三話/幻魔術・百花繚乱
「ところでユエラ様、どちらに向かわれるおつもりで。商業区のほうでしたら私が案内しますが」
大通りを歩きつつ提案するテオに、ユエラはぺたんと狐耳を寝そべらせる。
「……おまえ、所々ちょいと抜けておるな」
「な、なぜでしょう」
「買い物をしたいのは山々だが、先立つものがなかろうよ」
「……あ」
それ見ろ、と言わんばかりにユエラは尻尾を揺らす。彼女の足は街の中央へと向かっていた。
「おまえに持ち合わせがあるようには見えんかったからな」
「お恥ずかしながらその通りです。……迷宮に入るのでしたら申請が必要ですが、なんでしたら、私一人で稼いで参りましょうか」
「おまえの実力を見られるのは悪くないが……ふぅむ」
待っている間は宿も取れないわけだから、はっきり言えば面倒くさい。だからといって一緒についていくのはさらに面倒である。
考えながら歩くうちに、中央広場はもうすぐ近くだった。広場のど真ん中に巨大な建築物――白亜の組積造が見え、迷宮の在り処を知ろしめす。
「しかし、またやけに大きいのう。なんだあの建物は」
「迷宮が発見された当初、公教会が打ち建てたそうです。封印の大神殿と名付けられていますが、ほとんどの住民は単に神殿と呼びます。なんでも、魔王様の封印のほころびを抑えつけていると言われています」
「……役に立っとるのか?」
「と、言われています」
「左様か……」
つまり、物は言いようだろう。魔物の出現は依然として続いているが、神殿のおかげで外には出てこないのだとも言える。
そんなことより、ユエラには聞き捨てならない言葉があった。
「魔王様とやらはなんだ。魔王様とは」
「は。魔王イブリス様は三百年前に大陸を席巻した魔物の王です。数多の魔物を率い、幾つもの国を混沌の渦に――」
「そんなことはどうでもよい。魔王とかいうのより私のほうがえらいから魔王とかいうのはさっさと忘れよ」
傍若無人極まりない言い草である。これにはテオも顔を赤くして言いつのる。
「そ、それはさすがにユエラ様であろうとも聞き捨てなりません。魔王様は怠惰と悪弊にまみれたこの世を焼き払われたのです――血の犠牲をもってしても! 封印こそされましたが、ユエラ様が蘇りなさったように、かの御方が復活される日もいつか遠からず」
「ならばテオ。仮に魔王とやらが蘇ったとき、おまえは私のもとを離れるのか?」
「――――え」
ユエラの問いにテオは言葉を失う。そんなことは想像もしなかった、という表情だった。
無理からぬことだろう。この時代、多くの邪教は、魔物の勢力を『魔王イブリスとその配下』として捉えている。反逆者の存在など端から考慮の外なのだ。テウメシアのように神話時代から伝わる魔物さえ、その権威を認める邪教は多くない。
「で、ですがユエラ様。教団普遍主義の教典曰く、テウメシア様は魔王様の寵姫として遇されるに値する器の持ち主であらせられると」
「はぁ? 寝言を言うでない。なぜ私が知りもせん男に嫁入りなどせにゃならん。おまえを嫁に取るほうがよっぽどいいぞ」
「よ……」
テオが声を荒げかけたその時、予想外の飛び道具で頬が真っ赤になる。ユエラはその顔を見てにやにやといやらしく笑う。
「ま、今すぐ改めろとまでは言わん。だが覚えておけ。魔王とやらが蘇ろうが、私はそれに付き従うつもりなど毛頭ない、とな」
「……はい」
すぐには承服しかねるだろう。信仰とはそれほどに拭いがたい。それでもテオはこくりとちいさく頷いた。
やがて二人は中央広場に脚を踏み入れる。数知れぬほどの探索者――そして彼らを相手にする商売人が山ほど屯するこの場所は、まさに迷宮街の中心地と称するにふさわしかった。
人混み、喧騒、かん高くこすれ合う金属音。それらの間をすり抜けるようにして周囲を観察する最中、テオはふと小さな声で言った。
「思ったのですが、ユエラ様」
「うむ。なんでも聞け」
「何もわざわざ路銀を稼がずとも、先ほどのように幻術で偽造すれば良いのでは……」
「ほう。では、支払いは全て私の働きで済ませると?」
「そ、そのようなつもりでは。最も面倒をかけずに済ませられるのではないかと」
「くく、冗談だ。そう恐縮するでない。私の力を高く見積もってもらえるのは悪くない気分だ」
「……ユエラ様のご冗談はいささか判断が難しゅうございます」
ほっそりした眉をたわめて進言するテオ。ユエラはからからと笑ったあと、不意に深刻げに声をひそめる。
「……商人を騙すのが上手くないのは本当でな。金の恨みは洒落にならん――ひょっとしたら長い付き合いになるかもしれんし、商人同士での横のつながりもある。一人を騙くらかす代わりに十人、百人から取り引きを拒まれでもしたら目も当てられん」
「――得心いたしました。確かに、道理です」
「というわけで、まあ、稼がねばならんわけだが」
ユエラとテオは広場の隅で足を止め、ぐるっと周囲を見渡す。売買するには物がなく、迷宮に入るのは面倒くさい。目に留まるのは溢れんばかりの人、人、人。
お仕着せ服姿の少女と黒衣の幼女の組み合わせはいささか人の目を引くが、異様とまではいかないようだ。それほどにこの場所は多様な人種と階層の人間で溢れている。特に目につくのは薄汚れた荒くれ者の姿であり、おそらく彼らは迷宮帰りだろうと目された。
「うむ、決めた」
「……何をです?」
「どうやって稼ぐかだ。おまえは私の護衛をせよ。良いな?」
「――ご随意のままに」
黒髪の少女はうやうやしく頭を垂れ、ユエラのかたわらに寄り添った。
◆
――――嫋。
脳をじかに震わす音色が広場全体に鳴り渡り、人々は一斉に音がした方へ視線を向けた。
そこにいたのは年端もいかない小柄な娘。艶やかな灰の髪色は白銀にも見まがおうほど美しく、身を包む地味な黒衣によく映える。彼女は片膝を立てて座し、ちいさな両の手で抱き上げるように弦楽器――――古ぼけたリュートを支え持った。
刹那、まるきり稚児のような指先がそぅと滑る。
――――嫋。
またぞろ奏でられる高らかな音色。ともすれば喧騒にかき消されてしまいそうなほど淡く儚い奏楽は、しかしその場の誰にも例外なく届けられた。
――――幻魔術・百花繚乱――――
人々の交わす言葉がふと途切れ、ぴんと糸が張り詰めるような静寂が訪れる。
その間隙を縫うように、娘は鈴を鳴らすような声をつむぐ。
歌声。
それは歌のように聞こえた。歌のようだが、その詞は誰にも理解し得なかった。千年の昔に絶えた歌を知るものは、もはや現世に誰一人としていなかった。
娘は構わず天を仰いで歌声をつむぐ。すらりとした眉に彩られた瞼がすっと閉ざされ、感極まったように喉を震わせる。
嫋。リュートの音色が絶えず響く。歌声の昂ぶりに重ね合わせ、娘の指先が鋭く走る。弦が目にも見えぬほど震えたつ。
「おい、おまえ……」
娘が耳目を寄せ集める最中、武器を携えた一団が大股に歩み寄る。瞬く間に場を支配したものへの反感が、理屈抜きに男たちを衝き動かす。
しかし娘は演奏を止めず、付き従うお仕着せ服姿の少女は接近を許さなかった。彼女は無理矢理に割って入ろうとした一人の手首を音もなくねじり、喉首を締め付けながら地面に組み伏せる。男は音もなく意識を落とし、演奏を邪魔することはついぞ叶わなかった。
『お静かに』少女が唇の前で指を立てるのを目にした瞬間、一団の男たちは激昂した。そしてすぐに消沈
するはめになった――――他の集団が彼らに睨みを効かせていたからだ。つまらん邪魔を入れるなと、無関係の第三者が妨害者を制していた。
嫋。
たった一音がつかの間の争いを無きが如くかき消す。それに取って代わるのは高揚だ。歌音に聞き入るかのように近づく男たちがあり、お仕着せ服の少女はまたそれを制止する。演奏の邪魔になってはいけないから。
幼気な娘はそれを一顧だにせず、ただただ一心に指を滑らせる。
「……音だ」
と、不意に一人の痩せた老爺が泣き崩れる。
「……なんということだ。音が……何年ぶりのことか……おお、神よ……」
その隣りにいた女が気遣わしげに声をかけるも、彼は肩を震わせるばかりだった。彼の耳は聞こえていなかった。聴覚器官が復活したわけでもなかった。だが、彼はその音を確かに聞いた。今も響き渡るその音を、彼は今なお聞いていた。
嫋。
声もなく、息を呑む音ばかりが響くころ。娘はついに数度弦を弾き、喉を細かに震わせる歌声を途切れさせた。
「……は……」
淡く乱れた吐息が口をついて出る。濡れた唇がつややかに光り、それは聴衆の眼を引き付ける。
――――嫋。
これが最後と言わんばかり、娘は弦を爪弾き、
「――――皆の者、御静聴に感謝を」
そっと静かに頭を垂れる。
一拍の空白。
娘は――ユエラはそっと顔を上げ、
「……おおおおおおおおおぉぉッッ!」
刹那、割れんばかりに野太い歓声と拍手が広場中を席巻する。
それはさながら、ユエラという奏者が聴衆という楽器を自在に奏でるかのようだった。
◆
「しかるに私共はしがない旅芸人に御座いますれば、霞を食んで生きるわけにゃ参りませぬ――――どうか皆の者、ほんのひとかけの心付けを願えるかえ?」
聴衆をぐるりと見渡したあと、しなをつくって笑みを浮かべるユエラ。彼女に対する聴衆の反応は、およそ圧倒的なほど好意的だった。
「しょうがねえな、財布ごとくれてやる!」
「おまえのクッソ軽い財布で何言ってんだ」
「持ってけ泥棒ッ!」
テオが広げたズタ袋に雨あられと放りこまれる青銅貨と銅貨の山。銅貨十枚が一般市民の一日の生活費に相当するから、これだけで当初の目的は達せられたと見て間違いない。中には銀貨すらまぎれており、聴衆の心を掴んだことがうかがえる。
他に目につくのはキラキラと輝くちいさな石。それぞれの色は異なるが、一様に暗色ということだけは共通していた。
これこそは迷宮の魔物が宿すもの。そして探索者の報酬源――魔石である。おそらくは今獲ってきたばかりなのだろう。換金所に持っていかなければならないのは手間だが、質の良い魔石があれば思わぬ高収入も期待できる。
「ふふ、この街の皆は太っ腹であるのう。実に金離れが良いことよ」
ユエラは実に機嫌よく鼻を鳴らす。金額の多寡はどうでもいいが、力量を認められることは気分がいい。
テオもあまり金銭に執着するたちではないが、袋があっという間に重みを増すのには驚きを隠せなかった。これを担いでいくのはちょっとした重労働である。
「……袋が破れるかもしれませんね」
「どこぞに両替商がおるだろう。多少は目減りしても構わんでな」
そんな風に二人が俗っぽい言葉を交わす最中、聴衆のうち何人かがユエラに代わる代わる声をかけてくる。
「頼む。しばらくこの街にいてくれないか? なんなら俺の財産をはたいてもいい」
「あいにく、まだ腰を落ち着けるつもりは無いんでのう。金は無けりゃあ困り果てるが、金に縛られるつもりもなし」
「……そうか。なら、しょうがないな」
やけに疲れた顔の中年探索者――がっくりと肩を落として去る。
「……妙な、歌だった」
「お気に召さんかったかえ?」
「……いいや。綺麗な音には違いない」
ボロのような外套に身を包んだ寡黙な女剣士――剣呑な視線をくれて歩み去る。
「あなた、うちで働いてみる気とかない? 報酬はたっぷり弾むよ?」
「だからどこかに居着くつもりはないと……というか、おぬしはどこのどいつじゃ」
「えーっとね、中通りの娼館の」
「帰れ」
やたら派手な装飾を身につけた露出過多の女――気が変わったらいつでも待ってるから、と名刺を押し付けていく
「……感謝する、お嬢さん。また音を我が耳に聞くことがあろうとは思わなかった。もし何か困ったことがあれば私の名前を出してもらって構わない。少しは融通が効くだろう」
「……ご老公、こちらが?」
自らの耳をとんとんと指で叩くユエラ。
「ああ。私はスヴェン・ランドルート。……単なる成金のようなものだよ。風の向いた時にまた聞かせておくれ、お嬢さん」
「私はユエラ、こっちはテオ。……あまり迷惑をかけたくはないがのう」
隣の使用人にそう伝えると、痩身の老爺――スヴェンは頷いて去っていく。袋の中に一枚の金貨を放りこんで。