二話
夜、越後屋長谷川と代官小田原が、代官の屋敷で酒を酌み交わしていた。
「泉谷の一件の浪人をわしに?」
代官は酒を含みながらにやりと笑う。
越後屋もにやつきながら、組み手をする。
「はい。泉谷の際は大変お世話になりましたので。
代官様ともなりますと、辺りには虫ばかりでしょう。
虫退治に如何かと」
代官が頷くと、越後屋は横に控えていた男に襖を開けさせた。
外には男が一人正座で座っていた。
濃い緑の着流し、腰には太刀を構えている。
面を上げさせると、仏頂面な男の顔が蝋燭と月明かりであらわになる。
涼しい瞳には炎が映っていた。
「ほう。お前が噂に聞く『鬼の辻斬り』か。
あの一件、良い働きであったぞ」
その言葉に、男は軽く会釈をするだけ。
越後屋はため息を吐く。
「愛想は悪いんですがねぇ、腕は間違いのうございますよ。
…辰三、金は後で渡す。下がれ」
黙って頭を下げて、男はその座から去った。
「…鬼と呼ばれた男もこれからはわしの犬同然だな。
しかしこ度の悪業三昧、そちも悪よのぅ」
「いえいえ。お代官様ほどでは」
二人は不気味に笑い合い、再び酒を酌み交わした。
辰三は屋敷を後にし、自分の記憶を頼りながら、夜の城下町を歩く。
月の光しかなかった闇の町に、にぎやかな声と明るい提灯がちらちらと見えてきた。
一番大きい提灯が下げてある、遊廓の門をくぐる。
……辰三が江戸にいた頃、ここの女に度々会いに行っていた。
体の関係以前に、話していると何故か安心できる女。
人を斬るようになってから色々な遊廓に通ったが、その女に会ってから他に通うのを止めた。
「…久しぶりなのに、変わってないね。浪人サン」
薄暗い部屋。冴えた月の光が外から漏れている。
着流しを羽織る辰三の横に裸で寝転がっているのは、遊女の『なつゆ』だった。
「お前も変わってない」
艶やかに笑うなつゆに、辰三は隣に寝そべって続ける。
「ここも変わらない」
「厭だ。うちの悪口?」
違うと低い声のまま、辰三は天井を見上げながら言う。
「江戸だ。俺が来た時と同じ。夜が暗い」
辰三は外に目をやる。
艶めかしいなつゆの体の輪郭が月明かりで光り、異様に官能的に見えた。
独り言のように呟く辰三を見て、なつゆは少し真面目な目をする。
「ねェ、浪人サン。何しに戻ってきたの?」
黙ったまま辰三はなつゆを腕に抱く。
そして小さな声ですまない、と囁くだけ。
「何にも教えてくれないのね。意地悪な人」
本当にすまなそうに悲しい瞳をしている辰三に、なつゆは少し笑う。
「それじゃ、何か旅のお話を聞かせて頂戴な。
せっかく久々にアタシに会いに来てくれた夜なンだから」
なつゆは辰三が好きだった。
例え名前さえ教えてくれなくても。
仕事で客をとる毎日だが、この静かな男だけは自分らしくいられる。
辰三の抱いていた安心感と同じ物を、なつゆは感じていたのだ。
二人は静かな夜を久しぶりに語り明かした。
同じ夜。
城に戻った甚六こと清光は、志乃にあの浪人のことを調べさせていた。
下町の情報収集は志乃の役割である。
志乃だけ城下町に残り、辰三を洗う任務の為暗躍した。
彼女は腕のいい諜報、すぐに情報は揃う。
月明かりで光る城の池を眺めながら、清光は志乃からの報告を受けていた。
「…そうか。『鬼の辻斬り』とは、辰のことだったか」
「はい。越後屋に雇われて、二人の頭主を斬っています。
越後屋だけの仕業と思いましたが、おそらく…」
志乃の目が険しい光をたたえる。
清光も分かっているのだろう、頷く。
「これだけ派手に立ち回っているというのに、役人の腰が動かないのであれば…同じ泥元であろう。
手下も辰三だけではあるまい」
ため息を吐いて、額に手をやる清光。
如何なさいますと言う志乃に、伸びをしながら頷いてみせた。
「やるしかなかろう。…爺と内藤には内緒だぞ」
まだ子供のような口をきく主に、志乃は軽く頬笑む。
そのまま主と別れ、再び城下町を目指す。
夜の情報収集は酒と女のある場所。
そっと遊廓の屋根に登り、下を見渡すと辰三の姿を見つけた。
「あの店…確か辰三が足繁く通っていると聞くな」
遊廓に入るのを見届けて、志乃は屋敷の空き部屋から侵入する。
闇に潜んで、辰三の気配を追う。
そこかしこで三味線の音や遊女の笑い声が華やかにあがっている。
志乃には縁のない世界だ。
辰三が通された間を確認していると、
微かに後ろで———刀を抜く音がした。