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人形師の庭園  作者: あると
薄紅葵
31/48

美味なる惑い

真夜中の街灯に照らされて、蛾の輪舞が地面に映る。目まぐるしく舞い踊る影にあわせ、砂利石が踏みしめられた。まるで伴奏のように一定のリズムが刻まれた。

音は軽い。子供かあるいは野良犬が敷き詰められた石の絨毯を歩いているようだ。

だが、どちらも不自然だった。夜更けに子供が出歩いているわけもなく、人の多い街中に野良犬が徘徊するわけもない。

足音は駐車場の奥に消えた。トラックと営業車が整然と並んでいる会社の敷地内だ。

ドアミラーに一瞬だけ髪が映り込む。白いブラウスがそよ風に揺れていた。音の主は、子供から抜け出そうかという年齢の女の子だった。

葉室琴子は車の間を縫うように進んだ。緑色のフェンスに行く手を阻まれる。左右を見回して、最後に足元を見た。澄んだ眼球にタンポポの綿毛が映り込む。

琴子はスカートの裾を抑え、膝を折った。綺麗に整えられた爪の先で綿毛をくすぐる。タンポポの葉が気持ちよさそうに震えた。琴子は頬を緩めた。

「良い風が吹くのを待っているのですか」

語りかけ、目礼した。願いが叶えられることを祈る。

琴子はウェストポーチから霧吹きを出した。園芸用のスプレーだ。

プラスチック製の握りを絞り、濃縮された香りを撒いた。

細かい霧が街灯の明かりに照らされて虹を作った。清涼な香りが生温い初夏の空気を洗う。

香りの源はセージだ。

ハーブのエキスを抽出し、キャリアオイルに溶け込ませることで精油ができる。それをさらに水と混ぜ合わせることで、香りを包含したアロマウォーターになる。通常、臭い消しなどに使われるが、琴子の目的は違った。

砂利石がかたかたと音を立て始めた。

琴子は一歩も動いていない。夜の駐車場にも、彼女以外の人影はなかった。

じわり。

黒が染み出てきた。砂利石が黒い液体に埋もれた。石がこすれあい、音を発生させていた。

すぐにやんだ。タールのように粘つく液状物質が、砂利を包み込んで大人しくさせていた。

駐車場は雨後の水溜りに変わる。

水が跳ねた。宙を飛んだ雫は球になり、饅頭型になり、水滴型になった。ぶよぶよと変容する球はやがて水面に着地した。緩慢な動きで水溜りに吸い込まれ、じっくりと時間をかけて同一化した。

粘つく黒い物質。

怪の出現だ。

琴子は怪を退治するために匂いを撒き、眠っていた奴らを目覚めさせたのである。

異様な気配を危険と察知したのか、街灯にまとわりついていた蛾は消えていた。

琴子の身体がぐらりと揺れた。

「……」

軽い目眩がした。

最近、こういうことが多かった。身体が不調なのかと思い、父親に調べてもらったこともあるが、異常は発見されなかった。

どういった時に起こるか思い返してみると、決まってセージの匂いを嗅いだ時だった。すなわち、怪を誘い出した場面だ。

そのことは父に言っていない。隠そうとしたわけではなかったが、心配しすぎる気がして口にできなかった。

地面に染み渡った怪が琴子ににじり寄ってきた。砂利の隙間から、車の下から止めどなく集まってくる。知能の低い怪でも、これだけ集まると骨の折れる仕事になる。

琴子はサッシュベルトに触れたものの、目眩が影響したのか、心にも迷いが訪れていた。いくつかある精油瓶のうち、二つの瓶を指先が行き来する。

ひとつは天竺葵ペラルゴニウム。甘い香りを放ち、怪や妖を駆逐する力を秘めている。

ひとつは麝香草タイム。安眠をもたらし悪夢を退ける効果と共に、勇気を与えてくれるハーブだ。

迷っているうちに、黒い池となった怪が大きな動きを見せた。真ん中あたりが膨らみ、ぷるんと震えた。巨大なコーヒーゼリーができあがる。

そいつは、琴子を認識した。

二つに一つの選択はペラルゴニウムに軍配があがった。琴子は精油を両手にこすりつけて肌に馴染ませる。

怪が匂いを感じ取って震えた。ハーブの香りが自分を脅かすと気づいたようだ。

琴子は逃げようとするゼリーに駆け寄り、手を添えた。指がゼリーの中にすいっと入り込むと、黒光りする軟体が弾けた。飛び散った破片が琴子の顔を汚す。

後退するゼリーに追い打ちをかけ、彼女の手はみるみる怪を破壊していった。細かく砕けた怪は力を失い、砂利に吸い込まれて消えた。

無事に仕事を終えて、琴子はほっとした。ハンカチで手を拭き、精油と怪の汚れを落とした。

口元に違和感を感じ、指先で拭った。

それが間違いだった。

ゼリーの残りかすが唇に染みこむ。歯と歯の間を通り、舌に触れた。

世界が弾けた。

頭の中がぐるりと回り、視界が明滅する。

星空が足下に、砂利石が頭上に浮いた。回転。

身体が横に倒れた。半回転。

髪が巻き上げられ、空から落ちてきて、顔を覆う。

ガラス瓶の割れる音が重なる。

香りが散り、いくつもの匂いが溢れた。甘く涼やかで、濃厚さと爽やかさを伴った香気が淀んだ空気と綯い交ぜになる。

精油瓶の破片が頬に刺さっていた。皮膚を裂き、体内に潜り込んでいる。ペラルゴニウムが伝い落ちた。

痛みは感じない。血も流れない。

ガラス細工の目が緑のフェンスを見る。

タンポポの綿毛が夜風に吹かれて舞い上がった。

舌が動いた。

「……味がする」

琴子はほとんど味覚を感じたことがない。どんな食べ物を口にしても濁った感触しか知らない。だが今、輪郭のはっきりした刺激が舌を惑わせていた。

黒いゼリーが舌を転がり、喉の奥に落ちた。

嚥下する。

黒い影が眼球を染める。

琴子は初めてある言葉の意味を理解した。

「おいしい」

まばたき。

影が消えた。

あるいは吸い込まれた。

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