匂いの儀式
中学校の体育館裏は高いフェンスと植樹された木に遮られて街灯の光が弱い。雲間の月も細く、数メートル先の色も判別できなかった。
千草馨は懐かしい雰囲気にしばし心を漂わせる。
十年前のあの日、ここではない母校の体育館裏で男子に告白した記憶がよみがえる。甘酸っぱい思い出といえば聞こえはいいが、涙の塩辛さのほうが勝っていた。
あの子はここの生徒だろうか。
馨はガーデンショップに訪れた少女を脳裏に浮かべた。変わった娘だった。あれから何度か買い物に来てくれた。ハーブの栄養剤や腐葉土の下に敷いて水はけを良くするパーライトを買って行った。
趣味でガーデニングをするにしては頻度も、購入する量も多い。種類も多岐にわたっている。
彼女の家はハーブを必要とする仕事をしているのではと考えた。街のショップで買うより専門業者のほうが安く仕入れられるはずだが、営業に影響が出そうなので口にしていない。彼女との他愛のない会話も楽しみにしていた。
二人は年の差こそあったが、今では友だちと言える間柄だ。琴子は初めて会ったときより表情が柔らかくなっていた。心を開いてくれた気がする。
琴子の植物に関する知識は驚くほど豊富で、馨が知らないことも多かった。特にハーブの造詣が深い。本に載っていないことも彼女の口から飛び出ることがあった。
馨は頬を撫でていた風が弱まったのを感じた。
「さ、始めよう」
風は完全に凪いだ。待っていた時が訪れる。
馨は数枚の紙を丸めて玉を作った。紙にはあらかじめ精油を染み込ませてある。今回の精油はセージを主な成分とし、レモンを加えた配合だ。初めての調合になるため、怪にどれほど作用するかわからない。奴らの好みに合わなければ徒労に終わるが、クラリーセージより強い成分を持つセージを使っただけに期待はある。
クラリーセージとセージは名前こそ似ているがまったく別種のハーブである。クラリーセージは気持ちを穏やかにさせ緊張をほぐす効能を持っている。怪を誘い出すのに向いていた。
それに対してセージの清冽さは頭をすっきりさせる効果がある。眠っている怪を目覚めさせてみようと馨は考えた。
そのために匂いを拡散させる手法も変えてみた。
匂いは粒子である。風向きと強さによってどこまで届くかが変わる。匂いが広範囲に飛散すると、思いもよらない事態を招くおそれがある。風がやむのを待ったのはそのためだ。紙に匂いを沈着させておいたのも同じ理由だった。
馨は土が剥き出しになった地面に匂い紙を配置した。店にあった百円ライターに火をつける。匂い紙にか細い炎を近づけると、オレンジ色の種火が燃え移った。乾燥していた紙はあっという間に灰になった。
清浄な香りが炎に煽られて舞いあがった。
天上の神様に香りを捧げる。
崇高な意識を持ち合わせていない馨でも、厳かな気持ちになる儀式だ。
パキッ。
乾いた枝をへし折るような音が反響した。
「来た」
思いの外早かった。霧吹きを持つ手に力が入る。
樹木がざわつき始めた。風で枝葉がなびくのとは違い、何者かが揺らしているような騒ぎが起きる。
周囲には何種類かの木々が植えられていたが、不気味に蠢いているのは高さ十メートルを越えるクスノキだけだ。他の樹木たちは静かに葉を垂らしている。土の地面から怪が現れる様子もない。怪が潜んでいるのはクスノキに違いなかった。
木に宿る怪がどんな姿をしているのか、馨は好奇心よりもそこはかとない不安を感じた。植物を依り代にする怪は初めてだ。道路や地面から姿を現す怪とはどこか違う。だんだんと手の中の霧吹きが頼りなく思えてきた。
『お前か』
地の底から声がした。馨の心臓の脈動が激しくなる。
『俺を呼んだのはお前か』
どこからか人の言葉が投げかけられた。
「誰なの」
あたりに人の気配はない。怪が言葉を発したとしか考えられなかったが、馨は誰かに否定されることを願ってしまった。
今まで知性を持った怪に出会ったことはない。微生物のようなシンプルな生命体がすべてだと思っていた。馨は緊張した心からにじんでくる恐怖を押さえつけた。匂い紙の燃えかすが風に揺れ、身体が過敏に反応した。
『この匂い』
地面が揺れる。
『俺の好みだ』
馨は身の危険を感じて腰を引いた。
逃げよう。
無責任なことはわかっている。だが、呼び覚ましてしまったものが自分の手に余ると直感した。
よけいなことをするな。
いつか出会った男の言葉がよみがえった。