灰色の天使
前の話から間が開いてしまいましたが、ようやく最終章です。
あの日、あの時――
冷たい痛みに貫かれたのが始まりだった。
冬の空気が喉に貼り付いた。乾いた風はひびを作り、血と肉を引き剥がした。
肺が悲鳴を上げ、激しい咳が出た。唾を飲み込んでようやく呼吸ができるようになった。
安堵したのも束の間、再び冷気が入り込んできた。呼吸が乱れるほどの咳が連続する。血の味が舌に乗った。
もう入ってこないで。
声は、音にならなかった。苦しくて目を閉じた。強張った身体を縮めると、ぎりぎりと関節が軋んだ。
マフラーで口元を覆い、冷気の侵入を防いだ。何度か呼吸を繰り返し、肺が落ち着くのを待った。母からもらったマフラーは外気を遮断し、あたたかい空気を作ってくれた。ささくれた痛みも溶け始める。寒さも和らいだ気がした。
そんなこと、あるわけがなかった。
冬空はそこにある。消えてなくなったりしていない。身体が慣れただけで、耳や目蓋の感覚は寒さで麻痺していた。
手を動かすと関節がぱきりと鳴った。手袋がなくなっていた。靴も片方脱げている。それなのに、折り目正しいスカートの裾も、素足の肌も震えていなかった。
耳や目蓋だけでなく他の部分も寒さをほとんど感じない。過保護に守られた口元だけ、温度を感じた。あたたかさを手放すまいと抗っていた。
異様な熱が下腹に存在していることに気づいた。触れてみたが、指先は体温を見つけられなかった。腹のほうでも、指先の温度がわからなかった。触っているという感覚はあっても、無機物に触れ、触れられているような感覚しかない。
なに、これ。
しばらくしてはたと気づいた。熱を発しているのは、身体の内側だった。普段、心臓の脈動に耳を傾けることがないのと同じで、意識を向けて初めてわかった。
気持ち悪い。
異物感は卵のようだった。硬い殻に覆われて、腹に入っている。吐息で濡れたマフラーより不快だった。妊婦が赤ん坊を思うとき、胎内の我が子を愛おしく感じるというが、この異物に対して愛着は抱けそうもない。
きっと何かの病気だ。医者に診せれば解熱剤を処方してくれるだろうし、手術で取り除いてくれるかもしれない。すぐ病院に行こうと考えた。
目を開けると、空が動いていた。
雪だ。
純白の羽根が灰色の空を舞っていた。天使の翼から抜け落ちたやわらかい羽毛がふわふわと漂う。目には見えない天使たちが羽ばたき、くるりと旋回した。
風が唸り声をあげても、天使たちは笑いさざめき踊りを踊る。羽根は上下左右に千切れ飛ぶ。地面に落ちた羽毛も舞い上がり、再び混ざり合って渦を巻いた。
激しくも美しい光景だった。夢の中に迷い込んだようだ。
見とれていた目に小さな羽根が飛び込んできた。痛みや冷たさより驚きが大きかった。幻ではないとわかったからだ。
現実感を取り戻すと、地面に横たわっていることに気づいた。どうして倒れているのか思い出せなかった。力も入らない。激しい運動をして身体を酷使した後のような疲労感がある。
起き上がろうとして下腹に力を入れたとき、体内の卵が蠢いた。気のせいと思ったが、意識すればするほど、異物感が際だった。
赤ちゃん?
そんなこと、あるわけがない。
「……助けて」
怖い。自分の身体から逃げ出したくなる。鳥肌が立つ。
恐怖におののきながら、首を左右に巡らせた。右手に屋根の天辺が見えた。草と土の臭いがする。視線をさらに横にずらすと雪に埋もれた芝生があった。反対側も同じだ。ただ、遠くまでずいぶんと開けていて、家やビルが向こうに見えた。
風景には見覚えがある。毎日通い慣れた河原の土手だ。通学の途中ということがわかり、少しほっとした。
安堵した途端、腹の異変が再度存在を主張した。熱がさらに温度を高めた。頭がぼやけ、視界がねじくれた。病気で発熱した時のぼんやりとした感覚に包まれる。見えない空気に何層にも包まれて、繭の中に押し込められたようだった。
「誰……か……助け」
声が間延びした。欠伸が出る。
眠い。
睡魔が襲ってきた。
風のやんだ空から雪が落ちてきた。一枚がまつげに触れた。まばたきすると、涙に変わった。
細い息を吐いた。マフラーにまとわりついた温度が感じられなくなる。
もうひとひらの雪の羽根。
今度はなかなか溶けず、みぞれ混じりの涙になった。腹の熱と相反して、体温が低下していた。
名前を呼ばれた。
だれ。
首を持ち上げて呼び掛けに答えようとしたが、唇がひゅうと鳴ったきり音は出なかった。
白が増えてくる。羽毛が次々に重なり、制服が白く染まった。手足と頬も同じ色に近づいていった。
また、呼ばれた。
返事をする力はもうなかった。
パパ……ママ……。
両親の顔が浮かびあがった。
耳鳴りがする。きーんという音が頭の中に乱反射した。
誰も助けに来てくれない。このまま一人で凍え死んでしまうのかもしれない。
先月読んだ本を思い出した。山で凍死した人間の話だ。寒さで死ぬ直前、人は暑さを感じると書いてあった。腹の熱は暑さと似ていた。
死を考える。死ぬなんてことは、今までずっと形のない想像の領域だった。それが今、じわじわと形になり始めた。恐怖が滲み出し、密度を増してくる。
突然、色のついた姿が視界に飛び込んできた。墨のように青黒い髪、薄桃色の頬、そして赤いマフラー。灰色と白の世界に色鮮やかさが差し込む。
マフラーは端がほつれていた。ついこの間、母にプレゼントしたものに似ていた。歪な出来は自分が編んだものに違いなかった。
顔に積もった雪が払われた。引きつった母の顔がよく見えるようになった。母の唇が動いていた。何度も同じように動いていた。名前を呼ばれているのだと直感した。応えようとしたが、あいかわらず声が出なかった。
上半身を抱えられた。母の手が腕をさする。
「……マ……マ」
凍りついた身体が少し溶けた。
「琴――」
感覚の失われていた身体に圧力を感じた。耳たぶがじんじんとして、音がよみがえってくる。
「琴子!」
頬に母の頬が触れた。必死にあたためてくれていた。
「ママ……」
母の目が見開かれた。
「これは……あなた、憑かれてしまったのね」
母の指が唇を拭った。指先が黒い。
「妖に」
「あや……かし」
妖。
ゆっくりと言葉が染み入ってくる。頭の中にある知識と符合して、ようやく理解できた。異様な熱の正体がはっきりと形になる。
背筋が凍った。
「妖……なんで……」
驚きが過ぎると恐怖が湧き起こった。しかし、それはすぐにしぼんだ。熱病の原因が未知の病気ではなく、既知の異物に由来するものならば心配することではない。父は、妖を退治する仕事をしている。父に任せれば、病気よりも早い快復が見込める。薬も手術も必要ない。
「啓介さんに……ですけれど」
母は父の名を口にしてすぐに黙り込んだ。
「この妖は、難しいです」
やわらかくて丁寧な物言いだった。普段は気にならなかったが、このような状況では空恐ろしく感じた。
「パパなら大丈夫でしょう?」
母は父の手腕を知っている。なのに、今にも泣き出しそうな顔で、奥歯を震わせていた。「大丈夫ですよ」と応じながらも、視線をさまよわせていた。
「私が」
思案する顔で母は指を舐めた。黒い汚れが口の中に消える。その行為を目の当たりにして息を呑んだ。母は娘の様子に気づかないで、言葉を継いだ。
「私がどうにかします。……ちょうど良かったとも言えますし」
微笑んだ母が、母ではない気がした。
「よく聞いてくださいね」
まっすぐに見つめてくる目が冷たく冴え渡っていた。冬の冷気を含んでいるかのように。
「あなたには負担をかけることになるでしょう。ですけれど、耐えてくれますね」
「負担……耐える?」
声がかすれた。唾を飲み込もうとしても、うまく喉が動かなかった。
「少しの間、我慢してほしいのです。この子のために、お願いです」
母は視線を下げた。顔を上げたとき、母は口を引き結んでいた。
この子って、誰?
問いかけは封じられた。母の指が口にねじ込まれた。
「ごめんなさい。私を恨んでよいです。憎んでくれても」
母は何かを口に含んだ。甘く、爽やかで、スパイシーな香りがした。嗅いだことのない匂いだった。
「これはアンジェリカ。天使のハーブとも呼ばれているものです」
母は顔を近づけてきた。唇が開き、口腔が覗いた。そこにあったのは闇。母が舐めた黒い汚れと同じものだった。
「琴子、覚えておいて。もしも……もしもですけれど――」
何か言っているようだったが、琴子の耳には入らなかった。歯の間から割って出てきた闇に目を奪われた。
黒い塊がぬるりと動いた。それが、近づいてくる。
すでに逃げる術は失われていた。
悲鳴の上げ方がわからなかった。




