三十八話/矢落とし
「――聖堂騎士団が裏切っただと!?」
ヨハンが聖堂騎士団の出動を命じたのはつい先ほど。
それから間もなく届けられた報告に彼は目を剥き、拳を机に勢い良く叩きつけた。
「馬鹿な!! 聖騎士までも奴の支配下に置かれたというのか!?」
支部長室。あまりの怒りに狂態を晒すヨハンに対し、アルバートはあくまで冷静に告げる。
「いえ。目視確認しましたが、ユエラ・テウメッサに操られた個体とは明らかに様子が異なります。――説得された、ということかと」
「そんなことがありえるわけがない! 聖堂騎士団の存在意義を忘れたか!? あれは公教会の剣だ!! 剣がその担い手を刺すようなことがあってはならない!!」
「ありえる、ありえないの問題ではありません、ヨハン司教。実際にそうなったのです。彼らが操られているのか、そうでないかは議論の余地があるでしょうが」
もっとも、議論に費やす時間などありはしない。
アルバートは先手を打っての制圧を試み、失敗した。かすり傷程度であろうとダメージを与えられれば、そういう目論見であったが。
せめて彼女――クラリスだけでもこちら側にいれば。否、無い物ねだりをしても仕方がない。
「俺は防衛に参加します。傭兵どもでは守り切れないでしょうし、落ちるのは時間の問題でしょうが」
アルバートは足早に踵を返し、背を向ける。大勢はもはや決したようなものだが、逆転の目はある。それに、降りるにはもう遅すぎる。
「ま、待ちたまえ、アルバート殿!!」
「なんです?」
立ち去ろうとしたところを呼び止めるヨハン。
彼は往時の余裕を完膚なきまでに喪失していた――無理もない。彼に打てる手などもう何も無いのだから。
「こ、ここに敵が迫っているのだろう。ならば、護衛が……」
「その通りです。傭兵から回しましょう。幸い士気を保っているものもいます」
迷宮街出身の名家に所属する傭兵たち。彼らの雇い主もまたヨハン司教に賭けたのだ。今さら降りることはできない。
「ば、馬鹿なことを仰る! 彼らではとても……聖騎士を相手にして敵うはずがないではありませんか!」
「同感です。ですから、逃げるつもりならば早いうちに逃げられたほうがよろしいかと。……そうなれば、この部屋に戻ってくることは二度と無いかと思われますが」
アルバートには彼を守ってやる義理は無い。計画に乗ったが死ねばそれまでだ。極言、彼が死んでもアルバートの支障にはならない。
一見して絶望的に思える現状だが、形勢逆転する手段がひとつだけある。
ユエラ・テウメッサを仕留めることだ。
今回の件によりユエラ・テウメッサの脅威度は数倍にも跳ね上がった。ヨハンの想像などはるかに超えて、彼女は本物の怪物だったのだ。
単独で数十人以上の人間を操り率いるなど、化物以外のなにものでもない。討伐の正当性は十分にあるだろう。
討伐を果たすためにはどれほど小さなリソースも無駄にするわけにはいかない。何をいわんや、有用な戦力をヨハンの護衛に割くなど言語道断だった。
「う……」
ヨハンが権謀術数をめぐらせて奪い取った地位。それを捨てることは大変な苦痛を伴うだろう。おまけに返り咲きの芽は皆無に等しい。
だが、逃げなければ命すら失うことにもなりかねない。
「……今は一分一秒が惜しいので。これにて失礼いたします」
アルバートはそう言って支部長室を退出する。
部屋の中に残されたのはヨハン・ローゼンクランツただ一人。
「……私は……」
――――どこで間違ってしまったのだ?
ヨハンは迫りくる現実の前に膝を屈し、崩折れる。
あまりに短すぎた天下。それがもはや変えようのない現実だ。例えアルバートがユエラを討ち果たそうと、重大な責任問題になることは免れえまい。ヨハンは支部長の座から引きずり降ろされ、他の司教が成り代わる。
にも関わらず、この期に及んで命よりも権力の椅子を優先する。それがヨハン・ローゼンクランツという男だった。
ヨハンはあらん限りの思考を巡らせる。事の責任から逃れるための方策を全身全霊で考えぬく。
――そんなものはどこにもありはしないというのに。
◆
聖堂騎士団は足並みを揃え、公教会内部に突入する。
その整然とした進軍に、内部の警備に当たっていた傭兵らは一瞬反応できなかった。
「……片付いたのか?」
「にしてはえらく静かだったような……」
入り口を抜けてすぐの大廊下に配置されていた傭兵は三小隊二十人ほど。
「散開せよ! 敵を包囲して叩け!!」
「……なッ!?」
聖騎士長レイリィの命令一下、武器を構えて小隊ごとに分かれる聖騎士たち。
彼らはさながら暴風のごとく警備の傭兵たちに殺到した。
「お、おまえら、裏切りやがったのかッ!?」
「我ら信仰の御旗のもとに」
「抵抗の意志なくば武器を捨てよ」
「ほざけっ……がぁッ!?」
聖騎士の重装備はわずかに機動力を減じさせたが、練度の差はそれを補って余りある。
味方であったはずの聖堂騎士団の裏切り。傭兵たちはその衝撃から立ち直ることもできず、瞬く間に制圧されていく。
「無闇に殺す必要はない。確実に無力化せよ」
「はっ」
迷宮街に根ざす有力者に所属する傭兵たち。彼らは〈封印の迷宮〉に挑む探索者でもあるのだ。闇雲な殺害は公教会への反感にも繋がる。できる限りは捕縛に留めたほうが良い。
そして、聖堂騎士団の数と質はそれを十分に可能とする。
「次に各部屋の制圧を。非戦闘員には決して危害を加えるな。警告を忘れぬように!」
「はっ!」
全隊に指示が伝わるやいなや、聖騎士長直率以外の小隊は散開して行動を開始する。
聖堂騎士団の最たる目的はキリエ枢機卿の身柄の確保。そのためには地下への突入が必要不可欠だが、これには大変な危険をともなう。広く展開できる地上階とは異なり狭く、逃げ場のない袋小路でもある。上から敵が雪崩れ込んでくるのを防ぐにも、まずは一階を制圧しておくべきだった。
「レイリィ聖騎士長、突入の許可を。一刻も早く枢機卿猊下をお救いしなければ」
と、思いつめた顔で進言するのは祓魔師アルマ・トール。彼はクラリスと同様、直率として待機を命じられていた。
「しばし待て。急くのはわかるが、だからこそ急いではならない。地下で乱戦にでもなればそれこそ枢機卿猊下のお命を危険に晒しかねない。迅速に安全を確保すべきだ」
「た、確かにその通りではありますが、今こそ命の危険に晒されているとも知れないのです」
「……すでに聖堂騎士団の叛逆が上に伝わった可能性は低くないでしょう。急がねば、彼が出張ってくることにもなりかねません」
懸命に言いつのるアルマの横からクラリスが口添えする。
アルバート・ウェルシュ。彼がこの場に現れれば、戦況は一変するやもしれない。ある程度の危険は許容したうえで早期に突入すべき、というのが彼女の言い分だった。
「……承知した。私がタイミングを見計らう。……クラリス司祭殿の言う通り、多少のリスクはやむを得ないものとする」
レイリィは直率の聖騎士らを見渡し、「付き合わせるぞ」とくぐもった声で言う。
「今さらですな」
「死ねば主のお膝元に還るのみ」
「危険など百も承知の上」
「そのリスクは我々が背負わせて頂きましょう」
口々に冗談とも付かない言葉を真面目くさった声で口にする。その表情は誰も彼も銀兜に覆われてうかがえなかった。
「制圧完了!」
「こちら、制圧完了しました!」
「非戦闘員四名を確保!」
「警備三名を確保!」
各部隊からの報告を受け、非戦闘員は外の安全地帯まで連行。警備の傭兵は拘束して部屋の隅に転がしておく。敵にまで構っていられる余裕はない。
公教会ティノーブル支部の建物は、ひとつの階層がまるで城塞のように広大だ。十にも及ぶ報告を受けてなお、一階の制圧が完了したとは言いがたいが――
「集合せよ! 第ニ小隊から第五小隊まではこの場に残り一階を保持!」
レイリィは決断を下す。聖堂騎士団の半数以上を一階に残し、即時の突入を決定。
「残るは現時点より地下へ突入、枢機卿猊下の奪還を最優先とする! 以上だ、私に――」
続け、と。
レイリィがそう言いかけたまさに刹那、ひゅんと風を切る音が遠くからにわかに響き渡った。
「――盾、構えッ!!」
レイリィが咄嗟に命じ、聖騎士たちは即応する。
それだけで問題はない、はずだった。
自然に魔素を招き、容易に魔力を帯びるという特異な性質を持つ白銀。これを元に製造された装備は非常に強靭であり、並大抵の魔術なら打ち消してしまう。そして聖騎士たちは一人の例外もなく、白銀の鎧と盾を身に着けていた。
その鎧と盾は、一発の矢によっていともたやすく撃ち抜かれた。
「――――がッ……!!」
ぐらりと倒れこむ一人の聖騎士。
彼の盾には丸い穴があり、その空隙は彼の脇腹から背中にまで抜けていた。
「――下がってくださいッ!!」
真っ先に叫び声をあげたのはクラリスだった。
彼女は、その矢の脅威を誰よりも知り尽くしていたのだ。
さりとて、隊列を組んだ騎士とはそう簡単に後退できるものではない。密集陣形を基礎とする戦法が裏目に出た。
レイリィが咄嗟に問いかける。
「散開は――」
「いけませんっ、狙い撃ちにされますッ!」
クラリスは答えるとともに前方へ飛び出す。
その間にも二、三の矢が飛来し、聖騎士たちを容赦なく無力化していく
魔力の尾を引く黄金の矢。
それは実体を持つ矢ではない。魔素から生まれたエネルギーをそのまま弓引くように放たれた矢。
なればこそ、白銀が帯びた魔力を突き破る程度の芸当は造作もない。
「天に坐す主よッ……!」
絞り出すような祈りと悲鳴が響く最中、クラリスは矢避けの加護を詠唱する。
引用するは矢面に立つ聖者を"矢が避けた"とする故事成語。射撃の軌跡が徐々に、かつ微妙に狂わされて狙いを外れていく。
「この場は抑えます! 今のうちに後退をッ!!」
一時的に攻撃が収まるが、安心するには程遠い。次の矢が飛んでこないのは、こちらの種を知り尽くしている証拠だ。
矢避けの加護が効果を発揮するのは長距離からの狙撃のみ。中近距離からの射撃には十分な影響を与えることができない。
「ですがッ、今退いては――」
「……しっ」
声を荒げかけるアルマだったが、そこでレイリィは一部だけに聞こえるよう耳打ちする。
密かに地下へ向かわせるつもりか。今しか勝機がないのは確かだろう。この場に相手を釘付けにしている間に、迅速に枢機卿猊下を救出するしか無い。
程なくして、大廊下の中心を貫く赤絨毯の向こう側――吹き抜けの大広間から彼女は姿を表した。
「……残念だな、クラリス。あなたがそっちにいるなんて」
下肢をぴっちりと包むショートパンツ、上肢を覆う緑衣の外套。肩まで届く髪を緑のずきんに覆い、彼女は伏し目がちにクラリスを一瞥する。傍目では十代の半ばほどにしか見えないような少女。
鮮やかな碧眼、亜麻色の髪の若き乙女――〈聖弓の射手〉エルフィリア・セレム。
彼女は片手に木の弓を、片手では魔力の矢をつがえ、クラリスに狙いをつけた。
「それは私の言葉です。このようなことに、どうして、手を貸されたのですか」
「あたしはアルバートさまの従者だもの。手を貸さない理由がないよね?」
「……あの方を諌められるのは、あなたしかいなかったでしょうに」
「でも、クラリスもアルバートさまを信じてたんだよね? じゃなきゃ、こんなこと見過ごすわけがないもの」
クラリスはエルフィリアと言葉を交わしながら時間を稼ぐ。
彼女とは肩を並べて戦ってきた戦友だが、実際にしのぎを削り合えば結果は見えていた。支援専門の白魔術師が生粋の野伏と戦って敵うわけがない。
「その通りです。信じていました。――そして、今はそうではない。私は、彼のやり方を受け入れるわけには参りません」
「言っとくけど、あたし、手加減しないから。……クラリスも、撃てるよ。アルバートさまのためなら、あたしは、誰だって撃てる」
エルフィリアの射撃は弓術でありながら魔術にも似ている。魔力の塊で矢を象り、弓につがえて放つという工程を踏むことにより、威力を倍増させているのだ。
言うなれば極小規模の儀式魔術。その威力や狙いの正確さは言わずもがな、矢数も無制限であり連射可能。彼女が全力の射撃を続ければ、聖堂騎士団は数分とかからずに全滅する。
「……でも、今なら良いよ。今なら許してあげる。あたしも、できればクラリスは殺したくないから。こっちに、来て? ……あたしと一緒に、戦おう?」
それは最後通牒だったのだろう。
エルフィリアの透き通るような碧眼がクラリスを見つめる。矢先を静かに彼女へ向けた。
瞬間、クラリスは後方――レイリィとアルマにちらりと目配せした。
彼らは放たれた矢のように走りだす。囚われのキリエ枢機卿が待つ地下独房へ。
「そっか」
エルフィリアは微笑み、そして即座に弓引いた――駆け出した彼らを射抜くように。
クラリスは当然それを予期していた。かざした掌を基底に展開される魔力隔壁。魔力の矢と力場がぶつかり合い、ただの一発で相殺される。
貫かれなかっただけで上出来だ、と言うべきだろう。
「振り返らないでッ!」
叫ぶ間にもさらに魔力隔壁を展開する。
エルフィリアの連射速度に発動が間に合うかどうか。全力で展開し続けなければ魔力の矢がいずれクラリスを貫くだろう。
だが。
「あなたたちもね。裏切り者は、殺さないといけないから」
魔力の矢はクラリスの防護を避け、後退した聖騎士たちを狙い撃った。
幾条もの光が空を駆け、一人、また一人と聖騎士が斃れていく。絶叫と主の祈りが嫌でもクラリスの耳に届く。
「く……ッ!」
狙いが一定でないために守り切れない。広く防壁を張りめぐらせれば、当然に防御力は下がってしまうのだ。
このままではいつ聖騎士たちが恐慌状態に陥らないとも限らない――いくら後で治療できるとはいっても。
クラリスは咄嗟に前方へ飛び出す。
「――――ごめんね」
刹那、エルフィリアの矢先はクラリスに向けられていた。
クラリスが前に出るのを予期していたかのように。
「こうやったら、クラリスはきっと前に出てくれるだろうなって、わかったから」
微笑み、エルフィリアは限界まで引き絞った矢を解放する。
防壁はもはやどうあがいても間に合わない。
解き放たれた矢は真っすぐと、吸い込まれるかのようにクラリスの喉元を目掛け飛ぶ。
達するまでに一秒とかからず、魔力の鏃が空を裂き、
――――あぁ、私、死――――
がしゃん、と横合いから響き渡る甲高い音色。
凄まじい速度で投射された短剣が硝子窓を突き破り、勢いを減じず魔力の矢をも絡め取った。
「えっ……?」
「……ッ!!」
勝利を確信していたエルフィリアは呆けたような声を。
死を覚悟していたクラリスは突然の出来事に息を呑み、咄嗟に詠唱を紡ぎ上げた。
「……皆様ッ!」
「はっ……!」
クラリスの切羽詰まった声に応じ、聖堂騎士団は急いで後退する。
至近距離では矢避けの加護は無意味なものとなる。つまり、ある程度の距離さえ開けば加護そのものは復活するのだ。これを活かさない手はなかった。
「間に合いましたか」
続いて、割れた窓から小柄な影が屋内に飛び込む。
黒白ツートーンのエプロンドレス、薄褐色の肌に黒の艶髪――ユエラ・テウメッサの懐刀、従者テオの乱入であった。




