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人形師の庭園  作者: あると
白檀
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槐の守り

商店街を抜けて数分で国道に出る。国道と冠していても幅のある車は車線ぎりぎりだ。都内を巡る幹線道路はこういったものがたびたびある。

葉室は歩行者信号を待つ間、目の前にそびえる白い建造物を見上げた。ところどころがガラス張りになっている。本館と別館を繋ぐ中空の回廊に入院患者や白衣姿がはっきり見えた。

豪奢な作りだ。

葉室はいつもと変わらぬ感想を抱いた。

信号が青に変わり、横断歩道を渡る人々が歩き出した。足早に前に進む若者。杖をついてゆっくりと歩く老人。その介添えをする中年の女性。子供たちは声を上げて走っていく。

日向から日陰に入った。明るい人声が少なくなり、静かな空気が漂い出す。建物の陰はひんやりとしていた。ビル風が背中を押し、まとわりついた冷気が首筋から入り込んできた。

木々のざわめきが聞こえた。寒々しい姿をした桜の木が枝をこすり、(えんじゅ)の垂れ下がった細い枝が躍る。

「槐……延寿にかけたのだろうな」

葉室は先人の知恵を思い、医大病院の玄関をくぐった。


受付に用件を告げると、すぐに案内された。医薬品の売り込みという理由に疑わしい目は向けられない。何度も訪れたことがあるから顔も覚えられていた。

「よう」

外科部長の部屋に入った途端、葉室は鼻を刺激する香辛料の匂いに眉を顰めた。

「唐辛子を入れすぎだ」

「そうかなあ。俺はこのぐらい入れないと味気なくてさ」

カップラーメンをずるずるとすすり込みながら、白衣の男は椅子を勧めた。

「待ってくれ。すぐに食べ終わるから」

「ゆっくりでいい。ちゃんと噛んで食べろ、水野」

葉室の助言を聞いていないのか、水野は熱いスープをごくごくと勢いよく飲み込んだ。プラスチックの容器に置いてあったおにぎりも頬張る。

「ああ、面倒くせえ」

おにぎりをカップラーメンの器に入れて箸でかき混ぜた。お茶漬けならぬラーメンのスープ漬けをかき込んだ。

「それが昼食か?」

「まあね。身体には良くないが、しかたないだろ。食わないよりいいってやつさ」

ゴミ箱に器を放り込み、水野は太めの腹を叩いた。

「そうではなくてだな」

葉室は時計を見る。三時を過ぎて四時に近い。こんな時間まで食事を摂れなかったのなら今日も忙しかったはずだ。頼んでいたものを分けてもらいに来たが、貴重な時間を浪費させてしまい申し訳なかった。

「五時から会議だからあまり時間がとれない。慌ただしくて悪いな」

「すまん」

一言だけ謝った。水野があまり細かいことにこだわらない性格なのは長年の付き合いでよく知っている。早く用件を済ませたほうが彼のためになると判断した。

「いいって、いいって。お前の仕事のことはわかっているつもりだぜ。よし、行こう」

「その前に、ひとついいか」

葉室は鞄から小さな霧吹きを出し、精油の瓶を傾けた。手早くアロマウォーターを作り、机周りに吹きかける。

「なんだ。不思議な匂いだな」

「マヌカというニュージーランドの木から取れる精油だ」

「木のような、草のような、甘いような……」

水野はどう表現したらいいのかわからない様子だ。

「臭いが取れただろ」

「おお、そうだな。いや、あまりわからんが」

がははと笑う友に葉室は肩をすくめた。

「掃除のおばちゃんは喜んでくれるぜ。生ゴミはやめてくれって言ってたからよ」

水野に促されて部屋を出た。すぐ先で掃除婦の女性とすれ違った。水野は視線を泳がせていた。


人気のないフロアの奥に目的の場所がある。患者の処置室ではなく、主に解剖に使われる手術室だ。

「昼前に新商品が入ったんだよ」

その連絡を受けて、葉室は病院に訪れた。

室内は白檀(サンダルウッド)の香りがした。お寺などでよく使われるお香である。自然と厳かな気持ちになる。

中央の台の上にはボディバッグが乗せられていた。いわゆる死体袋である。新商品というのは水野なりの冗談だ。目は笑ってなかった。

チャックを開けると臭いが立ちこめた。白檀と香りが拮抗する。

マスクを手で押さえた葉室は腐敗臭に負けそうになる。あらかじめの精油をマスクに振りかけておかなかったら嘔吐していたかもしれない。死体の姿は見慣れていたが、鼻が敏感なだけに臭気には未だに慣れない。

「司法解剖は済んでいるから、残りは好きなだけ持って行っていい。どれくらい必要だ?」

「可能な限り」

葉室は死者への瞑目を終え、水野の問いに答えた。

「わかった。そこの椅子に座って待ってろ」

水野はメスと太い注射器を取り、死体に向き合った。


葉室は譲り受けた品を鞄にしまい込み、病院を後にした。陽が落ちて風が出てきた。雪でも降りそうな冷たい空気に手がかじかんだ。

「ん」

頭に何かが引っかかった。足を止めて見上げると槐の枝が髪を乱していた。来た時と同じ道のはずだ。さっきは枝振りがこんなに低くなかった。

その時だ。悲鳴とクラクションが耳をつんざき、重機を乗せたトラックが横断歩道から歩道に突っ込んできた。

急ブレーキ。横倒しになったトラックから小型のショベルカーが滑り落ちた。盛大な音が響き、激しい振動が地面を震わせた。

葉室は反射的に頭を庇った。直後に身体のあちこちで痛みが走る。脚と腹は衣服が防いでくれたものの鈍い痛みがした。手の甲からは血が流れていた。

ショベルカーが落下した衝撃で地面が砕け、小石とコンクリートが襲いかかった。葉室の他にも怪我人が出ていた。

葉室は鞄の中が無事なのを確認して胸を撫で下ろした。安堵はそれだけではない。自分の身が無事であったことも僥倖だった。

危なかった。ほんの少し。あと数メートルの先を歩いていたら落下した重機に押し潰されていたかもしれない。葉室は植樹された槐を顧みた。

助けてくれたのか。

槐の枝に気を取られなかったら大怪我をしていた。延寿させてくれた槐に葉室は心の内で感謝した。

「大丈夫ですか!」

騒ぎを聞きつけた病院の人間が飛び出てきた。怪我人を見つけてすぐに手当を始めた。葉室の手にも包帯が巻かれる。

何人かがトラックの運転席に向かった。若い男が運転席から転げ落ちた。心ここにあらずといったようで火照った顔をしていた。熱があるのか、あるいは飲酒運転のようだ。葉室は男の赤い顔に疑念を差し込んだ。

まさか、妖に憑かれたのではないか。

取り憑かれた人間は熱病を発したようになる。運転手はその症例と似ていた。

見立てる人間によって思い浮かべる原因は異なる。葉室なら妖だし、医者なら病気を疑う。警察は飲酒運転だろう。

「葉室、無事だったか」

押っ取り刀で水野が駆けつけてきた。

「会議はいいのか?」

「この騒ぎでそれどころじゃないだろ。……どうした?」

水野の肩越しに空中回廊が見えた。野次馬が賑わう中で一人だけ落ち着いた物腰の人間がいた。水野の部屋の近くですれ違った掃除婦の女だ。

「なんでもない」

彼女は葉室を見てうっすらと笑っていた。


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