協力者
事故を起こした運転手は病院の処置室に運ばれた。駆けつけた警察官は廊下で待機している。診察が先との判断は病院と警察双方のものだ。治療の前に事情聴取を始めたら何と言いがかりをつけられるかわからない。訴訟などという事態はどちらにとっても益がない。
「外傷はたいしたことありませんね」
担当した医師の見立ては打撲だった。普通なら湿布を貼っておしまいになるが、担当医は患者の赤い顔に疑問を抱いた。酒の臭いはしなかった。
「熱がありますね。打撲でこの熱は」
体温計の目盛りは四十度を示した。怪我をして熱を出すことはあるものの、軽傷でこれほどの熱が出ることはありえない。事故を起こす前から発熱していたと考えるほうがしっくりくる。熱による判断力、運動能力の低下が事故を招いたのだ。医師は患者に同情しつつも、無理をして運転した浅はかさには怒りを覚えた。
「ともかく熱を下げます」
解熱剤の投与と、熱で失われた水分を補給するための点滴が行われる。
「先生……熱い……」
「田所さん。熱いのはわかりますよ。酷い熱だからね。あなた、無理しすぎたんです」
医師は患者の容態を個人ファイルに記載した。顔を上げずに処方箋も書き始める。
「熱いんです……」
田所は腹に手を置いてかすれ声で呟いた。
葉室は警察官が処置室に入るのを横目で確認した。さり気なく部屋に近づいて耳をそばだてる。室内の声はくぐもって聞こえない。更にドアの間近に移動しようとしたとき、水野の白衣が視界を遮った。
「治療はすんだのか、葉室」
「ああ、終わった」
葉室は大袈裟に巻かれた手の包帯を示した。警察官にも事故の状況を説明済みだった。
「災難だったな」
「いや、運が良かった」
「なんだそりゃ」
葉室は事故のことを思い巡らした。警察に語らなかった事実がある。
軽傷ですんだのは病院の敷地に植えられた槐に助けられたからだ。冬枯れ木が葉室の気を引いてくれたお陰で命拾いした。あの木は恩人だ。
そんなことを言っても警察は困るだろう。頭のおかしい人間の対応に人員を割かなければならなくなってしまう。それこそ災難だ。
葉室自身、まだ偶然ではないかと疑っていた。だが、時系列を逆に辿っていくと、槐に助けられたのが間違いないと思えてくる。事故の後に見上げた枝は頭より数十センチも高くなっていたのだ。手を伸ばしてやっと届くくらいの距離だ。風が吹いて動く範囲を超えていた。
「それよりもあの運転手だ。あいつを表に出すな」
水野の肩越しに処置室を見た。まだ警察官は出てこない。
「馬鹿を言うな。お前、どうかしているぞ」
水野は困り顔で身体を揺らした。葉室の目から処置室を隠そうとしている。彼には彼の立場がある。葉室の不審な行動を見咎めずにはいられなかったのだろう。
「あの男……田所というらしいな」
漏れ聞こえた単語で聞き取れたのはそれだけだった。水野に鎌をかけると舌打ちが返ってきた。運転手の名前であたりらしい。
ひと呼吸置いて、葉室は口を開いた。
「田所は怪に憑かれている」
「……なんだと」
水野の揺れ動いていた肩が固まった。妄言だとは言わなかった。
「前に見せた奴を覚えているか」
「あれか」
水野は緊張した面持ちで頷いた。
葉室はかつて病院を訪れた際、水野に怪を見せていた。外科部長室で黒く粘る怪を誘い出した時の水野の顔は滑稽なほどだった。
白い皿に乗せたセージを目がけて、怪たちは我先に飛び込んできた。皿を取り巻き、渦を巻く怪の異様さに水野はうなり声を上げた。ゼラニウムで消すまで彼は難しい顔を崩さなかった。
こいつらを滅ぼすために力を貸して欲しいと頼んだ。どうしても医師の協力が必要だったからだ。水野は一も二もなく助力を約束してくれた。それ以来、病院関係者にしか手に入れられない物を受け取ってきた。今日、病院に訪れたのも約束の品を受領するためだった。
「本当に怪というやつなのか?」
「間違いない。奴らは匂いに敏感なんだ」
怪はセージなどの清浄な匂いを好む。取り憑かれた人間も同じように反応する。
葉室は田所が処置室に入る前、廊下にセージの香りを漂わせておいた。普通の人間には気づかないごく弱い香気だ。葉室でも拡散した匂いを探るのは難易度が高い。田所は通りすがりに匂いの元を探る様子を見せた。間違いなく陽性だ。
水野は背後を振り返り、処置室を見た。顔が戻ったとき、目に決意の色があった。
「俺はどうすればいい」
葉室は手応えを感じた。協力者がこちらに一歩踏み出してきた。そんな印象を受ける。
「なんとか田所を引き留められないか」
病院で身柄を確保できるかどうかが肝だ。怪我の処置が終われば警察は連れて行ってしまう。逃走の危険性がないと判断されたら自宅に帰すことも考えられた。そのせめぎ合いを制して欲しいと頼んだ。
「一日でいい。その間に準備を整える」
「よし、任せておけ。内科部長には貸しがあんだ。嫌とは言わせない」
「助かる」
水野の言質を得て葉室は病院を後にした。
玄関を出たところで空中回廊を睨んだ。葉室を見て笑った掃除婦はいなかった。
彼女の存在が気がかりだった。あの時何を見て笑ったのだろうか。葉室の悪運か、怪我をした不幸か。驚きに目を見張る野次馬の中で彼女だけが異様だった。
「急ごう」
葉室は自分に言い聞かせ、あるかなきかの疑念を振り切った。