拘束
足に痛みが走った。驚いて足を引いたらバランスが崩れた。
「いたた」
尻餅をついた衝撃で頭が真っ白になった。視界が戻ったとき、馨は様変わりした光景に言葉を失う。
地面が隆起していた。耕されたばかりの畑の光景だ。やわらかい土の畝が盛られ、無軌道に波打っている。農作物を育てるように規則正しく並べられてはおらず、縦横無尽に掘り返されていた。
畝の中に何かを見つけた。細長く茶色い物体がいくつも蠢いている。畑と言えばミミズを思い出すがこれは違う。大きさも質感も異なる。
「ひっ」
そのうちのひとつが馨の足首に絡みついていた。ブーツの上から締め上げていたのは、直径数センチはあろうかという根っこだった。植物が自分の意思で動くわけはないから怪の仕業に違いない。
植物の根は枝葉の広がりと同じ範囲で地中にも伸びている。馨が見上げると頭の上に枝があった。クスノキの間合いに踏み込んでいたのだと気づく。
馨は足を引っ張って拘束を外そうと試みたが、彼女の動きに合わせて根が伸縮を繰り返した。逃がしてくれないばかりか、遊ばれているようにも思えた。
「なんなのよ!」
覚悟を決めた。逃げるのが無理なら立ち向かうしかない。湧き上がる恐怖を押さえ込み、怒りに変える。思い通りにはならない。空気中に漂っていたセージの残り香が馨の心を鼓舞する。
ブーツの踵で根っこを蹴りつけた。こびりついていた土と根の表皮がずるりと剥けた。皮に覆われた白い肉が剥き出しになる。根っこは外れない。よりいっそう締め付けがきつくなり、馨の顔が歪む。
転んだときに落とした霧吹きが手に触れた。思い切り背筋を伸ばすと指先が引っかかった。
腹筋しながらストッパーを外した。両手でつかんで構える。至近距離で噴出口を根っこに突きつけた。狙いを定めるまでもない。
『ぐわっ』
傷ついていた根にアロマウォーターが滴った。ゼラニウムのエキスが染み込み、怪は怯んだ様子を見せた。人間で言えば傷口に塩をすり込む行為だ。
「効いた!」
足首の拘束が緩んだことで馨は喜び勇んだ。ブーツで何度も蹴りつける。自分の足も蹴ってしまったが、痛みをこらえて必死にもがいた。何度目かでようやく足を引き抜くことに成功する。
ブーツの上からとはいえ、相当な力が加わっていた。解放はされたものの、足首がずきずきと痛み、立ち上がることができなかった。這って逃げようにも地面がでこぼこしており、畝を乗り越えるのに手間取った。
『逃げられると思うな』
地鳴りのような声が轟いた。人の腕ほどもあろうかという太い根が波打ち、土まみれの根が馨の腿に巻き付いた。
「ああっ」
先程までが遊びであったかのような力で引きずられた。口に土が侵入して嫌な味に唾を吐いた。指が地面を掻いた。やわらかい土肌は抵抗感がなかった。左手のピンキーリングが土に汚れ、色を失った。
『お前が起こしてくれたのだろう? そう脅えるな』
クスノキの枝が垂れ下がり、馨の腕に絡みついた。
動きやすいようにとダウンベストを選んだのは失敗だった。ジャケットの上からだったら腕の痛みはもう少しマシだったろうにと、奥歯を噛み締めながら馨は思った。
しなっていた枝が戻り、吊しあげられた。枝と根に捕縛され、クスノキの幹に引き寄せられる。
「脅えてなんかない」
痛みに耐えきった。今度は落とさずにいられた霧吹きの引き金を引く。アロマウォーターがクスノキの枝に命中する。
クスノキは枝を揺らして身悶える。それだけだった。拘束は緩まない。
『効かんな』
怪も人間と同じで我慢ができるということだ。報復とばかりに締め上げられ、馨は関節が外れそうなほどの激痛に悲鳴を上げた。
『ふむう。お前を器にしてみようか』
「うつ……わ?」
その言葉が何を意味するかわからない。ただ、良い印象は持てなかった。
乾いた音がした。クスノキの怪が現れる前に聞いた音と同じだ。
クスノキの幹は縦に筋の入った樹皮に覆われている。細長い鱗をまとっている姿と言ってもよい。ひときわ深い割れ目のひとつが左右に裂け始めた。音は鱗が弾けるたびに鳴っていた。
「ちょっと」
嫌な予感がする。時間が止まれば良いと切実に思った。だが、裂け目は徐々に広がった。
やがて避け目の奥から粘つく物体が現れた。人間の頭ほどの大きさだ。
「いやあ!」
ダニだった。
クスノキの葉の葉脈にはダニ部屋という部位がある。そこには例外なくフシダニが住んでいる。幹から顔を出したのはまさしくフシダニの姿をしていた。これがクスノキの怪の正体であった。
馨は吐き気を催した。化け物の姿を直視できない。
『俺の姿が嫌か。見たくないか。ははは、駄目だ。こっちを見ろ。俺を見るんだ』
枝を震わせ、根を揺すり、クスノキの怪は哄笑した。嫌がる馨をからかうのが楽しくて仕方がない様子だ。
「やめて、お願い」
馨は頬を撫であげる葉から顔を背けた。運悪く持っていたクスノキの知識が葉とダニの関係性を強く意識させる。
「よけいなことをするな。そう言ったはずだ」
男の声が割って入った。
『なんだ、お前は』
「助けて!」
ふらりと現れたコート姿の男にクスノキの怪は恫喝し、馨はなりふり構わず助けを求めた。
男は手にしていた鞄を置いた。鞄から顔を出していた子猫が場違いなほど可愛らしく鳴いた。