十話/"狐のように狡賢い"
夕方六時。約束の時間。
フィセルは単身迷宮へ。ユエラはかたわらにテオを連れ、迷宮街の一等地を訪れた。
本日のユエラは群青のナイトドレス姿――華奢な肩から背中にかけて肌もあらわという出で立ち。黒に近い青色に肌の白さがよく映える。その幼い美貌と気品も相まって、街の権力者が集う場所柄にも全く違和感なく馴染んでいた。
「……これ、脱いでよいか?」
「だめに決まっているでしょう」
「しかしだな、テオ、少しおまえも試してみよ。こんなに腰を締め付けてどうしようというのだ……」
――当のユエラは不満たらたらであったが。
一方のテオはいつも通りのお仕着せ服姿。使用人として暗殺対象の屋敷に潜りこむことは珍しくなかったから、予備はいくらでもあるという。
まあ、今さら文句を言っても仕方がない。ユエラたちは手紙で指定された通り、ランドルート邸へと向かう。迎えを遣わすという申し出もあったが、ユエラは丁重に断った。道のりを自分で確かめておきたかったのだ。
二人が屋敷に辿り着けば、そこではすでに迎えが待っていた。以前見た時もスヴェンに付き従っていた若い使用人。薄褐色の肌、白髪に近い銀の髪。
「ランドルート殿との約束があるのだが。話は通っているかえ?」
ユエラが声をかけると彼女は深々と頭を下げ、屋敷のほうを掌で示した。顔に穏やかな笑みを浮かべ、表情で歓待の意を表す。
その仕草でユエラはぴんと来た。
「おぬし、口が効けんのか」
ユエラの指摘に彼女は驚きをあらわにする。先ほどのように分かりやすく作った表情ではないだろう。
彼女は一抹の困惑をたたえて頷いたあと、もう一度礼をして背を向けた。そして自らの踵を指す――後から付いてくるようにとのこと。
「うむ、案内を頼む」
ユエラの微笑にうながされ、彼女は二人を先導するように歩き出した。
耳が使いものにならぬ主人、口を効けない従者。割れ鍋に綴じ蓋とでも言うべきか。おそらくはスヴェンに何かしらのこだわりがあるのだろう。そう大きな屋敷というわけではないから、ハウスキーパーは一人でも事足りそうだ。
「……御主人はいささか変わった御方のようですね」
「それくらいが良かろうさ。かえって信頼できるというものよ」
元より、彼が自称した通りの"ただの成金"とは思っていない。上手く提案に乗せられれば良いのだが。ユエラとテオは使用人の後につき、案内されるがままに屋敷へ踏み入った。
◆
「よくぞ来てくださった、ユエラ嬢。お話ついでに簡単な食事も用意させてもらったのでね、せっかくだから召し上がっていくと良い。このような枯れた老人相手では少々つまらないかもしれないが」
応接室に案内されて開口一番、スヴェン・ランドルートはそう申し出た。
ユエラは特に断る理由もなくそれを快諾した。「使用人の手をわずらわせるのは本意では無いがのう」と告げはしたが、「調理人については専属のものを雇っている」とのこと。
前菜は湯で野菜とソーセージの盛り合わせ。テオの分もきちんと供されたことに満足しながらユエラは存分に舌鼓を打つ。その間、スヴェンはごくごく簡単に自らのことを話した。
「……私はまるでこの街の生まれのように思われているが、元々は帝国の人間なのだよ。第一次迷宮攻略遠征……ああ、もう二十年も前のことになるから、ユエラ嬢はご存じなくても当然だが」
「いや、話だけなら聞いたことがありますね」
ユエラは使用人を介して通訳を頼む。幻魔術を用いさえすれば全く無用の手順だが、まだこちらの手の内を晒すつもりはない。。
「ならば話が早い。……私はあれに参加した一人だった。まだ迷宮街など影も形も無かったころだね。結局、帝国は手酷い失敗を重ねた上にツケを払う羽目になった。……まあ、それはどこの国も同じだったんだがね」
そういって笑うスヴェンの年頃はおそらく五十半ば。こざっぱりしたスーツに包まれた身体は痩せて見えるが、背筋は少しも曲がっていないし杖も突いていない。年にしてはかくしゃくとしている部類だろう。
当時は三十前後だったとすると、軍人としてはまさに脂が乗った時期である。兵卒上がりとしても大ベテラン、士官上がりとすれば立派に前線指揮官が務まるだろう。
「私もその例に漏れなかった。……というより、真っ先に責任を被る立場だからね。結局職を辞さざるを得なくなった」
「……それで今があるなら皮肉なものだのう。では、耳はその時に?」
痛い目にあったのは確かだが、迷宮に商機を感じもしたということか。でなければ金貨一枚をポンと支払えるような財産は成し得まい。新たに運ばれてきたとろみのあるトマトスープに口をつける。溶けこんだ野菜の滋味と程よい酸味が食欲を刺激してくれる。
「数年間はなんとも無かったのだが、ある日突然に、ね。……原因は今もわからずじまいだよ。良からざる攻撃を受けたのかもしれないし、単に迷宮の魔素に当てられたか……あるいは、実のところ迷宮は全く関係ないのかもしれないな」
スヴェンの言葉を受け、ユエラはちらりと使用人の彼女を見た。
若い女だが飾り気はあまり無く、白っぽい前髪は片目をすっかり覆ってしまう。家事従事者らしく、後ろ髪は肩にかからない程度に切り揃えられていた。
「となると、彼女を雇ったのはその後かえ?」
おまえのことだおまえの、と悪戯げな笑みを浮かべながら通訳させる。彼女はいささか恥ずかしそうだった。
するとスヴェンは不意に破顔した。よくぞそのことを聞いてくれたと言わんばかり。
「ああ、彼女――フランはね、私にとってはまさに天からの贈り物のようなものだよ。今こうやって話せるのも彼女のおかげと言っていい。彼女以前にも何人か通訳を雇いはしたが、彼女ほど正確に、そして迅速にことばを伝えてくれるものはいなかった」
これが普通の使用人なら謙遜でもするのだろうが、フランはあいにく口無しだ。顔を赤くしながら恐縮げに頭を下げるしかない。
「私のことも褒めてくださって結構ですよ」
「そういう卑しいところと洒落がわかるところは気に入っているぞ」
薄褐色肌のテオがそれと分かるほど赤くなる。人前でからかったせいかもしれなかった。
スヴェンの賛辞に頷きながらユエラは考える。幻魔術の濫用は控えたほうが良さそうだ。フランの価値を毀損するような真似はすべきでない。
「だから驚いたとも、ユエラ嬢。あなたの音をこの耳に聞いた時は。……音など忘れて久しく、無くても構わないというくらいに思っていたのだから」
続いて供されたのは薄切り牛肉のビネガーソース和え――赤を基調にした彩りが目にも鮮やか。
彼にとってのユエラとはつまり、フランに続く"天からの贈り物のようなもの"だろうか。舌鼓を打ちながらユエラは真実を告げるタイミングを見計らう――それにつけても生肉は美味い。
「……話というのはもしや、近くこの街を出て行かれるということではあるまいか。よもや引き止められるとは思わないが、せめて食事くらいでもと愚考してな。老い先短い人間に何惜しむことがあろうか、と笑ってもらいたい」
スヴェンがそういって笑うのに、ユエラもかすかに口端をもたげて笑った。
「今のところ、少なくともすぐに出ていくというような話ではないのう」
「何かお困りのことでもあったかな? お恥ずかしいことだが、この街は決して平和とは言い切れない。テオ嬢は十分腕が立つようだが、他に私にできることなら手助けは惜しまないだろう」
「……それだがな、スヴェン殿」
ユエラは生牛肉をあっさりと平らげ、ナプキンで口周りを丁寧に拭きながら切り出した。
「あいにく私は、おぬしが思っているようなものではない」
「……どういうことかな?」
困惑げに首を傾げるスヴェン。
そして、ユエラはフランの通訳を介することなく、自らの声を彼の感覚神経に直接流しこんだ。
「私は旅芸人の類じゃない。おぬしに運良く授けられた天からの贈り物でもない。私は――魔術師だとも、スヴェン殿」
瞬間、椅子の上に座ったままスヴェンの肩が跳ねる。
弦楽の音を耳にするとはわけが違う。それはユエラの声そのものだ。
「表に張り出されておる御尋ねものな。あれが私だ。私の魔術をもってすれば、おぬしに声を、音を届かせるくらいはたやすいことよ」
その時、折悪しくメインディッシュのステーキが運ばれてくる。応接室に入ってきた調理人はただならぬ気配に思わず震え上がった。スヴェンが咄嗟に「大丈夫だ、置いておいてくれたまえ」と言って事なきを得たが、これにはユエラも少し感心した。
ユエラは焼けた肉にナイフをかちゃかちゃと滑らせながら言う。
「……それでも先と同じことが言えるかえ、スヴェン殿?」
低く喉を鳴らしてユエラは笑う。フランは身をこわばらせ、二人への警戒をあらわにする。
「……言ってしまって良いのですか?」
テオが思わしげに尋ねるが、ユエラは一向に構わなかった。むしろ相手の反応を探る試金石にはちょうどいい。
スヴェンは数瞬ユエラを凝視し、瞑目する。
「……何が目的だね?」
「私はゆっくりと気楽に隠棲するつもりだったんだが、どうも情勢がそれを許さんらしい。であるから、もう隠れるのは止めにしようかと思ってな」
真っ二つにしたステーキの半分にフォークを突き刺し、かじりついて肉を噛み千切る――彼女の幼い美貌とは裏腹なほど粗野に。少女の内面に潜む獣性をことさら見せつけるように。頭の上にぴんと立つ狐耳、ドレスの裾から覗く二尾のしっぽも隠さずに。
「どうだ、スヴェン殿? ――――この私に首輪をつけて飼ってみんかえ?」
ユエラは口元を凶悪な笑みの形に変え、肉の塊を嚥下しながら笑った。
「ゆ、ユエラ様、そのお役目は是非にも私が、」
「おまえはちょいと黙っとれ」
◆
ユエラの頭の中にある具体的な考えは次のようなもの。
まず大前提として、イブリス教団はユエラの居所を探り当てるための魔具――〈災厄共鳴の羅針盤〉を所持している。巷を騒がせる御尋ねものとユエラを結びつけて考えているかは微妙なところだが、おそらく教団内でも考えが分かれるだろう。
イブリス教団原理主義では、魔王に匹敵する魔物がいるとは考えない。しかし現実として"御尋ねもの"の魔力は魔王イブリスをも超えるもの。それをユエラ――もといテウメシアと認めることは、彼らの教義に真っ向から反することになる。
「……ユエラ嬢、あなたの置かれている状況はわかった。それで、なぜ私に提案を持ちかけた?」
ユエラに害意がないと知り、スヴェンはいくらか落ち着きを取り戻した。通訳を介さない会話への違和感はあるようだが。
その上でテオの発言はフランに通訳させる。私はおまえの役目を奪わない、というアピール。その甲斐あってか、彼女もだいぶ警戒を緩めてくれていた。
「理由はない。私がおまえを知っていて、おまえがここにいたからだ。……しいて言うなれば、おまえが私の演奏を認めてくれたからだ、といったところかのう」
ユエラは喉を鳴らして笑い、きこきことフォークを動かす。先ほどの野蛮さは完全になりをひそめ、細かく切った肉の塊を上品に頬張る。
スヴェンはその様子をじっと見つめ、そして、得心がいったように頷いた。
「……つまり、私を隠れみのにするということだな」
「うむ。しかし宿主を枯らす寄生虫のような真似はせんよ――私が軒先を借りた分は、きちっと肥え太らせてやる」
「……わかった。話しておくれ、ユエラ嬢」
スヴェンの促す言葉に頷き、ユエラはかねてから考えていた段取りを話す。
「私は、まあ、囚われていた。そんなところか。誰に咎を押し付けるか? 教団がちょうど良かろうな。そして私はあやつらの元から逃げた。逃げ出した私は巷でちょっとした騒ぎを起こしたが、あてどなくさまよっているところをおまえが無事に保護した。そこで私の情報をくれてやれば金貨三枚が得られような」
「あなたは街中で派手に目立っていたぞ、ユエラ嬢。あまり無理を言うものじゃない」
「おまえが見た娘には耳が生えておったか? 尻尾は? いやいや、ちょうど逃げ出したのがその時としてもよかろうな。テオは私が逃げるのを手助けしてくれた内部協力者としよう。実際こやつは元々イブリス教徒だからな、筋は通る」
「所属は異なりますが」
「外からでは分からんさ」
ユエラはあっけらかんと言う。細かいのか杜撰なのか分かったものではない。
「……空恐ろしいお嬢さんだ。いや、私が今見ているあなたの姿も幻か? この耳に届く音も、声も、全て」
「なにを言う。これはまぎれもなく私の本当の姿だぞ?」
くつくつと喉を鳴らして笑う。ステーキの皿もすっかり空にしてユエラは言葉を続ける。
「で、生け捕りは金貨二十枚といったな。これは諦めてもらう。公教会とやらに引き渡さねばならんだろうし、私は大人しく引き渡されてやるつもりなどさらさら無いからな」
「問題ない。元より私の思う通りになるとは思わないな、お嬢さん」
「うむ。……だが、代わりに私はおまえに従属する。おまえは私に首輪をつけた。おまえの言うことならば聞き入れる。おまえが私の手綱を握っているうちは私も大人しくしている。――――誰しもにそう思わせてやろうではないか、なあ?」
ユエラの口端が隠しもせずに三日月形を描く。
瞬間、スヴェンはその言葉が意味するところに思い至った。
ユエラの力は全くの未知数だが、誰もが恐れることは疑いようがない。魔王イブリスを超越するほどの魔力の持ち主なのだ。
その力が一個人の手に収まれば、果たしてどうなるか。
スヴェン・ランドルートに表立って反抗することは極めて難しくなるだろう。いつユエラという怪物を差し向けられないとも限らない。――――本当は首輪がどこにも繋がっていなかったとしても。
「私は働くのが嫌いでな。……だがまあ、おまえに従順な振りくらいはしてやってもいいぞ? それでもう耳もしっぽも隠さんで済むなら、たまにはしっぽを振ったり腹を見せてやるのも悪くない」
「ゆ、ユエラ様、それはどうか私にもしていただきッ」
「阿呆」
ユエラは横から口を挟むテオの頭をぺしんと叩く。ちいさな声でその耳元に囁きかける。
「……ちょっとだけだぞ?」
薄褐色の耳たぶにぼ、と火がついたようだった。フランまで顔を赤くしている――――とんだ地獄耳である。こんな話まで耳に入れずとも良かろうに。
「と、まあ、そんなところだ。私はおまえに飼われてやる。だからおまえは教団潰しを手伝え。兵を寄越せとまでは言わん。それに値する大義名分を仕立てとくれ」
「……先日の集団殺人。あれは教団内の派閥争いなのだね?」
「そう。おそらくは魔具を奪い合っての結果、であろうな」
ユエラはこくりと頷いたあと、ふと思い出したように言う。
「ああ、強制はせんぞ? おまえがフランと静かに余生を過ごすほうがお望みというならそれも構わん。口止めだけはさせてもらうがな。その時はまた別の手を考えるだけだ」
「……いや」
スヴェンは緩慢に首を振る。
「やらせてもらおう。あなたの力は非常に魅力的だ。いささか敵を増やすことにもなるだろうが」
「わかっていてやるのだな?」
少し意外に思う。ユエラの見立てでは半々程度の勝算だった。以前の金離れの良さを見るに、あまり未練があるようには思えなかった。
「私にも欲があるとも、ユエラ嬢。……もっとも、あなたが囚われていたという脚本には少々無理があるように思えるがね」
「案ずるでない。たとえ百人が否定しようとも、一人が"真実"を話せばそれで事は済む。……違うかえ?」
通常は苛烈な拷問によって行われる誘導尋問。だが、ユエラはもっとスマートにそれをやれる。
対象に仮初の記憶を擦り込んでやり、ありのままの言葉を喋らせる。それはもはや強制された告解ではない――彼一人の中ではまごうことのない"真実"だ。
「……空恐ろしい、いや、恐ろしいな、あなたは。私が狐に化かされていない保証など、どこにも無いように思えてならない」
「聞こえているように感じる幻、実際に耳を通して聞こえる声。そいつらの何が違うと思う、スヴェン殿。……何も違わないとは思わぬか?」
スヴェンは黙したままナイフとフォークを置く。食事も喉を通らなかったようだ。彼が合図するとともに食後のデザート――きんきんに冷えた氷菓子が供される。
「ひとつだけ条件を申し上げたい、ユエラ嬢。無理にとは言わないが」
「……ほぅ?」
一度は頷いた後で何を言い出すことやら。ユエラはにわかに興味がわいた。狐耳をぴくんとひくつかせ、左右の毛並みをそばだてる。
「気が向いた時で構わない。……また前のような演奏を聞かせておくれ、お嬢さん」
スヴェンはわずかに頬をこわばらせながら言う――以前と変わりない言葉を。
ユエラが規格外の怪物であると知りながら。
彼女の音は幻魔術――幻の産物でしかないと知りながら。
「……くくっ」
ユエラは実に愉快げに艶笑して、「良かろう。お安い御用だ」と、氷菓子にスプーンを突き立てた。