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お狐さま、働かない。  作者: きー子
公教会事変
20/94

二十話/日常の闖入者

 迷宮街の一等地に建つ大邸宅。

 アルバート・ウェルシュはその応接間に招き入れられ、主の歓待を受けていた。


「いやはや、勇者殿も我々と同じ想いであったとは。我々にとっても真に喜ばしいことです」

「……その勇者殿というのはお止めください。私はまだまだ一介の若輩者に過ぎませんので」

「ご謙遜なされるな、アルバート殿。〈勇者〉の部隊パーティによる御活躍は我々の耳にも及ぶところ。破竹の勢いで迷宮攻略を進め、今も最深記録を塗り替えておられるというではありませんか」


 屋敷の主――対面の男は世辞ともつかぬ言葉を並べ、大いにアルバートを賞賛する。

 彼の名はヨハン・ローゼンクランツ。綺麗に剃り上げられた頭と引き締まった身体つきが特徴の、齢四十頃の司教である。顔付きは端的に言って精悍で、広い肩幅を白い法衣に包んでいた。


「〈星弓の射手〉エルフィリア、〈清浄の癒し手〉クラリス、そして〈閃光の勇者〉アルバート。吟遊詩人どもがこぞって歌いよるものですからな、私もすっかり覚えてしまいましたわ」


 明らかにおだてるような調子だが、彼の口にした内容はおおむね事実であった。アルバートたち三人が最深記録を更新していることも、吟遊詩人たちの語り草になっていることも、全て。


「恐縮です、ヨハン殿。……して、同じ想いとは?」


 この日、アルバートがヨハンを訪ねたのには理由がある。

 ユエラ・テウメッサの積極的排除。それを査問会で発言した司教こそ、彼――ヨハン・ローゼンクランツだったのだ。

 ヨハンは少々芝居がかった大仰な身振りで頷き、声を潜めて口にする。


「ああ、そうでしたな。正直に腹を割って申し上げるならば――――私は、いえ、私もと言うべきでしょう。私もアルバート殿と同様に、キリエ枢機卿の決定に不服なのです」


 そう。

 彼が今述べた一点こそが、アルバートとヨハンに共通する利害であった。


「……単刀直入に申し上げる、ヨハン殿。実際的な問題として、ティノーブル支部の方針を転換させることは可能でしょうか?」

「……それは現実的には難しいと言わざるを得ませんな。少なくとも、現時点ではあまりに厳しい」


 ヨハンは「あくまで簡単な概略になりますが」と断った上で、公教会ティノーブル支部の現状を説明し始める。


 ティノーブル支部の政策方針は、支部長のキリエ枢機卿と各教区を担当する八人の司教によって決定される。最終決定を下すのは枢機卿だが、司教の声を完全に無視するわけにはいかないという構造だ。

 八人の司教のうち、キリエ枢機卿に親和的な三人は俗に保守派と称される。彼らの主目的はつまるところが現状の維持にある。


 一方、ヨハンを筆頭とする三人の司教は革新派と称される。彼らは情勢の変化や権益の拡大を望んでおり、〈封印の迷宮〉にまつわる事業にも極めて積極的だった。

 残る二人の司教はどちらの派閥にも属していない。乱暴に言ってしまえば風見鶏を決め込んだ日和見主義者。どちらかといえば現状追認の傾向があり、保守派に味方することも多い。


「……つまり、ユエラ・テウメッサの排除を訴えておられるのは今のところ革新派のみに過ぎない、と?」

「いえ、実のところその限りでは無いのです。保守派にも積極的排除を望む声はありましてな。現状維持を決め込んであぐらを掻くには、あれは劇物に過ぎる」


 また、その逆――革新派にも消極的な司教はいるという。ユエラが現状を変革してくれるのではないか、という淡い期待感ゆえだろう。


「しかし、保守派がキリエ枢機卿に丸めこまれるのは時間の問題でしょうな。一度大勢が決すれば、聖堂騎士団は彼らを追認するでしょう」


 聖堂騎士団は公教会の下部組織、いわゆる実行部隊である。彼らは政治的多数派の側につく。手足が脳に逆らって動くようなことがあってはならない。


「……では、ヨハン殿。あなたは革新派にも関わらず、なぜユエラの排除を訴えられたのか?」

「知れたこと。制御不可能な変革は単なる混沌、無秩序に過ぎませぬ。私が望むのは権益の拡大――――あくまでも秩序だった革新をこそ望むのです」


 ヨハンは柔和な笑みを浮かべたまま断言する。それは先ほどまでの軽薄な言葉とは違い、彼の明確な立ち位置を感じさせる一言だった。

 彼の利害がアルバートと相反することはない。聖職者らしからぬ強欲さには違いないが、アルバートは一向に構わなかった。彼は意を決してヨハンに問いかける。


「現状では方針転換は難しい。ですが、情勢が変わったとすればどうです? いえ、実際そうなる可能性は十分にあるのではないでしょうか?」

「……どういうことですかな?」


 少なくともヨハンの説明を聞く限り、公教会は決して一枚岩ではない。付け入る隙は十分にある。

 キリエ枢機卿は確かに弁が立つが、今回はそう簡単にまとまらないだろうというのがアルバートの見立てであった。


「情勢が確定する前に、私共の息がかかった監察官を送るのです。そこで公教会を、あるいはこの街を脅かすような事実が発覚すれば、どうです。いかなキリエ枢機卿とて、積極的排除に同意せざるを得ないのではないですか?」

「……面白い考えですがな、アルバート殿。それはやはり難しい。特に、我々の息がかかった監察官を送るというのが至難です。おそらく監察官は聖堂騎士団、キリエ枢機卿の息がかかった人物が選ばれるでしょう。それ以上の適格者を推薦するとしても、果たしてそのような人物がいるものか――――」

「いえ、いますよ」


 アルバートの端的な肯定に、ヨハンは一瞬目を剥いた。

 彼は驚きとともに身を乗り出す。もしや、という驚きにダークブラウンの瞳が大きく見開かれる。


「……もしや、それは……彼女ですかな、アルバート殿」

「ええ。彼女は特定の派閥に属していませんし、思想的な偏りもありません。少々博愛に過ぎるところがありますがね。彼女ならユエラ・テウメッサの幻にも抵抗し得るでしょう。……実際、彼女のおかげで幻惑を看破できた実績もありますから」

「ですが、アルバート殿。彼女を欠いては迷宮調査にも差し支えがあるのでは?」

「もしこの街が壊滅したらそれどころではないでしょう。物事には優先順位というものがあります。彼女も納得してくれるかと思いますよ」


 アルバートがそこまで言い切ると、ヨハンも考えこむように腕を組む。考慮に値すると判断してもらえたならそれで十分だ。

 アルバートは赤い髪を軽く撫で、はっきりと言葉にして提案する。


「クラリス・ガルヴァリン。……彼女を推薦するつもりはありませんか? ――――私共の息がかかった監察官として」


 ◆


 査問会の日からはや一週間。

 その間、ユエラは何に追われることもなく日がな気ままな生活を送っていた。


 住居はスヴェンの管理下にあるセーフハウス。テオに食事の準備をしてもらい、テオに毛づくろいをしてもらい、テオに服を着替えさせてもらい、テオに身体を洗ってもらう。暇になったらリーネをいじめ、律儀に顔を見せるフィセルに稽古をつけ、眠くなったらテオを抱枕にして眠る。何ひとつ不自由ない引きこもり生活と言えるだろう。


「ユエラ様、お痒いところがありましたらどうぞ仰ってくださいませ」

「……ああ、うむ、良いぞ……そこ、良い……」


 穏やかな昼食後の昼下がり。

 ユエラは居間のソファに寝転がり、テオの膝枕に身を委ねていた。狐耳の奥まで垢を掻き取ってもらい、ユエラは気持ちよさそうにため息をつく。

 そして彼女の様子をうかがうテオもまた、恍惚とした表情を浮かべて微笑する。それは一種異様な光景といえよう。


「……私、邪魔しないほうがいいかな……?」


 外から戻ってくるなり立ちすくむリーネ。彼女には土地勘があるため、もっぱら街の住宅情報を集めさせていた。

 土地勘があるのはテオも同じだが、彼女にはユエラの世話をするという至上命題が存在する。テオの働きぶりたるや、ほんの一週間でユエラをダメ人間にしてしまうほどだった。名目上は奴隷のリーネより働いているかもしれない。


「なんか私、本当に奴隷なのかわかんなくなってきたよ……」

「私はどうも奴隷を使うというのが苦手らしいのう。いちいち命令するのがめんどくさい」


 その点、テオは自分で考えて動いてくれるから実に良い。広い意味ではフィセルやスヴェンも同様だ。

 彼らはユエラのために動いているわけではないが、結果的にユエラを利してくれる。出来るかぎり働きたくない、という気持ちを押してでも働きかけた甲斐があるというものだった。


「じゃあ、なんだって奴隷なんかにしちゃったの……?」

「あれだけ振り回されたんだからのう。ただ殺してはいお終い、では面白くなかろう?」


 くく、とユエラは悪辣に笑む――瞬間、テオの繊細な指使いのせいで口元がふやけたように緩んでしまう。白いワンピースに包まれた華奢な肩がぴくぴくと小刻みに跳ねる。


「……あぁ、これ、そんな奥まで……そこは、もっと優しゅう……あふ……」

「ユエラ様はこれくらいがよろしいのでしょう? きちんと弁えておりますとも。一緒に毛繕いも致しますね」

「ん……はぁ……もう、息を吹くでない……んふ……」


 びたん、びたん。灰毛のしっぽがソファの上で跳ね、二尾が絡み合うように這い回る。実に間の抜けた光景で、とても彼女が凄まじい魔術の使い手とは思われまい。


「本当、毒気を抜かれるよ……」


 ――――自分の年齢の半分にも満たないような少女に隷属を強いられる。

 それは屈辱的としか言いようもない境遇であろうが、リーネは脱力するばかりだった。

〈闇の緋星〉襲撃を手引きしたのもリーネだが、テオは全く気にもかけていない。「少しでも罪悪感を覚えるのならユエラ様に奉仕して罪を贖うべきです」とは口を酸っぱくして言い聞かせていたが。


「それより、なにか良い物件は無かったのかえ? 収穫なしというわけでもなかろう」

「あ……うん。結構たくさんあるよ。お金に糸目をつけないなら新築も請け負ってくれるって話」


 リーネはかつての僧衣ではなく、ごくありふれた黄土色のローブ姿。彼女は懐から羊皮紙の束を取り、テーブルの上にどさっと置いた。街中の建築組合や土地持ちの間をぐるりと巡った成果である。


「結構な数だのう。よしリーネ、おぬしも見るの手伝え」

「……奴隷に物件探しさせるなんて聞いたことないよ?」

「普通は逃げるであろうからなあ」


 ユエラはくつくつと喉を鳴らして笑う。そして寝転がったまま手を伸ばし、羊皮紙の束を半分ほど取り上げた。


「外に出ても逃げ出さなかったのは実に賢明なことかと思われます。ユエラ様の隷下に入ったという自覚がお生まれになったのでは?」

「……勘弁してほしいな。今は何をどう試みても無駄だと悟っただけだよ」


 深くため息をつくリーネ。彼女はユエラの対面に座り、残りの羊皮紙に目を通す。

 しかし、ユエラにはその言葉が半ば虚勢でしかないと分かっていた。リーネを支配下に置くべく施した〈首輪〉――――幻魔術・籠鳥檻猿カゴノトリ。その効力はまさに悪逆非道というほかない。


 ユエラに対する攻撃行動が全て自動的に阻害されるのは言わずもがな。邪念を抱いただけでも〈首輪〉はそれを察知し、余すところなくユエラに知らせてくれる。今やリーネの心理状態そのものがユエラの手の中にあるというわけだ。

 そして〈首輪〉が伝達する限り、リーネの心理状態は極めて従順だった。彼女に〈首輪〉をかけたあの時以来、行動を阻害する神経電流――〈緊箍児きんこじ〉術式は一度も発動していないにも関わらず。


 それは一人の人間としてあまりに不自然な反応だった。奴隷身分に貶められ、その境遇に甘んじるなど尋常ではあり得ない。ましてリーネはイブリス教団内でも高い権力の座にあったのだ。反発心は普通以上にあってしかるべきである。


 ――――あの傷がなにやら関係しておるのかのう。


 ユエラが一瞬覗き見たリーネの火傷痕。砂色の長い髪に隠された片目は醜く焼け爛れ、潰れていた。単なる事故か、あるいは彼女の過去に起因するものか。興味をそそられることには違いない。


「ユエラ様」

「うむ、なんだ」

「悪い顔になっておられますよ」

「私が性悪なのは間違いなかろうよ」

「……私も、それは同感だよ」


 言いおる、とユエラは喉を鳴らして笑う。リーネは片目をしばたかせ、ぱらぱらと羊皮紙に目を通していく。


「……原理主義派の屋敷、あそこ、空き家になるんだって。教祖様が捕まって教団も解体されちゃうみたいだから。多分、そう遠くないうちに売りに出されると思うよ」

「あんな馬鹿でかい屋敷はいらんなあ。むやみに目立つし、設備維持も面倒ではないか。おぬしに掃除させるだけでずいぶんな嫌がらせになってしまうぞ?」

「……わかった。あまり広いのは無し、だね」

「うむ。物分りが早いと私も助かる」


 ユエラは満足気に頷き、自らも羊皮紙に目を通していく。内容は賃貸物件の入居者募集や新築物件の売り出し、あるいは中古の空き家案内など多岐にわたる。

 その中でユエラが希望する条件は非常に単純だ。


「頑丈で、利便性が高く、借り物ではない――それが一番良い。……家具があればなお良いな。いちいち買い揃えるのもちと面倒だ」

「家具でしたら買ったものを運び入れさせればよろしいかと。わざわざユエラ様の手をわずらわせることもありません」

「最近はそういうのもあるのか。便利になったもんだのう……」


 耳掃除してもらいながら思わず感嘆する。ではかつてのユエラがどのような環境で暮らしていたかというと、洞窟か後宮かの二択であった――我ながら両極端にも程がある。


「……新築にはこだわらないんだね?」

「この世に人が死んでない土地など無いからな。多少の曰くつきでも一向に構わんぞ。むしろ安くてありがたいくらいだ。欠陥工事だけはいかんが」

「きみはいちいち言うことが極端だよ、ご主人様……」


 ぺらり、ぺらりと羊皮紙をめくる音がする。理想的なほど穏やかな昼下がり。

 ユエラの反対側の狐耳も丁寧に掃除しながら、テオは不意にぽつりとつぶやいた。


「と、いいますか、ユエラ様」

「……どうかしたかえ?」

「この家がおおむねユエラ様の仰せられる条件通りなのでは?」

「……うむ、まあ、確かにその通りなんだが」


 ユエラがそういった瞬間、ばさばさと派手に羊皮紙を落とす音がした。リーネの粗相である。彼女は「今の今まで気づかなかった」と言わんばかりにぽかんと口を開けて呆け、気づいた瞬間慌てて羊皮紙を拾い始める。


「そこまで驚かんでも良かろうに」

「……あ、いや、その。実は全くの無駄働きだったとか、そういう……?」

「なわけなかろう。私が無駄な仕事など断じてやるものか」


 ユエラがやるのはあくまで必要なことだけだ。出来るかぎり働きたくない、という気持ちはいまだに欠片ほども揺らいではいない。


「ユエラ様としては、この家では何かしら不都合がある、と?」

「不都合というほどでもないがな。この家はあくまでスヴェンのものだ。私はそれを間借りしているに過ぎん。住む家が私のものではないというのは、ちと気持ちが悪い」


 スヴェンとの協力関係が永続すると決まっているわけでもない。この家を空ければ別の用途に使わせてもらうこともできる。総合的に考えれば、早いうちに住居を得てここを出るに越したことはないというわけだ。


「それなら、ご主人様が正式にお金を出して買い上げれば良いんだよ。……彼は断らないんじゃないかと思うけど」

「他にあてがなかったらそうする。なんならここは街中の別荘として、街の離れに居を構えるも良かろ」

「喧騒から離れるには良いお考えですね。設備面での不安が少々残りますが……」

「上下水完備は捨てがたいものなぁ……」


 ユエラはしみじみとつぶやく。そのせいで都市部からはどうしても離れがたい。その次に利便性が高いのは野生に帰ることだが、文明との二者択一になるのは考えものだった。

 その後も順繰りに物件を見ていくが、ユエラのお眼鏡にかなうものはなかなか見つからない。


「こう、ちょうど良い手頃な物件というものが、どうにも……」

「見つからずとも無理はないかと。需要があまり無いでしょうから」

「……左様か、なるほど。言われてみればフィセルもそうであったな……」


 テオの神妙な呟きが意味するところは明白だ。迷宮街で生活する人々の多くは探索者であり、彼らは往々にして宿を取る。仮住まいを借りることはあっても、この街に居を構えるものは滅多にいないだろう。


 フィセルは今もあの小さな宿を拠点にしている。一度はこの家に誘ったが、丁重に断られてしまった。彼女もあの宿に慣れ親しんでいるということか。

 ――――しばらくぶりに自分の脚で探してみるのも悪くはないかのう。

 ふとユエラが思いを巡らせた時、突然に扉をノックする音がした。


「……んん?」

 ユエラはいぶかしむように眉をひそめる。テオは耳かきの手を止めて振り返る。リーネは不安げに視線を扉のほうへ向けた。

「ユエラ様、来客のご予定は……」

「無い。絶対無い」


 スヴェンならば決して事前連絡を欠かさない。フィセルならノックしてそのまま入ってくる。そして、他にこの家を知るものはいないはず。

 だが、敵対的な襲撃者という可能性も低い。それなら強引に突入してくるだろう。ノックはむしろ控えめで、その音は今も続いていた。

 ユエラはゆっくりと上半身を起こし、リーネに命じる。


「よしリーネ。行ってきい」

「私なの!?」

「来客の応対くらい問題なかろう。曲者なら魔術でもなんでもぶちこんでやるが良い」

「私はご主人様みたいに化け物じみた魔術師じゃないんだよ……?」


 リーネは文句を言いながらも立ち上がり、しぶしぶ扉のほうへと向かう。ユエラとテオはリーネの痩せた背中越しに来客の姿を観察する。


「はい、どなた……?」


 リーネが扉を開けて来客を迎える。からんころんとドアベルの音が鳴り響く。


 来客はたったひとりのようだった。フィセルと変わらない年ごろの若い女。肩を滑る藍色の長髪が艶やかで、身を包む法衣は眩しいほど白い。髪を覆うベールも同色で、首元には金色正十字の意匠――公教会の象徴が刻まれる。

 いかにも清らな印象を与える若く美しい女司祭。


 リーネは彼女を見た途端に動きを止める。

 否、その目はむしろ女司祭の首元――金色正十字に釘付けにされていた。


「失礼します。あの、スヴェン・ランドルートさんのご案内で訪ねさせていただいたのですが……こちら、ユエラ・テウメッサさんのお住まいで間違いありませんか?」

「……う、あ、うん。間違いない、よ。ご主人様なら、こちらに……」


 リーネの様子がおかしい。ユエラは咄嗟に立ち上がって玄関口へと向かう。

 見た限り相手の女司祭におかしなところはない。何かされたというわけではなさそうだ。


「――公教会のものが何用かえ?」


 ユエラはリーネを後ろに下がらせる。近くで見てわかったが、いつにも増して彼女の顔色が悪い。比喩ではなく青白いと感じられるほどだ。ユエラはテオを手招きし、リーネを休ませておくよう言い含める。


「……はい。私、公教会からユエラさんの監察官として派遣されました、クラリス・ガルヴァリン司祭と申します。このたびは無期の保護観察処分ということで、私がユエラさんの担当者として身辺や素行の調査、ひいては潜在的危険性の報告などを行うことになりました。どれほどのお付き合いになるかは定かでないのですが、どうかご協力くださいますようお願いします」


 若い女司祭――クラリスは馬鹿丁寧な挨拶を述べ、深々と頭を下げて礼をする。

 その折り目正しい所作は言わずもがな、ユエラは彼女が口にした言葉にも呆気にとられてしまった。


 いったいどこの世界に「私はあなたを監視している」と宣言する監察官がいるというのか。抑止力のつもりにしてもあまりに無防備すぎるのではないか。彼女が見ているところでは行儀よく振る舞うに決まっているし、わざわざボロを出すわけがない。普通はこちらの失点を探すものではあるまいか。それとも彼女は囮で、別の所に本命の監察官がいるというのか。


「……うむ、話はわかった。私がユエラ・テウメッサだ。そしてあれが私の従者のテオ、あれが私の奴隷のリーネ。よろしゅう頼む」


 ユエラは表面的な挨拶を返し、彼女の反応を観察する。

 クラリス・ガルヴァリン。彼女は果たして途方もない馬鹿者なのか、あるいはユエラが及びもつかない深謀遠慮の切れ者なのか。ユエラにはいまだ判断が付かなかった。


「どっ、どれ……い、いえ。説教の類は後日にいたしましょう。連絡もなく突然の訪問となって、真に申し訳ありませんでした。あくまでお顔合わせのつもりのみでしたので、今日のところはこれで失礼を――――」

「そう遠慮するでない。よし、ちょいと上がっていけ。ちょうど人手も欲しいところだったのだ。今物件を探しておってな、引っ越しが決まったらおぬしにも伝えておかねばならんだろう?」

「えっ!? ちょ、そんないきなり、申し訳な――――あっちょっとっ、お待ちくださいっ、わかりました、わかりましたから引っ張らないで――――っ!」


 こういう時はまず自分のペースに巻きこむのが吉である。

 ユエラはクラリスの袖をぐいぐい引っ張り、家の居間に引きずりこむ。リーネの体調の心配は後である。今はクラリスの資質を見極めることに注力することにした。


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