一話
これは江戸の城下町、徳川清光の世のこと。
ある日の昼下がり……鼻歌を歌いながら、機嫌よく歩いている男がいた。
城からこっそり抜け出し、いつものように城下町へ向かうこの男……実は六台将軍清光本人である。
公務は部下の内藤に任せ、『遊び人の甚六』と名乗っては遊び回っていた。
家老の爺は彼がいなくなる度、胃痛に悩まされるほど心配しているが、彼なりに民を守っているのである。
「…む、喧嘩か?」
辺りは人気の無い林の道。
旅人しか通らぬ道だが、どこかでしきりに剣の交わる音がしていた。
耳を頼りに歩いていくと川に出る。
川原で数人に囲まれている男がいた。
互いに太刀を交えている。
ざっと六人…これほどの人数を一人で相手しているとなると、相当の腕前だろう。
甚六はしばらくその様子を見ていたが、さすがに太刀をさばくその男も疲れているようだった。
うずうずしてきた…。
「大人数相手とは卑怯千番!助太刀、参る!」
我慢できず甚六は声を張り上げて、川原に走っていく。
砂利を踏みしめ、男二人をまとめて蹴り倒した。
「何奴!」
頭らしい男が倒れた部下を見て、たじろぐ。
甚六は自信に満ちた顔のまま、剣を向ける。
「はん、大したことないな。
どうした。やるのか、やらぬのか」
気圧されたのか、頭は退け、と短く叫び、残りの男たちを率いて去っていった。
「助太刀など呼んでいない」
肩で息をしながら、男は甚六に剣を向ける。
乱れた着流し、長く結った髪。
……どこぞの道場の者かと思うたが、浪人か。
甚六は人懐っこく笑って、剣をおさめる。
「そういきり立つなって。
俺の名は甚六。その辺の遊び人だよ。
いやぁとっさに割って入っちまったけど、斬り合いは怖ぇえな」
足が震えてらぁと豪快に笑ってみせると、男もつられたのか、仏頂面が少し綻ぶ。
「可笑しな男だ。
俺は辰三。
江戸へは久しぶりでな…飯屋を探していたんだが、途中で出くわしちまった」
「丁度良い。こっちも腹が減っててね。
良い店連れてってやる」
その様子を頭上の木から見ていた城のくのいち、志乃はため息を吐く。
「また上様は余計なことを…」
しかし止めることはできない。
志乃は静かに二人の後を付けていく。
と言っても、飯屋の場所の検討はついている。
甚六としてよく通っている、馴染みの店だ。
二人はやはりその店に入っていった。
「刀なんざ持ってっからだよ。
旦那、浪人辞めてよぅ、この辺で女もらって住み着いちまえばいい」
店の老亭主が腕を組みつつ、笑って言う。
女が甚六の所に料理を運びながら、そうだよと頷く。
「この辺の女は器量も良いし、刀は持たないけど男より強いから安心だよっ。
この甚さんなんか、凧みたいにふわふわしてっから誰も寄り付きゃしなくてねぇ」
「うるせぇなぁ。
お梅は喋らなきゃ嫁にもらってやってもいいぞ」
甚六がにやにやしながら女に言うと、老亭主は甚六をこづく。
「お前ぇな女たらしに、大事なお梅を盗られてたまるかい」
どっと笑う三人。
黙って聞いていた辰三も少し楽しそうに目を細める。
辰三は生来寡黙で仏頂面、そしてよく食う男だった。
「アンタ、まだ食うかい?
握り飯、もう一つこさえようか」
見かねた梅が飯をかきこむ辰三に言う。
一寸黙って、辰三は頷いた。
「にしても辰、お前金はあんのか?」
「…ああ」
懐に手を入れて財布を探そうとした時、店の引き戸が開いた。
「いらっしゃあい。
…あら、お千代ちゃんでないの」
梅が陽気な声を上げた。
入ってきたのは手に巾着袋を下げた少女だった。
先に座っていた甚六たちに気付くと、はにかむように頭を下げて微笑む。
「可愛いねぇ、お千代ちゃんていうんかい。
おいらはねぇ…」
花の下を伸ばした甚六が身を乗り出すと同時に、辰三は席を立った。
「…お梅さん。悪いが、握り飯はまた次に頼む」
そう言い残すと、さっと店を出て行った。
「あらあら。どうしたのかねぇ、辰さんは」
梅も千代も首を傾げる。
「流れもんの考えてることなんざ分かりっこねぇよ。
…甚六、てめぇ代わりに金払ってけ」
「え、俺が?
……くそ、辰の野郎」
老亭主の凄味に圧され、甚六は仕方なく財布から金を出した。