桉樹
部屋は緑に溢れていた。太陽が覗き込む南の面は足下から天井までがガラス張りだ。大きな窓から入り込んだ冬の陽射しがフローリングの床を白く染めている。
今日は過ごしやすい日だった。暖房器具がなくても暖かかった。一足先に春が迷い込んだようだ。
寝転んで目を閉じると心地好い眠気が訪れる。ただ、身体を横たえるスペースはあまりない。鉢やプランターが所狭しとひしめき合って居住権を主張しているのだ。新参者を受け入れるなら誰かが立ち退きを迫られることになる。
安眠していたベンジャミンが抗議の声を上げた。大きな鉢がずらされる。色艶のよい葉がかさりと揺れ、無言の抵抗を示した。
「ごめんなさい」
強面の地上げ屋が現れたと思いきや、立ち退きを迫ったのは年若い少女であった。
琴子はパズルの隙間を動かすようにベンジャミンを狭い通り道に押し込んだ。フローリングに膝をついて、鉢の下になっていた床に雑巾をかける。土と埃を拭き取り、雑巾を裏返す。こびりついた汚れを見つけ、更にこすった。
汚れが落ちると住人を元に戻した。ベンジャミンは親切な地上げ屋に葉を揺らして感謝する。
その後も琴子は植物たちとパズルをしながら拭き掃除をしていった。
「掃除か、琴子」
奥の仕事部屋から中年の男が出てきた。
「おはようございます」
上半身を起こした琴子は正座して父親に挨拶した。
「この香りは」
葉室は昼の光に目を細め、空気の匂いを嗅いだ。
「ユーカリです」
「ああ、そうだ」
葉室は疲れ目を揉みしだいた。夜を徹して人形を作り、数時間前に作業を終えたばかりだった。そのまま作業場で寝てしまった。寝起きの今は頭と五感が働いていない。日頃は敏感な嗅覚も弱っていた。
「精油を入れた水でお掃除すると抗菌作用があり、ダニなども防いでくれるようです。馨さんが教えてくれました」
行きつけのガーデンショップの店員である馨はアロマテラピーを学んでいる。彼女から勧められ、琴子はバケツにはユーカリの精油を落としてみた。効果がすぐに見えるわけではなかったが、以前より清潔感を感じる気がした。
「ダニ除けか。なるほど」
馨はクスノキに住み着いたダニの妖に襲われたことがある。そのことが原因でダニが嫌いになったのかもしれない。危地に陥った彼女を救い出したのは他ならぬ葉室だった。
「私はこれから出かける。後は頼む」
琴子に家のことを任せ、葉室は顔を洗って外出の準備をした。
「はい、わかりました」
娘の礼儀正しい返事を聞いて、葉室は首を回した。琴子と目が合い、視線を落とす。彼女は雑巾を広げていた。
「水は冷たくないか」
「大丈夫です」
葉室はおもむろに琴子の手を取った。氷の冷たさだ。
「冷たいじゃないか。お湯を使いなさい」
「冷たくはありませんけれど」
琴子は不思議な顔をしていた。指も手の甲も赤くはない。普段と変わらない色合いだ。あかぎれもなく、傷ひとつない肌をしていた。
「それでも……お湯にしたほうがいい」
葉室は歯切れの悪い言葉を口にした。わざわざお湯を使うまでもないのは知っている。水の冷たさを琴子の感覚器が受容することはない。冷水でひびが割れるような肌でもなかった。
だが、そうするべきだと心が囁いた。普通の人間が行うことをさせなければ不自然だ。今まであまり気にとめていなかったことに彼は深く後悔した。
「わかりました」
葉室はバケツを片付ける娘に背を向けた。テーブルの上にビーズの指輪が置かれていた。馨にもらったと言っていたものだ。水仕事をするために外しているのだろう。
「行ってくる」
用事を済ませたら買い物に行くことにした。
「ただいま」
玄関に入るとユーカリの香りが漂っていた。リビングだけでなく家中を掃除した形跡がある。
「おかえりなさい」
夕暮れの中で琴子は読書をしていた。
「じきに暗くなる。カーテンを閉めなさい」
「もう少し、みんなに光を当ててあげてもよいですか」
琴子は本を閉じて窓の外を見た。赤い空は一瞬ですぐに青黒くなる。ほんの数分の時間を彼女は望んだ。
「構わんよ」
玄関先に荷物を置き、葉室はエアコンの電源を入れた。まだ室内に暖かみはあったが、陽が落ちれば急に冷え込む。ほどほどの温度設定をして植物たちの寒さを和らげてやる。あまり温度を高くすると春と勘違いして芽吹く場合があるからだ。
琴子がカーテンを閉めた。葉室は光量を落とした照明をつけた。
「琴子」
葉室は咳払いをしてデパートの買い物袋を娘に差し出した。喉にいがらっぽさを感じた。緊張しているのだと気づいて顔をしかめた。
「お前にだ」
「何でしょう」
袋から箱を取りだした琴子は戸惑っていた。ラッピングされた包装紙をどうすればよいかわからないようだ。
「開けていい」
父親に促され、琴子は丁寧にリボンと包装紙を解いていく。
「あ」
箱を開けると紫色のフレアコートが収まっていた。
「外はまだ寒い。出かけるときはそいつを着たほうがいい」
琴子は薄着で出歩くことが多かった。本人が寒くないといっても他人から見れば不自然だ。奇異の目で見られることもあったはずだ。
もっと早くそうしていればよかったと思う。馨が琴子にあげた指輪に気づくまで、娘に何かプレゼントするなど念頭になかった。バケツの水もそうだ。娘をちゃんと見ていれば普通と違うことは明らかなのに今まで気づけないでいた。
情けないと思う。父親としての自覚が足りなかったのだ。
「お父さん、ありがとう」
フレアコートを羽織った娘の愛らしい笑みに、葉室は少しばかり救われた。
「そうだ、お父さん。教えて欲しいことがあります」
「なんだ」
琴子が先程読んでいた本を持ってきた。ハーブの辞典だ。彼女の愛読書と言ってもいい。時間があるときはたいていこれを読んでいる。
「ユーカリはコアラの食べ物と書いてあるのですが、コアラとは何者でしょう。動物らしいのですが」
「忘れてしまったのか?」
琴子が小さい頃に動物園で見たことがある。物心がつく前だったろうか。覚えてなくても無理はない。
「コアラというのは……」
葉室はコアラの生態について話そうとしたが、別の考えを巡らせた。
「見に行きたいか?」
「どこかで見られるのですか。是非見に行きたいです」
葉室の提案に琴子は喜びを隠しきれなかった。
「よし、明日にでも行くとしよう」
仕事はまだ残っていたが、急ぐものはなかった。それよりも琴子が喜ぶことをしてやりたくなった。
彼女の笑顔がある限り、父親でいられそうな気がした。