手遅れ。彼は瞬く間に臓腑まで焼き尽くされ、痛みを感じる間もなく死んだ。
踏み込みが手ぬるかった兵士はなお悪い。足元から頭頂に至るまで発火しており、脳天はろうそくのように燃え上がっていた。すぐにも脳内のタンパク質が固形化して死に至るだろう。
炭化して黒焦げになった死体は三つ。リーネはそれらを一瞥もせず、取り逃がした一人飲みに視線を注ぐ。
殺す。恨みはないが殺す。彼らがヨハン司教の護衛である以上は殺す。炎の壁に守られながらリーネはさらに詠唱を重ねる。
「『解き放て』」
瞬間、炎の壁がとぐろを巻くように蠢きながら生き延びた一人に食らいつく。それはさながら獲物に牙を剥く蛇のよう。
「が、ひ、ぐあああッ!! た、助け……し、司教様、おにげくださっ――――」
悲鳴、絶叫、そして実に献身的な遺言。
それを最後に兵士は事切れた。身体の内側に潜りこんだ炎の蛇に全身を焼かれ、激痛と苦悶にまみれながら死んだ。
リーネは大気中の魔素を散らして炎を消し、残った最後の獲物――ヨハン・ローゼンクランツに目を向ける。
彼はその場で立ち尽くし、肩を震わせながら、しかしゆっくりと後ずさりを始めていた。
「後はきみだけだよ、ヨハン司教。……これで、きみを守るものは、もういない」
「ひ……や、やめたまえ! 近づくなッ! 来るんじゃない!!」
ヨハンは引きつった声を上げながら一歩ずつ後ずさる。靴の踵が地面を擦る音がする。
リーネは淡々と歩を進める。こつこつと硬い音を立て、憎き仇との距離を詰めていく。
「逃げても無駄だよ、ヨハン司教。きみがどこまで逃げても行き着く先は変わらない。公教会は私たちの手に落ちた。きみはもうおしまいだよ。きみの裁きは誰に委ねられるか、事はもうそういう段階なんだ」
「だ……黙れ、悪魔の狗めがッ! 騙そうとしてもそうは行くものか! 私は貴様等なぞに屈さんぞッ!!」
ヨハンはそう叫ぶなり踵を返し、全力で走りだす。彼自身、「押えられているにきまっている」と言ったことも忘れたように。あるいは目の前の現実から目をそらすかのように。
「『来たれ灯火の炎』」
リーネはもう一つ旋回する炎を呼び出し、それをヨハンに向けて射出した。
その火が人体を焼くことはない。あくまで周囲を照らす灯火に過ぎない。だが、炎である以上は周囲の酸素を燃焼させることに変わりはない。
「……『焼きつくせ』」
リーネがその一言を加えると、ヨハンを追跡する炎は急速に周辺の大気を燃やし始めた。
ヨハン周辺の酸素が激減し、代わりに二酸化炭素は急増する。その影響はすぐにもヨハンの身に表出した。
「がはッ!? ……あ、なにをッ、ぐあ、うげ……!?」
そう長い距離を走らないうちに倒れこむヨハン。彼は地面に膝を着き、喉元を押さえながらゲホゲホと激しく咳きこむ。
このまま灯火を燃やし続ければヨハンは死ぬ。脳に空気が回らなければ必然的にそうなる。だから、リーネはあえて灯火をヨハンから遠ざける。
徐々に、少しずつヨハン周辺の空気が正常化していく――だが、人体への悪影響はそう簡単には消えなかった。
「いいザマだね」
リーネは再びゆっくりとヨハンに歩みよる。彼はもはや鈍器を握ることも、立ち上がることすらもままならない。運が悪ければ脳に障害が残るだろう。
「ぐ……っ! き、さま……なんのつもりだッ……!? なんの恨みがある……!?」
リーネはその言葉を聞いて思わず笑ってしまう。まさか本当に恨まれているなんて思いもしないんだろう、と。
ヨハンはさすがに訝しむようにリーネを見上げる。
なぜさっさと殺さないのか。まるで甚振るような手口。だが、ヨハンはそこに一抹の活路を見出したようだった。
「……ひ、人質にでもするつもりか? ならば、今すぐ貴様の主人を呼んで――」
「ううん」
リーネはその言葉をあっさりと否定する。
「きみを生かしておく意味なんて全く無いし、価値もないよ。ただ、確認したいことがあるんだ。返答次第ならきみを殺さずにおいてあげても良い」
「……ぐ……!」
ヨハンは屈辱と酸欠に顔を赤らめる。しかし現状、彼の圧倒的不利は覆しようもない。
リーネは口元をにっこりと三日月の形に歪め、言った。
「きみの手袋。外してみてよ」
「……これは、古傷を隠すためのものに過ぎませんな。外す意味は……」
「いいから」
有無を言わせぬ口調で命ずる。前髪に目元をすっかり覆われたリーネの面差しが異様な雰囲気をかもしだす。
ヨハンはやむを得ず、震える手でゆっくりと白手袋を両方とも外した。
――――そこには。
「……ふふっ」
リーネはまた思わず笑みを漏らしてしまう。
そこには、ユエラに見せられた幻覚の中のものと同じ――焼けただれたような傷跡がくっきりと残っていた。
完治しているのは間違いないが、その形跡は間違えようもない。
「やっぱり、きみだったんだ。……その火傷。二十年前のものなんでしょう?」
「な……なぜそのことを知っている!? 貴様、公教会の関係者かッ……!?」
「そんなわけないよ」
この期に及んでも彼は思い至らなかった。
否、彼が思い当たるはずはなかったのだ。
二十年前、〈封印の迷宮〉近辺で行われた異教徒虐殺。
それは陣頭に立った公教会信徒にとって、誉れ高き戦勲のひとつに過ぎぬのだ。
「そう。覚えてないんだね」
リーネは淡々と言い、再び灯火の炎をヨハンに近づける。油断して反撃をもらっても詰まらないから。
「あ……っが、あ、ぐ……こ、これを、ひ、引いてくれ……ッ!!」
「もちろん。死なない程度に死にかけたら引くよ」
「お……あ、ぐ……ッ!!」
ヨハンは喉を掻きむしって酸欠の苦痛にあえぐ。
「苦しい? 苦しいよね。だから、何回でも繰り返してあげる。絶対に殺さないよ。絶対に殺してなんかあげない。苦しめて、苦しめて、苦痛に悶え苦しんで、殺してくれってお願いするようになって――そうしたら、考えてあげるよ」
リーネはヨハンに淡々と告げ、自らの前髪を掻き上げる。
あらわになるは山吹色の隻眼。そしてもう一方の目の周りは――ヨハンの掌にも負けず劣らず焼け爛れ、無惨な傷跡を残していた。
「な……ま、まさ、かッ……」
ヨハンは酸欠に息を喘がせ、荒い呼吸を繰り返す。大きな肩を震わせる。
「覚えていないなら、思い知らせてあげる。時間をかけて。……覚悟してよ、ヨハン司教」
リーネは殺意を懸命に抑圧し、むき出しの嗜虐心を振りかざす。
そこには打算も何もない。あるいは義憤ですらない。復讐さえもはや建前でしかないかもしれない。
ただ、リーネを駆動させる衝動を叩きつけるだけの時間が始まった。




