三話
一瞬で首筋に走る刃の感触、
だが同時に志乃も小刀を相手の目元にあてる。
お互い一撃必殺、しばらく固まるように動かない。
どうしたものか…と暗い廊下で志乃は考え込む。
このままの状態が続いても、誰かに見つかって不利になるのはもちろん侵入者の志乃。
くのいちの掟ならば目撃者は全殺だが、清光からは禁止されている。
隙をついて退却するしか手はない…と考えていると、小声で遊女が志乃の名を呼ぶ。
「アタシだよ、お志乃姉さん」
「…おなつ、ちゃん?」
綺麗な着物を身にまとい、艶やかに着飾った女……
志乃は見覚えがあった。
「厭だ。思わず殺しちまうところだったじゃないのサ。
…とにかく他に見つかる前に、こっちの空き部屋に」
しゅんと空気が緩む。
志乃は一度だけだが深く、なつという鼠女と行動を共にしたことがあった。
清光に頼まれて、ある屋敷に侵入したところ屋敷の金を盗もうとしていた彼女と出会った。
結果、屋敷が強要して搾り取っている村落に、金を返そうとしていたなつと志乃は屋敷の者を二人で成敗したのだ。
鼠女として盗みを繰り返していたなつだが、まだ手は甘く、その一件で手ほどきした志乃を尊敬し、姉のように慕っていた。
しかしそれ以来、顔を合わせることがなかった二人。
「遊廓なら役人も馬鹿な男に成り下がるから、都合がいいンだ。
ここではなつゆで通ってる。
まっとうな仕事じゃないけど、前よかいいでしょ」
志乃は少し安心する。
なつはこの世界に長くいてほしくなかった。
だから遊女でも血に塗れた仕事より、志乃にとっては良かった。
「ここに獲物でもいた?
まぁ悪い事ばかりしてる奴らだらけだけど。
店で血はご法度だ」
「大丈夫、隠密だから刀は最低限抜かないわ。
私はね、部屋に入って行った浪人の辰三を追ってるの。
あの人のこと…何か知らない?」
厳しい志乃の目に対して、なつはなぜか悲しそうに笑った。
「辰三って…いうンだ…あの人」
その表情で志乃は、なつの心中を察した。女同士だから感じる勘。
――おなつちゃん、辰三のこと…
「…あの人ね、久しぶりに帰ってきたの。
ここ半月くらい姿を見せなかったくせにサ」
なつは分かっていた。志乃が辰三を追う意味を。
辰三に初めて会った時から感じている予感を。
「おなつちゃん…」
志乃の言葉を遮るように、なつは少し陽気に言う。
「分かってたンだ、アタシ。
あの人ね…血の匂いが、したの。
それで何やってきたンだか、アタシには分かっちまう。
…変な関係サ。
あの人もね、アタシと初めて寝た夜に、お前は血の匂いがする…って低い声で言ったンだよ。
だから…あの人も、アタシが何をしてきたのか、分かってる」
なつの指が、微かに震えていた。
志乃は唇を噛む。
伝えられない、からだ。
何もかも洗いざらい教えて、一緒に確かめに行きたかった。目の前で気丈に涙を耐えている、まだ女になって間もないこの娘に。
しかし、志乃は頭を振る。
「それじゃ……行くわ。おなつちゃんも元気で、ね」
「アタシは元気サっ!
お志乃姉さんも達者でねっ!」
暗い廊下を抜け、屋根伝いに走っていく。
なつはしばらくその背を追うように眺めていたが、ぱたんと襖を閉めた。
再び濡れるような闇の廊下を歩き始める。
「…そう、アタシは元気だよ…やっと奴らを見つけたンだからね」