四話
爽やかに緑が薫る風が、城下町の小川へ柔らかな波を作る。甚六はまた城下町に足を運んでいた。
ゆるゆると歩いていると、千代が橋を渡ろうとしていた。
「おぅ、お千代ちゃん」
「あ、甚六さん」
手に巾着を下げ、嬉しそうに走り寄ってくる。
「近くで市やってるんだけど、よければ一緒に行かねぇかい?
甲斐性なしの甚六だけっども、かんざしくらい買ってやらぁ」
辰三が帰った後、甚六は梅にどやされながら千代と食事をとった。
千代は二人の様子を見て、終始わらいっぱなしだった。
「たまにはお梅さんにもそうやって言ってあげたらいいのに。
そうだ、お梅さんに買って帰りましょうよ!」
「あいつに似合うかんざしねぇ…。
こりゃ探してるうちに店が閉まっちまうな」
微笑む顔はまだ子供らしい。
陽気に冗談を飛ばしながら、甚六は考えていた。
千代は何も知らないのだろう。
千代の父親は越後屋。
代官小田原と数年前から関係が密になっている。
志乃に洗わせたところ、流れ者の浪人に汚い仕事をさせていた事が分かった。
自分の父親が悪業をしている事実を告げようか迷っていた。
しかし、事は今夜起きる。
その時にこのあどけない少女は、店に一人残されてしまうのかと…表情には決して出さないが、柔らかに千代が笑う度にじわりと不安に感じてしまう。
「そうだ。甚さん、
もうすぐね、兄様が帰ってくるの」
賑わう市でかんざしを手に取りながら、思い出したように言う千代。
「兄さんがいるんかい、お千代ちゃんには」
それは知らなかった、と声を上げた。
「ええ。
分家の屋敷で修行を積んでいたんだけど、父様がそろそろこちらのお仕事を手伝うように、と仰られて近いうちに戻られるの」
微かに笑う顔に、甚六は安心したように笑った。
「…それなら大丈夫そうだな」
「はい?」
「あ、いや……その、お千代ちゃんに悪い虫がつくといけねぇからさ。
兄様が来るんなら大丈夫かな、とな。
お千代ちゃんは可愛いからな」
慌てて甚六は頭をかいた。
対して千代は手に取ったかんざしを元の場所に戻す。
沈んだ顔で俯く千代。
「私…実は、父様に代官様のお嫁に行けって言われたの」
知っている。
これが代官から越後屋に力を貸してやる代わりに出された、交換条件だ。
傍から見れば娘が地位のあるお屋敷に入ることになるので、庶民からは願ってもない縁談。
「私の幸せの為だってそう言うんだけどね……
私も素晴らしいご縁だし、父様やお店の為になるから嬉しいんだけど……
本当はね、私、まだお嫁にはいきたくないの」
甚六は、そうかいと相づちを返す。
千代の心根の優しさに触れ、感動していた。
「父様や兄様には叱られてしまうかもしれないけれど、まだ少し一緒にお店を手伝わせてほしいし……
それにね、勉強したいの。字を読みたいの」
「へぇ、何で」
恥ずかしそうに言う千代。
城で勉学に励んで育ってきた清光として、千代の心意気は珍しかった。
嫌で嫌で仕方なかったのに、どうしてこの町娘はそんな事を求めるのか。
「実はね…」
千代は嬉しそうに話す。
女が勉学に励むなど生意気だという周りの意見に怯え、隠してきた事を初めて認めてくれた甚六。
彼女にとっては大切な事だったから。
——その夜。
代官屋敷の門を着流しの男がくぐった。
辰三である。
屋敷には代官と越後屋がまた酒を手に、懇意にしている遊廓から呼んだ芸鼓に舞を踊らせていた。
辰三は越後屋の付き人の制止を聞かず、乱暴に二人のいる部屋の襖を開ける。
「なんだ、辰三。
勝手に入るとは無礼な」
少し顔の赤い越後屋。
不機嫌そうに口を尖らす。
芸鼓は場の空気を読んだのか、部屋の外に出ていった。
辰三はあまり酒が好きではない。
鼻先をかすめる酒臭い空気から気を逸らそうと、きっと目頭に力を入れる。
元々目付きが悪い。まるで睨んでいるように見えた。
それが気に入らなかったのか、代官が酒を口元にやるのを止める。
「雇い主を睨むとは恩知らずな奴よ。金なら払ったろう」
「…前回の二倍、との話だったはず」
辰三も元から人を斬るのが好きなわけではない。
また仕事を受けたのも、金の為。
「なにを偉そうに、只の飼い犬風情が」
鼻で代官は辰三を笑う。
辰三の嫌いな酒を口に含みながら。
「お前のような野良犬が拾われただけでも感謝すべきだろうが。
犬は犬らしく、主人の云う事を黙って聞いていれば良いんだ」
下品な笑い声が部屋にこもるように響く。
辰三には、飼われている気などない、むしろ金で汚い仕事をさせる彼らを軽蔑していた。
かっと頭に血が上り、とっさに刀に手をかける。
だが……ここは代官屋敷。
辰三以外の用心棒が多数控えている。
辰三の方が腕は上だが、人数が多すぎる。
それに、辰三はようやく自覚した。目をそらしていたことに気付く。
人を金で殺してきた自分も…目の前で笑う男たちと、同じなのだと。
自分の腑甲斐なさに、奥歯を噛み締めた。
「だ…代官様!大変でございます!」
外から悲鳴が上がり、何かが倒れる音がした。
ばたばたと廊下を走ってきた男が青い顔をして、座敷に飛び込むように入ってきた。
「大変でございます!曲者が屋敷に侵入しました!」